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外資系大企業から糸井事務所CFOへ 「ほぼ日」の魅力とは?

投稿日:2015/09/01更新日:2021/12/09

愛されるロングセラーを生み出し続ける組織作り[1]

42616b6648cdc87100bb47a00a4c885e 篠田真貴子氏

篠田真貴子氏(以下、敬称略):私は今、「ほぼ日刊イトイ新聞」(以下、ほぼ日)を運営する東京糸井重里事務所(以下、糸井事務所)に在籍している。ほぼ日をご覧になったことのある方はどれほどいらっしゃるだろう(ほぼ全員挙手)。分かりました。では、ほぼ日の説明は飛ばし気味に、それ以外のお話をじっくりしていきたい。今日お話しするテーマは3つ。まず私自身の生い立ちと糸井事務所に入るまでのキャリアを簡単にご紹介したい。で、次に糸井事務所が何をしているか。そして3つ目は本セミナーのメインタイトルにもなっているお話だ。どのようにして価値を生みだし、ロングセラー商品を含むさまざまなコンテンツを生みだし続けているのか、私の見解をお話ししたい。

私は1968年に新宿区で生まれ、新宿区で育った。そして5歳のとき、親の転勤でカリフォルニアに移り、そのあと日本に戻って中学からは慶應に通っている。だからずっとお嬢ちゃま育ちだったのだけれども、高校時代には1年間、交換留学でアメリカの、今度はオレゴンのむちゃくちゃ田舎な町で1年間暮らした。人口2500人ぐらいの、もう地平線が広がっているような土地だ。都心で育ち、高校の頃はチャリンコで六本木まで遊びに行っていた16歳が、そういうところに放り込まれた。だからアメリカと日本で文化の違いを知ったというより、「都会と田舎で人がこれだけ違うんだ」ということを初めて知った。そして、大学生の頃は年代的にバブル期。就職活動をしようかという頃に日経平均は最高値をつけ、まだまだバブルという感じのなかで社会人になった。そして今は夫と子どもの家族4人で暮らしている。

バブル期から子どもができるまでの期間をもう少し詳しくお話しすると、まずは大学を卒業した1991年、日本長期信用銀行(現新生銀行)に入った。で、こちらは98年に破綻してしまったけれど、私自身は経営不振の問題とは別に、まあ、今思うとバブル期に大量採用したら私みたいなものが間違って混じってしまったという感じだった。正直、銀行はあまり合わなかったというか、落第生のような感じで過ごしていた。

また、当時は雇用均等法が施行されてまだ4年ほど。だから長銀の面接でも、「あなたが総合職で受けていることについてお父様はなんとおっしゃっていますか?」なんて聞かれたりしていた。「結婚したらどうするんですか?」「子どもが生まれたら?」なんて聞かれながら就職して、でも入ってみるとサブロク協定があるから女性と男性で許されている残業時間が違っていたりしていた時代だ。でも、女性の仕事が男性より少ないわけでもなし。「すると、なにかい? 女である私は男より生産性を高めろっていうことかい?」と。「それなら全員女性を採用すればいいじゃないですか」なんて人事部に食ってかかるような、すごく生意気な新入社員だった。

最初に入った職場がそんな風に保守的だったこともある。それで私は、女性として仕事をしていくうえで、「あ、この人は仕事ができるな」と、分かりやすいラベルがないと今後すごく苦労するのではないかなと感じた。それで、大学時代の親しい先輩方が次々とMBA留学されていたことに刺激を受け、「じゃあ、私も」と。長銀の経営状況と関係なく個人的動機で退職したのち、留学をした。ただ、「銀行が合わない」と言っていた割にはその先のキャリアも金融機関を考えていて、「世銀とか、IFC(国際金融公社)みたいなところに入れたらいいな」なんて思っていた。それで、国際関係論とビジネススクールの学位を3年間で両方取得できるプログラムを見つけ、「これならどっちに転んでもいけるな」という気持ちで留学生活に入った。

