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「ありがたい」を世界共通語に ―未来に残すべき思想や感性とは?

投稿日:2015/06/24更新日:2019/04/09

日本的なるもの ~変わりゆく価値、普遍の価値~[1]

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堀義人

堀義人氏(以下、敬称略):ご存知の通り、(会場である)石山寺は紫式部が世界最古の小説である「源氏物語」の着想を得た場所だ。清少納言も石山寺のことを随筆に書いているし、近くに芭蕉庵がある通り、松尾芭蕉もここで多くの句を残した。まさに文化人が集まっていた場所だ。聖武天皇や源頼朝による寄進、あるいは豊臣秀吉や江戸幕府といったときの権力によるサポートもあり、千年以上の歴史を持つ。

そうした歴史ある文化的な場で討論するにあたり、何をテーマにすべきか。一つだけだ。「何を引き継いでいくのか」。歴史を経て今に至るもののなかでも良いものは引き継いで、それを僕らの子どもたちにも同じような形で享受してもらいたい。一方、グローバリゼーションやテクノロジーの進歩といった世の中の変化に伴って、変えるべきものは変えていかなければいけない。引き継いだものを残しながらも、変えていく。では、それをどのように行っていくのか。文化や経済、あるいはテクノロジーや教育といった面から考え、さらに政策へ落とし込んでいくための議論も行いたい。まずは何を引き継いでいくべきかという問いについて、お二人にそれぞれお考えをお伺いしたい。

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下村博文氏

下村博文氏(以下、敬称略):こちらは最高の場所だ。後ろにいらっしゃる黄金の如意輪観音様に背中を向けて罰当たりにならないかなと心配だけれども(会場笑)。よく座主に許可をいただけたなと思うほどで、伝統ある石山寺本堂でG1サミットが開かれることは、歴史的な記憶として私たちの心に残ると思う。反対側の建物は平安時代に造られたとのこと。堀さんからお話があった通り、紫式部はこちらで源氏物語のイメージをつくり、一部を書かれたという。平安時代の、今で言う女流作家は皆ここに縁がある。恐らくお集まりいただいた皆さまにもインスピレーションを与えてくれる場だと思うし、文学だけでなくビジネス面でも大きくインスパイアしてくれる空間・時間だと思う。

さて、先ほども別セッションでも少しお話したが、我々は2016年に「スポーツ・文化ダボス会議」を東京と関西で開催したいと考えている。世界経済フォーラムのシュワブ会長ともお話をしていて、私は現在、政府側でその責任者を務めている。2020年に東京としては2回目となるオリンピック・パラリンピックが開催されるわけだが、我々はこれを、スポーツの枠を超えた、日本全体を元気にするイベントにすべきだと考えている。そのコンセプトは文化。新しいことをやる必要はない。石山寺のような、日本が元々持っている素晴らしい伝統や文化を世界に発信していく。少し大袈裟に聞こえるかもしれないが、それが21世紀における日本の使命ではないかと私は思っている。

別セッションで、京都妙心寺の副住職は「今度、神道や仏教、あるいはキリスト教といった宗教を越え、駅伝を行う」とおっしゃっていた。すごいと思う。そんな発想は日本でしかあり得ない。「スポーツ・文化ダボス会議」を関西でやる場合、どこかのホテルや会館ではなくこちらのような場所で行いたい。世界中から2000人がいらっしゃるということになれば、一箇所ではできない。そこで、たとえば昼間の分科会は関西の神社仏閣で協力していただける…、石山寺にも協力していただければと(会場笑)、協力していただけるお寺や神社で行いたい。特定の宗教や一宗派がやるのなら分かるけれども、あらゆる宗教・宗派が協力して神社仏閣でそういうことをやるというのは、世界の人々から見たら考えられないことだと思う。

それこそ日本の使命ではないか。日本には神道も仏教も含めて万教同根というか、教えというものは元々一つであるといった考え方がある。ルートは違っていても山の頂上は同じというか、学び方は違うかもしれないけれど、本質的な部分では同根という考え方が宗教観のなかにあるのだと思う。世界中で今も続く紛争や戦争を見てみるとどうだろう。パレスチナとイスラエルの戦いもいつ終わるか分からない。たとえばISISのようにイスラム教のなかでも宗派同士で戦いがある。相手を潰さなければ平穏がやって来ないような世界だ。そんなことをしていたら紛争や戦争は永遠になくならない。そこで、まさに日本的な感性や感覚が人類に求められているのではないか。

