チャレンジしてみたら?と漆校長 -社会を変革し、成長するためのキャリアの描き方 ~仕掛け人たちに学ぶ“文化を創る仕事術”~(前編) 

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河村裕美氏(以下、敬称略):役所の仕事はシナリオがきちっと決まっていることが多い。たとえば、「11時6分開始で、最初にこれを聞いて、こんな風に回答してください」と。原稿もある。けれども、先ほど行った本セッションの打ち合わせでは、「いいよ、別に。適当にできるから」となった(笑)。シナリオがまったくない。今日はそういうライブ感を皆さんに楽しんで欲しいし、御三方から可能な限り面白いエピソードを引き出したいと思う。本セッションを通じて皆さんが、「あ、これに挑戦しよう」となるような、元気が出る議論にしたい。よろしくお願いします。拍手(会場笑:拍手)。(01:19)

佐藤大吾氏(以下、敬称略):強要(笑)。(02:39)

河村:(笑)。では最初に、御三方がそれぞれどのような「幹」を持ち、どんなお仕事をしていらっしゃるのかを伺ってみたい。まずは佐藤大吾さんから。(02:50)

34641 佐藤大吾氏

佐藤:ここまでシナリオ通り(会場笑)。僕がやっていることは手元の資料に載ってるし、インターネットで調べたらいろいろ出てくると思うからあまり時間は割かない。まず、なぜ今の仕事を始めたのかという話をしたい。で、そうなると僕の話はどうしても1995年1月17日の阪神・淡路大震災から始まる。当時は大学2年生だった。皆さん(にとっての東日本大震災)も、同じ頃でしょ? そういう時期にでかい地震があった。別セッションでは小泉(進次郎氏:衆議院議員)さんたちが転機のお話をなさっていたけれど、まさに転機ですよ。「たくさんあって、あとで振り返ったらあのときが転機だった」というのもあるけれど、僕の場合はどう考えたってあの震災だったと思う。(03:14)

なにかこう、明日死ぬかもしれないという妙なリアリティを感じて、それで「嫌なことをやっている時間がないなあ」と思うようになった。そうでしょ? あと何回ご飯を食べることができるかと考えたらまずいご飯は食べたくないと思うし、あと何人と一緒に遊べるかと考えたら嫌な人と遊ぶ時間はなくしたい。「やりたいことで生きていこう」と思った。でも、やりたいことが見つからなかったから、すでにそれを見つけている人の傍に行こうと。英語なら英語を喋れる人に教わりたいでしょ? ビジネスならビジネスがうまい人に教わりたい。「ということは、夢がある人に近づいたら夢を教えてもらえるかもしれない」というアイディアが、大学2年のときに閃いた。(04:07)

インターンシップとは何か、知っている人はどれほどいるだろう? (会場ほぼ全員挙手)…、もう、笑っちゃうぐらいの質問でしょ? でも1995年に同じ質問をしたら手を挙げた人はたぶん10%以下。僕はそんな時代に、ベンチャー企業の社長さんの鞄持ちみたいなことを始めた。「お給料いらないから働かせてください。夢を教わりたいんです。自分で会社をつくるぐらいだから夢に溢れてるんでしょ?」と。それで、3人ぐらいのベンチャー企業経営者さんにお仕えした。また、そういうことがインターンという制度としてアメリカにはあって、日本にはないことも分かった。95~96年の話だ。(05:02)

「それなら、つくってみよう」と。就活で悩んでいる同級生や後輩は当時もたくさんいたし、僕もその1人だったからだ。「何がやりたいか分からないし、働いたこともないのに、『第一志望です。入れてください』なんて、恥ずかしくてよう言んわ」って。会ったばっかりの女の子にいきなりプロポーズするようなものじゃないか。「あたしの何を知ってるの?」となる。だから、まずは働かせてもらうということをやってみたら、「俺も行きたい」「私も行きたい」と言う後輩が増えてきた。また、アメリカにはその制度が100年も前からあることも分かった。それですぐアメリカへ行って、英語でいろんな書類をもらって帰ってきたというのが僕のきっかけになる。(05:41)

結果としては、それがやりがいになった。夢がないから夢がある人にお仕えしていたら、それを制度にするのが僕の夢だと閃いたというか。それが日本になかったからだ。初物好きなんですよ。それに、学生がどんくさくて就職活動に失敗していたんじゃない。学生と企業の接点がないから学生が困っていたわけで、「それなら学生と企業の接点をたくさんつくれば就活で泣く学生も少し減るんじゃないか?」と思った。学生じゃなく制度が悪い。そう思ってインターンシップを日本に持ってこようと考えて、アメリカから輸入したというのが最初に経歴になる。(06:21)

