逆境をも利用した男  小林一三(1873~1957) 

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小林一三は1973年(明治6年)、山梨県韮崎に生まれた。生来の文学少年で、慶応義塾大学に進んでからも、三田の学生寮で発行していた機関誌の編集で主導的な役割を果たした。機関誌への補助金を得るために大学当局と交渉するなかで、小林は福沢諭吉の薫陶を直接に受ける。後に発揮されることになる「独立独歩」「反権力志向」の精神が大きく育まれたのは、この時期である。

卒業後の進路として、一時は文筆業を考えたこともあったが、結局当時の三井銀行(統合を経て現在は三井住友銀行)に入行し、本人の言によれば「平凡な銀行マン」として10余年を過ごす。

起業家、小林一三の誕生

転機が訪れたのは1906年(明治39年)、初めは三井銀行大阪支店長として出会い、その後の小林の人生に最も影響を与えた北浜銀行頭取の岩下清周、および三井物産の重役であった飯田義一の誘いに乗り、大阪初の証券会社の立ち上げに参画すべく三井銀行を辞したときだ。

しかし、あえなく折からの株価大暴落により、この計画は頓挫する。「浪人」となった小林は、岩下と飯田の紹介により、阪鶴銑道の役員に納まった。

その後まもなく、小林が中心となって立ち上げたのが、箕面有馬電気軌道株式会社、後の阪急電鉄である。会社の設立が1907年10月、実際に営業を開始したのは1910年3月のことであった。

創業時の苦労は並大抵ではなかった。いまでこそ関西随一の私鉄として、その沿線に居を構えることがステータスにすらなっている阪急だが、当時の箕面や有馬はひなびた山間地にすぎなかった。さらに不況期であり、そうした田舎を根拠地とする企業に金を出す投資家もいなければ、入社しようとする優秀な社員もいない。小林は三井関係の知人などを頼って、何とか資金と資財調達の目途はつけたものの、信頼できる社員を集めることには苦労した。

窮余の策として考えたのが、ほかの企業とは異なる基準で学生を雇い、小林が直接社員を教育するやり方であった。一人前に育て上げるまでには時間がかかったが、育った人材が後の阪急を支えることになる。「必要は発明の母」ではないが、バイタリティとユニークな発想・手段で困難を乗り切った経験は、小林に自信と、事業を成功に導くためのヒントを与えた。

小林は阪急電鉄を皮切りに、宝塚歌劇団、阪急百貨店などを創設して成功を収める。後年は請われて東京に単身赴任し、東京電燈会社、東宝の社長、第二次近衛文麿内閣の商工大臣などを歴任した。

顧客や補完者の視点に立つ

現代に生きる我々にも参考になる、小林の起業家としての成功の秘訣をまとめると、以下のようになるだろう。

・他人の思いつかない、時代の一歩先を行くアイデアを次々と試す。しかも、自らの逆境を逆手に取ったものが多い。
・無駄な支出は排し、損益をきわめて厳しく管理する。

前者は「人が思いつきにくいこと」であり、後者は「やって当たり前のこと(しかし、通常の経営者にとってはなかなか難しいこと)」である。これらを両立させたところに小林のすごさがある。後者の堅実経営は、小林の銀行マンとしての経験による部分が大きいと想像される。

小林の独創性や見識の高さを明らかにするために、前者についてもう少し詳細に見ていくことにしよう。

小林が活躍した頃は、おそらくアメリカですら、「マーケティング」という言葉は定着していなかっただろう。そうした時代に小林は「顧客の視点」、さらには「補完者(※1)の視点」に立って先進的なアイデアを創出し続けた。

具体的には、沿線に百貨店、駅ビル、歌劇団をつくることで、顧客や補完者(このケースでは飲食店や土産物屋など)にとっての魅力度を高め、事業拡大のグッドサイクルを回した。つまり、人々は買い物がしたい、あるいは歌劇が見たいから、阪急電車に乗る。電車の利用客が増えると、買物客や観客が増え、車内広告などの費用対効果も上がる。こうして、好循環が生まれるというわけだ。

さらに、沿線での建売住宅の月賦販売、車内中吊り広告なども、すべて小林が最初に行ったものだ。当時画期的だったこれらのマーケティング手法は、慣習にとらわれずに、顧客の利便性や有効な訴求方法を考えた結果である。

企業にキャッシュをもたらすはずの顧客の視点に立てず、供給者側の論理で経営している、あるいは、業界構造を補完者までも含めて俯瞰的にとらえ、今後の勝ちパターンを描くことができない…。いまなお、そうした企業が多いことを思えば、小林の先見性には脱帽せざるをえない。