求められているのは宗教観だけではない。世界観もだ。先日、『不都合な真実』という映画でノーベル平和賞を受賞されたアル・ゴアさんが、恐らく同映画のパート2をつくられると思うが、その説明を含めて日本にいらした。世界では今、『不都合な真実』をつくった頃よりもさらに加速度的な環境破壊が進んでいるという。本当に、あと何十年もつかどうか。地球がなくなることはないかもしれないが、人類が滅亡することはあり得ると。それは今年、世界のあちこちで発生した災害にも表れていると感じる。

その意味で、日本こそ自然との調和と共生、そして国境を越えた人類の共生・共和思想というか、宗教観を持つ国ではないかと私は思っている。ぜひ、こういう石山寺のような場所で、世界中からお集まりいただいた人々に、今までの考え方を超越して手を取り合っていただきたい。また、そういう場を日本がつくりたい。そんな時代に来たのではないか。守るべきものは日本の伝統文化。まず、そこに光を当てていく。日本人だって忘れ去っているものがたくさんあるからだ。そして、それを継承しながら世界に広げていきたい。それが日本の発展にもつながると考えている(会場拍手)。

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田坂広志氏(以下、敬称略):大臣のお話のなかで、私も頷きながら聞かせていただいたことがある。冒頭で触れていらした「歴史的」という言葉について、最初に私の考えを申し上げてみたい。今回、どのセッションかでフリードリヒ・ヘーゲルのお話が出ていた。私は欧米の哲学にも学ぶべきものはあると思っているし、リベラルアーツは大きなテーマの一つだ。ヘーゲルの弁証法と呼ばれるものは歴史を見るうえで大変参考になると思っている。そのエッセンスは、世界の進歩や発展、あるいは進化や変化が、どのような法則で起こるのかというものだ。彼はそこで、いわゆる螺旋的発展の法則ということを述べている。

分かりやすく言うと、世界の進歩や発展は一直線の右肩上がりに起こるのでなく、あたかも螺旋階段を登るように起こるということになる。これは大切な捉え方だ。螺旋階段を登っている人を横から見ると、上に登っていくように見える。進歩・発展するように見える。ところが上から見ると、ぐるっと周って元の位置へ戻ってくる。古く懐かしいものが復活してくるように見える。ただし、一段上に上がっている。何かが進歩・発展していることはたしかだ。この捉え方はヘーゲルの専売特許ではない。日本でも弁証的哲学は西田幾太郎の哲学などですでに語られている。また、私の目から見ると禅の思想も見事に弁証法的な捉え方をしていると思う。

この螺旋的発展という捉え方で世界の宗教がどう変わっていくのかを考えると、どうなるだろう。分かりやすく申し上げると、人類にとって最初の宗教的なものはアニミズムだった。世界のすべて、自然のすべてに、神あるいは大いなるものが宿るというアニミズム、つまり自然崇拝が基本だった。それがギリシアやローマでは多くの神々が共存するような多神教の世界になる。で、そのあとはご存知の通り、キリスト教やイスラム教といった一神教の世界に向かい、それが長く続いていくわけだ。

そして今、世界中の戦争や紛争を見ていると、どうも、「私にとっての真実が正しく、貴方の真実が間違っている」という捉え方が、すべてとは申し上げないまでも、戦争が起きる一つの大きな理由になっていると感じる。日本が残すべきものはたくさんあると思っているが、私がなんとしても一つ残すべきだと考えているのはそこに関する考え方だ。日本は宗教的なものについて非常に寛容で、受容の精神が持っている。神という言葉一つとっても、神道では八百万の神と言われる。誰が数えたか800万という数字が使われ、「無数の神々がいる」と、当たり前のように思われているわけだ。

また、私が仏教の何に心惹かれるかと言えば、「山川草木国土悉皆成仏」。「この世界では、山にも川にも草木にも、すべてに仏性が宿る」という、非常に洗練された、アニミズムというよりも自然崇拝になる。特に私は、風のなかにも仏性が宿るという言葉を読んだとき、「ああ、そうだ」と思った。日本のそうした宗教観は、人類の歴史から考えると古い宗教システムのように思われている。しかし、そこで螺旋階段を思い出して欲しい。自然崇拝から始まって多神教となり一神教となっていった歴史を見ると、それぞれ優れた部分もあると思う。けれども、今はもう一度、世界全体でさまざまな神々を互いに認め合わなければならない時代に入っている。その先では、たとえば「ガイアの思想」のように、「この地球そのものが生き物」といった捉え方にまで戻っていく。とにかく、今は螺旋階段で言えば元に戻ったように見えつつ、一段上がったところで自然崇拝というものをしっかりと見つめ直すような時代を迎えているのだと思う。