そして留学をしたのち、「世銀は思ったより官僚的だから止めよう」となって、そのあとウォートン・スクールに行ったら運良くマッキンゼー・アンド・カンパニー(以下、マッキンゼー)の内定をもらえたという流れになる。ウォートンもビジネススクールのなかでは比較的良いとされている学校だし、そこでマッキンゼーの内定ももらえたということで、当時の私は周りにもすごく褒められた。それで、今から思うと本当に根拠がないのだけれど、当時の私は“イケてる感”満載な20代を過ごしていた。

あと、他のライフイベントに関してお話しすると、私は結婚後に留学している。留学の準備しているうちに結婚の機運が盛り上がって、結婚後は旦那を一旦置いて私が留学に行った。で、幸いなことに夫がそのあと同じ学校に受かって、同じビジネススクールに通っていた。ただ、そのあいだは二人とも私費だからすごく貧乏。人生のなかで一番貧乏だった時期だ。でも、いずれにしても結婚もできてビジネススクールも行けてマッキンゼーにも入れることができるということで、もう言うことなし。それで自信が完全にインフレ状態となったまま、マッキンゼーに入ってしまった。

それでも、はじめのうちは調子良くやっていた。でも、マッキンゼーは元々めちゃくちゃ優秀な人たちを集め、しかもその人たちを、「できていないじゃないか」と、けちょんけちょんに言いながら育てるような会社だ。それなのに当時の私は目が曇り、素の自分で十分やっていけると思ってしまっていた。それでへらへらと、「マッキンゼー楽しー」なんて言っているうち、努力を重ねていく周囲との相対でダメになっていく。でも、まったく気付かない。今思えば先輩方が相当厳しく忠告してくださっていたけれど、まったく自信が剥げなかった。だから当時の私からすると「ある日突然」という感じだったけれども、「次のプロジェクトで成果を出なければアウトです」と言われて、「ええ!」って。そこで初めて気が付いた。でも、その状態からはどう頑張っても挽回が難しい。それで頑張り自体は褒めていただいたけれども、結果としては「ここにいても昇格は難しいです」と、事実上の戦力外通告をされて辞めた。34歳のときになる。

そこから十数年が経った。もしかすると多くの方々は、たとえば大学進学を目指していた頃に挫折を経験し、さらにそれを乗り越えてこられたのではないかと思う。でも私の場合、振り返ってみると一定の年齢まで恵まれた環境ですらっと来てしまっていた。それで、34~35歳にして初めて自分の思い通りにいかない、あるいはこれまで得ていた評価を得られないという、比較的大きな挫折感を味わった。

それで、正直に言うと次に何をすればいいか分からない心情のまま、それでも大変ありがたいことに履歴書だけは立派だったので、採用してくださる会社があった。それがノバルティスファーマ(以下、ノバルティス)だ。で、その1年後に長男を出産した。ただ、もちろん当時の仕事も勉強にはなったし現在の仕事に生きているけれども、正直、当時の心情は「文句たらたら」という感じ。目標を失っていて、年齢的にはそろそろ子どもが欲しいなと思ったから子どもを産んだけれども、子どもに取られる時間も大きな負担に感じていた時期だった。

でも、30代半ばというと、さまざまな分野で自分と同年代の人たちがひとかどの仕事をするようになり、大企業なら分かりやすく昇格している頃だ。それで横を見ちゃう。すると、「大学時代はバカだと思っていたあの男」とか(会場笑)、「ちょっと生意気と思っていた二つ下の後輩女性」とか、どんどん花開いていく。でも、私のほうは乳飲み子を抱えて何をやっているのかな、と。それで、親しい友人にはずっと、「拘束時間が半分で、なんか面白い仕事ないかな」なんていうことをぶつぶつと言い続けていた。