競合戦略においても、小林は時代を先取りしていた。それは、競合と正面衝突するのではなく、棲み分けや差別化を図ることで、良い意味でのライバルとして業界を共に盛り上げる、という発想である。阪急百貨店の展開にあたり、地元の商店街と共存共栄の道を探ったところに、小林のそうした意志が表れている。あるいは、宝塚歌劇団のように、ニッチ市場をいち早く見出しそこでオンリー・ワンになる。こうした「競争」に対するセンスもまた、小林の先進性を語るうえで避けては通れない。

弱みを強みに変える逆転の発想

逆境を逆手に取って利用することも、小林にとっては自家薬籠中のものである。宝塚歌劇団設立のヒントとなったのは、大阪の三越呉服店で人気を博していた少年音楽隊であった。唱歌隊を若い女性のみで編成し、日本発の少女オペラとすれば、話題性が得られる。おそらく同時に、当時は女性の役者はまだ少なかったため、潜在能力の高い役者(生徒)をほかの団体と競合することなく採用でき、コストを低く抑えられたこともあったのだろう。そうして生まれた宝塚歌劇団は唯一無二の存在として、現在でも多くのファンに支持されている。

郊外路線で建売住宅を販売した際には田舎であることを逆手に取って、「綺麗で早うて、ガラアキで眺めの良い涼しい電車」に乗って通勤や通学ができる、という車内広告も行っている。

こうした発想を現代の経営学で説明すれば、だれもが「弱み」と考えていることを「強み」に転じる、あるいはだれもが「脅威」と見なすことを「機会」ととらえることにより、新たな事業機会を創造するという、SWOT分析(※2)の活用事例となる。

これまで解説してきたことは、どちらかと言えば戦略論に属する話だ。小林一三のような人材を育てるためには、まず、こうした経営のサイエンスを広めていく必要がある。それと並んで必要なのは、小林のような行動力やエネルギーを持たせることだ。そのためのヒントはないだろうか。

面白い事実がある。顧客を第一に考え、競合企業とも良いライバル関係を築こうとした小林だが、こと相手が官立事業(官営鉄道)となると、ライバル心をあらわにし、時には自社の優位性(綺麗、快適など)を誇示することさえあった。また、日頃から「役所の世話にはならない」と公言し、役人におもねるところがなかった。現代で言えば、ヤマト運輸中興の祖である小倉昌男氏に通じるものがある。

銀行員時代には平凡なサラリーマンであった、という点も興味深い。銀行組織の枠組みを離れて機会を得、苦難を乗り越えた経験こそが、彼を傑出した起業家に育てたのである。

21世紀の小林一三を生み出す一つの手法は、(仮想の)敵に対して「負けてなるものか」という反骨心を持つ人間、あるいは間近の脅威に対する危機感を強く持つ人間を見出し、若い時期から権限と責任を伴う機会を与えることだと筆者は考える。そうした機会が与えられず、組織の柵の中で日常業務を漫然とこなしながら年齢を重ねていけば、志のある人物であっても、エネルギーレベルが落ち、長いものに巻かれるようになる。

要するに、「出る杭を打つ」のではなく、「出る杭こそ利用する」「出ない杭は引き出す」といった発想の転換が、企業に求められているのだ。そして、埋もれている有能な人材が表舞台に出てくるように、あえて社内にコンフリクトを生み出し、そこで醸成された反発心をエネルギーとして利用するくらいのしたたかさを、経営者は持つべきではないだろうか。

※1
補完者:パソコンのハード・メーカーとソフト・メーカー、あるいは自動車メーカーとガソリンスタンドのように、顧客に提供するベネフィットを互いに補完しながらともに成長していく関係にあるプレーヤーを指す。パソコンのOS市場をマイクロソフトが制圧できたのは、同社のMS-DOS、あるいはWindowsが事実上の業界標準となった事により、補完者であるソフトメーカーや顧客にとっても、マイクロソフトのOSを採用したほうが有利になるという状況が生まれたからである。
※2
SWOTとはStrengths(強み)、Weaknesses(弱み)、Opportunities(機会)、Threats(脅威)の頭文字を取ったもので、環境分析のフレームワークとしてよく利用される。

参考文献)
小林一三『小林一三全集 全7巻』 ダイヤモンド社、1961年
小林一三『私の生き方』 阪急電鉄総合開発事業本部コミュニケーション事業部、2000年
小林一三『逸翁自叙伝』阪急電鉄総合開発事業本部コミュニケーション事業部、2000年

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