34642 漆紫穂子氏

漆紫穂子氏(以下、敬称略):私が学校経営者になった転機というかきっかけは、消去法(笑)。消去法で人生を選択した結果、今に至る感じだ。その転機は27歳頃に来たのだけれど、学校のことを少し説明しておきたい。現在の品川女子学院は今年で創立89年目。大正時代、女性参政権がないときに私の曾祖母が設立した。教員であった私の両親もその経営に携わっていて、私は小さな頃から学校の先生に憧れる気持ちと、「学校経営だけは嫌だ」という気持ちの両方を抱いていた。すごく大変なのを見てきたので。だから教師になって品川女子学院以外の学校で働き始めた。(07:18)

それで仕事はかなり軌道に乗って、「これ、天職じゃないかな」と思うほど教員という仕事を毎日楽しんでいた。ただ、あるとき、当時働いていた学校の教頭先生に、「漆さん、ちょっとちょっと」と呼ばれ、都議会の資料を見せられたことがある。その資料には「廃校危険度指数」というグラフが載っていた。たしか片方の軸が「その学校がどれほどの財産を持っているか」で、もう片方の軸が「どれほど人気があり、どれほど生徒がいるか」というグラフだった。当時私がいた学校は、そのグラフによると廃校危険指数が5本の指に入る高さ。それで、「こんなに危ないんだ。大変なことになってるんだなあ」と初めて知った私は、その話題を持って実家に帰ったことがある。(08:26)

すると、私がそれを話し出す前に母が、「私、がんになっちゃったのよ」と言う。余命半年だと言うのでびっくりして…。母が学校を経営していたので、その話と「学校が危ない」という話がダブルで来た。それが私の転機だ。で、そのときは天職だと思える教員の仕事をそのまま別の学校で続けるほうが、個人的にはいいだろうと思っていた。でも、実家が学校を経営していたし、卒業生の方々も、なにかこう、家族のようで、先生方含めて皆で学校を大切にしていたのを私もずっと見ていた。「そこで自分がまったく手伝わず、学校が潰れていったらどうなんだろう」と。当時はまだ3年目の国語教員だったし、自分にまったく力がないことも皆分かっていたから、「戻ってきて手伝え」とは誰も言わない(笑)。でも、そこで「学校改革に参加せず、教員という好きな仕事を続けて夢に向かう人生と比べるとどっちが後悔しないかな」と、消去法で考えた。(09:20)

そのとき、私は高校時代に入っていたバスケット部のことを思い出した。当初、バスケット部には一学年で十数人の部員がいたのに、厳しくて部員が次々辞めていって6人にまで減り、それで私は辞め損ねたことがある(笑)。で、最終的には5人になって辞められなくなったまま続けた。それを思い出して、「あ、私は人が困っているときに自分だけ幸せだと、結局は幸せになれないタイプなんだな」と。それで後悔しないほうを消去法で選ぶようになった結果、今に至るという感じだ。(10:47)

34643 丹羽多聞アンドリウ氏

丹羽多聞アンドリウ氏(以下、敬称略):僕は映画監督になりたいと思っていた。小学校から大学まで成蹊で、高校で入っていたのは映画研究部。そこで1年のときにつくった映画を文化祭で上映したら皆が拍手をしていて、それを見た僕のほうが感動して「人に感動を与える仕事をしたいな」と思ったからだ。でも、それを父親に話したら「映画は斜陽産業だから止めておけ」と言われ、さっさとテレビに転向してしまった。それでも監督をやりたい思いはあって、TBSに入ったときもドラマの仕事をしたいと思っていた。ところが最初から希望通りに行かなかった。その辺は漆さんと少し似ていて、思っていたことと違うことばかりやらされていった結果として、今がある。(12:59)

TBSで最初に入ったのはバラエティ部門。当時は『ザ・ベストテン』という音楽番組があって、そのADになれるかなと思っていたら、『風雲!たけし城』という番組に配属された(会場笑)。知ってます? 今は世界中で知られていて、海外では「『たけしキャッスル』で仕事をしてたのか!」なんて握手を求められたりするけど、当時は嫌で嫌で仕方がなかった。カシミヤのセーターを着ているような成蹊のおぼっちゃんなのに、神奈川の緑山にある泥だらけの現場で、長靴姿になって「働け」と言われて。今になって振り返るとすべてがいい経験だったと思うけれど。(12:52)