そんななかで2005~2006年、私の上司だった事業部長が突然退職なさって、部長職が1年間空席になったということがある。私は37歳のときだ。それで臨時の事業部長代理をやるように言われた。当時、子どもは2歳。決して自分から望んだチャレンジではなかったけれども、結果的にはそれですごく鍛えられた。もう文句たらたら、しのごの言っていられない。それまで特にマネジメント経験もなかったし、その事業部は他社から買収されてきた部署だったのでノバルティスへの融合という課題もまだ残っていたけれど、その役割を引き継いだ。それで組織内の課題と営業目標の達成という課題の両方がいきなりふってきた。そういう責任を負えないと思ったから管理部門のキャリアを選んでいたのに、「いきなりきちゃったな」という感じだった。

ただ、それをともかくも周囲のサポートを得ながらやっていった結果、昇格の話が出てきた。でも、出産直後は周囲の昇格したお友達があれだけ羨ましいと思ったのに、実際にそのポジションを軽く味わってみると、「ぜんぜん面白くない」と思ってしまう自分がいる。これはこれで別の苦しみだ。大企業で良いパフォーマンスを見せたなら、当然、昇格というご褒美しかない。それを喜べないとなると、自分はこの先20年、何を糧に生きていけばいいのかと、当時は相当深い悩みにはまりながら仕事を続けていた。

で、その頃に同事業部全体がネスレに売却されて、そのあいだに私自身は二人目を出産している。その頃に出会ったのが糸井事務所だ。「それまで所属していた会社とずいぶん違うね」とはよく言われるし、たしかに大きく異なっている。ただ、当時の私は大企業で働き続けることが自分に合わないと感じて閉塞感を抱いていた。だから、「それまでのキャリアとは違う何かにチャレンジできる」ということがキャリアチェンジの大きなきっかけになった。

ちなみに、ここで一つ小話的なお話をしたい。私自身はこれだけいろいろな会社を経験して、「会社の個性っていろいろあるんだな」と、肌身で感じている。また、会社でよく聞かれる上司等からの質問には、その会社の本質が色濃く表れていると感じるようになった。たとえば長銀は「興銀はどうしてるの?」。当時は興銀(日本興業銀行)と長銀と日債銀(日本債権信用銀行)の3行で一つのカテゴリとされていて、しかも、「興銀-長銀-日債銀」という序列は未来永劫不滅だと言われていた。それで永遠の二番手となっている長銀では、常に興銀のことを聞かれる。私はその頃22~23歳で幼いながらも、その2番手メンタリティが絶対に嫌だと思っていた。

一方、マッキンゼーは有名な‘So what?’。いろいろ調べても、「だからなんなんですか?」と。そこから何か抽出するのが仕事だと言われる。で、ノバルティスは「バーゼルは何て言ってる?」。スイスのバーゼルにある本社を日本支社がすごく気にしていて、それも結構腹立たしかった。そして、糸井事務所はあとで詳しくお話をするけれども、「それ、本当におもしろいって思ってる?」。この問いかけが鍵になると思う。

次々と魅力的なコンテンツが生まれる糸井事務所って、どんな会社?

では、ここから糸井事務所のお話をしたい。ほぼ日は1998年6月6日創刊で、来週末で丸17年になる。創刊当時、自宅でインターネット接続しているご家庭は20%前後。まだモデムが「ピーヒョロヒョロ」といっていた時代だ。一方、現在の売上は約30億円で経常利益は4億円ほど。物販としては利益率も比較的高いと思う。また、社員数は常勤の役員を合わせて62名。ここにアルバイトさんも入って、そこにいるメンバー全員で80人ほどの組織になっている。

ほぼ日の月間訪問者数は現在130万人ほどで、広告掲載による収益は一切得ていない。オリジナル商品の企画・販売で収入を得ていて、売上構成としてはそうしたオリジナル商品の売上が9割。残りは僅かながらやっている本の出版と、お客さまからいただく送料と手数料になる。あと、販売に占める自社サイトの比率が大変高いという特徴もある。詳しい方に伺うと、普通は大きいところでも1割前後で、他のチャネルが9割になるという。その点、私どもは65%ぐらいが直の通販になっている。