だからこそ、我々は日本という国が持つ宗教的伝統の深みに自信を持つべきだと思う。自虐的宗教観と言って良いかもしれないが、日本人でこういうことをおっしゃる方がいる。「日本という国は宗教的には無節操だよね。クリスマスには教会へ行って、大晦日にはお寺へ行って、お正月には門松を立てて…。なんの宗教的信念があるのかね」と。まったく逆だと私は思う。日本人は、あらゆるもののなかに「大いなるもの」を見る力を、子どもの頃からしっかり与えられている。「お天道様が見ているよ」という言葉だって、私が子どもの頃は当たり前のように使われていた。だからお寺に来れば自然に手を合わせるし、神社に行けば敬虔なものを感じる。キリスト教の教会に行っても、クリスマスになれば祈りを捧げることだってある。それはむしろ我々の優れた点だ。「私の宗派はこれだ。あなたの宗派は違う」といったせせこましい捉え方をしない。

皆さんも、アメリカなどでホテルに泊ったときに見たことがあると思う。地域にあるキリスト教の教会に関して、プレスビテリアンやリフォームドといった宗派を書いた紙が壁に貼ってあって、「私はこの宗派だからこの協会に行く」となる。それを批判する気はない。ただ、我々はおおらかに、「あ、禅宗ですか、いいですな」「浄土真宗ですか。親鸞さんいいですな」となる。キリスト教の方に対しても同じだ。互いに大いなるものを信じるという一点において、日常生活のなかにその情操が本来しっかりと入っている。この点で、世界のなかでも非常に優れた宗教的文化だと思っている。

もう一つだけ、今日は経営者の方がたくさんいらっしゃるので申し上げたい。今お話ししたような宗教的な教えがなくとも、日本の伝統的な経営にはそうした考え方が言語体系に組み込まれている。私も民間企業で営業から育った人間だが、初めてお客様のところへ相談に行ってお見送りをしたとき、当時の上司に言われたことをよく覚えている。「田坂、あのお客様とはいいご縁をいただいたな」という言葉だ。当時上司であったその方には、たとえばお客様とのトラブルが起こるとなかなかに深みのある説教をされていた。「お客様は心の鏡だぞ」と。これは宗教的にも大変深い情操だと思う。日本という国の優れている点は、毎週末お寺へ行って説法を受けずとも、日々の生活と仕事のなかにそうした宗教的情操が文化として存在しているところだ。

だから、仕事で助けてくださった方に「ありがとうございます。おかげさまで」と言えば、「いや、お互いさまだよ」となる。お客様との出会いに関しても、たとえば一期一会なんていう言葉がビジネスの世界で当たり前のように使われている。深い宗教的な情操が日常の仕事と生活のなかに浸透しているのだと思う。あるいは皆さん、お礼の言葉といえば、「ありがとうございます」だ。これ、英語で‘thank you’と訳すと意味が変わってくる。‘thank you’は「あなたに感謝する」という意味だ。しかし、「ありがとうございます」は英語に訳すと、‘It’s a miracle’。有り「難い」ことが起きたということだ。田中さんとの巡り会いによって、これほどの、有り「難い」手を差し伸べていただいたと。それは奇跡のような一瞬だというほどの思いが、どこかにある。「もったいない」という言葉と同様に、私は「ありがたい」も世界共通語にして良いのではないかと思うほどだ。

未来に向けて我々が失うべきないものは、いろいろある。ただ、まず一つだけと何を残すかとなれば、今お話ししたような非常に深い宗教的伝統文化と、それが日々の仕事と生活のなかに浸透している点だと思う。我々自身がそれを大切にして、失われているものを復活させながら、できれば世界にもそれを謙虚に届けていくべきではないかということを、まずは申し上げたい(会場拍手)。

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※開催日:2014年10月18日~19日

→日本的なるもの ~変わりゆく価値、普遍の価値~[2]は6/25公開予定

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