で、その内容はというと、糸井重里が毎日コラムを書いているほか、他にもさまざまなコンテンツを日々更新している。私が好きな最近のコンテンツをいくつかご紹介すると、まずは「40歳になるというのはどういうことか」という糸井と宮沢りえさんの対談。レオス・キャピタルワークスのファンドマネージャーである藤野英人さんとの対談では、「働くということ、会社、そして投資をするということは、すべて“善”の循環でつながっている」といった話になった。また、シリコンバレーで伝説の投資家と言われているピーター・ティールさんと糸井との「ゼロから1を生むというのはどういうことか」という対談もあった。そして、「ゼロから1」と言えばみうらじゅんさん(笑)。みうらさんが生み出した「マイブーム」や「ゆるキャラ」といった概念は、みうらさんに言わせると「ずっと言い続けているといつか流行るんだよ」とのことだった。

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一方、比較的シリアスなものもある。たとえば被災した東北地方の事業者の方が、まさにゼロから事業を立ち上がるところを追ったルポ。また、学生の半数が留学生という、別府にある立命館アジア太平洋大学(APU)のコンテンツも面白い。同大学の卒業生であるネパール出身のお二人が、ネパールに学校をつくるお話も紹介した。その後はネパールの地震を経て、今は孤児となったネパールの子どもたちが高校に入るまで、暮らすところと学校教育を受けさせるための基金を募っていらっしゃる。そういった方々を紹介するコンテンツもつくっている。

あと、永遠の名作「言いまつがい」。日常のなかであった言い間違いを読者の方々に投稿していただく企画だ。何冊か文庫本にもなって、すでに計40数万部という大ヒットになった。毎日大変な数のネタが送られてきている。今日ネタの募集を止めても3年ほどは同コンテンツを続けることができるらしい。とにかく、そうした糸井重里の対談やルポ、あるいは読者投稿コンテンツをすべて無料で読むことができるし、そのための会員登録もない。では、どうやって食べていこうとしているのか。糸井が当初から言っていたのは、「まず銀座通りをつくる。そうしたら自動販売機を置いても稼ぐことができる」と。従って、銀座通りたるほぼ日というウェブメディアをどれほど素敵に、いきいきと栄えさせるかということを私たちは常に考えてきた。

とは言っても、当初から物販のビジネスプランがあったわけでもなかったから、1998年6月にスタートした時点では収入ゼロ。糸井のコピーライティングによる収入で皆を食わせている状態だった。ただ、それから1年半ほどして、たまたま「社内用におそろいのシャツをつくろう」という企画が出たとき、読者にも売ってみようという話になり、それが思ったより売れた。それで、「あ、ものをつくって売ったら喜ばれるし、儲かるのかな」と。そこから商品開発をして、物販で収益を得ていく道が偶然広がっていった。

そこで考えたのは、読み物も商品もコンテンツだということ。ここで言うコンテンツの意味は広い。「アイディアを、お客さまが楽しんでいただけるような形にしたもの」という感じだ。たとえば、(壇上にある)このお花を生けている方がいらっしゃる。で、その方がすごく魅力的な方だったとして、その方にインタビューするのが一番楽しいのか、その方の生けている姿をライブのように見ていただくほうがいいのか、と。あるいは、それで生けたお花を商品として販売するほうがいいのか。そういったことをコンテンツの個性に合わせて考えるというのが原則になる。

それでさまざまな商品を開発してきた。「ほぼ日手帳」の知名度が最も高いけれども、それ以外にもたとえば土鍋や腹巻や本を販売している。あるいは「カレーの恩返し」というスパイスに、ダウンジャケットに、女性の洋服に、ジャムに…、とにかく脈絡がない(会場笑)。「なんだ、これは?」と。競合分析をするよう言われたら困るパターンだ。ただ、それらもすべて、「それがある生活がいいんじゃないかな」と、私たちがご提案していった結果として商品の形をとった。

そのなかでも、やっぱり会社にとって一番の屋台骨になっているのは「ほぼ日手帳」だ。2014年版は50万部販売した。正確な統計はないけれども、カジュアル手帳の分野では間違いなく日本で一番売れている手帳と言える。発売4年目からは全国のロフトでも置いていただき、ロフトでも発売を開始した年から10年連続で最も売れている手帳になった。他の商品も同様だけれども、「ほぼ日手帳」が極めて特徴的なのは使い方を限定しない点。お客さまがどのようにして商品を生活に取り入れるかという、お客さま側のクリエイティビティと一体となって私たちの商品は完成する。だから、お客さまのさまざまな使い方をウェブで紹介したりもしている。また、3年前からは海外へ発送できるようにして英語の動線も設けた。すると海外売上も伸びて、2015年版は4月末時点で、82カ国にて3万部以上売れた。知名度やブランドが全くないなか、部数では全体のおよそ6%が海外というのは割と良い出だしだと思う。

で、そのほかにもイベントを企画したり、いろいろな事業を展開している。全体のざっくりした構造はというと、まず無料コンテンツの発信で銀座通りをベースにしている。また、それら無料コンテンツの特徴として、「ニュースを追わない」という点も挙げられる。一般的なウェブメディアは「今これを言わなきゃ」ということで、タイミングを大事にしていると思う。でも、ほぼ日はまったくそうでないものをテーマとして拾っている。だから、結果として10年前のコンテンツをランダムに見ていただいてもすごく楽しめる。

それで今は読者との信頼関係ができている状態だ。お互いに「こういうものが素敵だと思うよね」といった、「動機のやりとり」、と私たちは表現しているけれども、そういったことが継続している。そのなかでオリジナル商品を開発して、ほぼ日ストアで販売していく。また、それで終わってしまうと単なるファングッズの制作という風になってしまうけれども、さらにお客さまからの反応を見ながら商品性を磨いていく。そのうえで、やがてはサイトの外、つまりほぼ日や糸井重里を知らない方にも喜んでいただけるようなものへと質を高めていく。そういったプロセスを経ていると思う。

また、震災後は気仙沼にも拠点をつくった。そのベースには、「今回被災したのはたまたま自分たちじゃなかったけれども、いつ自分たちが被災してもおかしくない」という共感がある。これは、とってつけたようなCSRではなく、元々会社の仕事として糸井が「祭り・雪かき・山の茶屋」と表現しているものでもある。地域でお祭りがあれば協力するし、雪が降ればお店の前以外もきちんと雪かきをするし、そして山の頂上にあるような不便な店舗も、お客さまの利便性を考えて閉じない。そういうものも含めて企業活動であるべきだし、糸井事務所はそれをやる。そういうことが、だんだんに言葉になってきた。それが分かってきたのも気仙沼における活動のおかげだと思う。

そういった活動から生まれたプロジェクトに「気仙沼ニッティング」がある。「被災地だから協力しよう」という動機で、人々が被災地を訪れたり被災地のモノを買ったりする期間は限られている。でも復興に要する年数はそれよりはるかに長い。そこで私たちにできることは、地元が儲かる仕組みをつくること。きちんと収益があがる事業で、競合関係のなかでも溺れない競争力の高いものを考案することだと考えた。そこで生まれたのが手編みのニットだ。1着15万円ほどで、その半額が編み手の方に渡る仕組みとなっている。プロの手で50時間以上かかる商品だから、それぐらいの収入を差し上げないといけない。そこから、「被災地だからということでなく、そして15万円でも買いたいと思ってもらえる商品性ってなんだろう」という逆算をしてこの企画が生まれた。

愛されるロングセラーを生み出し続ける組織作り[2]

※開催日:2015年5月29日

【参考リンク】
40歳は惑う

どうして投資をするんだろう?

『ゼロ・トゥ・ワン対談』賛成する人がいない、大切な真実とは何か

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