で、そのあともドラマのほうへすごく行きたかったけれど、ドラマは社内でもすごく人気の高いセクションだ。上がすごく詰まっていて、順番待ちをしていたら何年かかるか分からない。だから嘘をついて「報道に行きたい」と手を挙げて、報道局社会部に異動した。入社3年半頃かな。そうしたら、なんと国境問題の担当になった。今、尖閣諸島が話題になってるじゃないですか。僕はその魚釣島に上陸した。当時、TBSのカメラだけが「下カメ」といって、上陸して映像を撮った。あのとき、「私は今、魚釣島に上陸しました」と言ってレポートしているのは25歳頃の私だ(会場笑)。当時は尖閣諸島にも北方領土にも南鳥島にも沖ノ鳥島にも行った。竹島だけは諸事情で行けなかったけれど、まあ、日本のいわゆる国境へ行く経験ができた。(14:26)

そのあとでやっと希望通りドラマに行ったのだけれど、その次はまた希望通りにならず、地上派の戦略を立てる編成という部署へ行った。それもまた勉強になったけれど、「やっぱりドラマの現場に戻りたい」と言っていたら、今度は新しくできたばかりのBS-TBSというテレビ局へ行くことになった。ドラマの経験者が必要とのことで、これも半分希望だけど半分希望ではない形で行かされた。(15:13)

何を言いたいか。自分が元々なりたかったのは映画監督だ。でも、結局はテレビでバラエティも報道番組の記者も編成もやって、今はプロデューサーとして映画にも関わっている。アニメのプロデューサーも、希望はしてないけれどやった。ドラマのディレクターが希望だったわけだけれど、プロデューサーをやっていたと。皆も今はまだ学生だし、なりたいものがあったりなかったりすると思う。ただ、漆先生が先ほど言っていたように、天職というのは学生時代には意外と分からないんじゃないかと思う。(15:34)

僕の天職はプロデューサーなんです。そのなかで人を育てたり助けたりするのが僕の仕事だと思っている。1995年頃、僕は『理想の上司』という連ドラをやっていたことがあって、そこでプロデューサーとして当時50歳だった長塚京三さんを主役に指名した。すると出演者の方々との最初の食事会で、長塚さんがいきなり畳の席で手をついてこられる。「どうしたんですか長塚さん、止めてください」と申し上げると、「多聞ね、僕は今までいろいろなドラマで脇役をやったけど、主役をやったのは初めてだ。主役を選べるのはプロデューサーだけなんだ」とおっしゃった。そのとき、「あ、僕の天職はこれだな」って。人を引き上げることが僕の仕事なんだと思った。(16:13)

だからBS-TBSでは、ADだった人をディレクターにして、カメラアシスタントだった人をカメラマンにして、照明アシスタントを照明にしていった。脚本デビューしていない人を脚本家としてデビューもさせたし、デビュー前あるいはデビューしたばかり役者を起用していったら、皆、売れちゃった。僕のドラマでデビューした女優さんが多いからウィキペディアで僕のページを見ると目利きとかなんとか書かれているけれど、目利きでもなんでもない。たまたま新人の子を抜擢したら堀北真希とか北乃きいとか宮崎あおいだった。男なら佐野岳とか。とにかく、そんな風にして人にチャンスや場を与えるのが僕の仕事で、プロデューサーだとは思っていない。また、お2人とも共通することとしてお話をすると、僕は紆余曲折を経てて最終的に自分の天職を見つけたのは30代のときだ。で、それは人を育てるということだったわけだ。(17:08)

34644 河村裕美氏

河村:私自身は大学卒業後、旧文部省に就職して、そのあとアメリカ留学を経験している。で、留学のためにエッセイを書かなければいけなかったことがあったのだけれど、そのテーマは「あなたはどういう人ですか?」といったものだった。どんな人生を歩んできたかを書かないといけない。そのとき、正直、「私は何も考えてなかったな」という気持ちを持った。ただ、それでもなにかこう、自分の人生に一本の筋がなんとなく通っている。それが見えていないだけ。それで、自分の人生を振り返ったとき、「私はこれをやりたかったんだ」と、改めて考えるきっかけになったのが留学前にエッセイを書いたことだった。そこで佐藤さんにお伺いしたい。佐藤さんはいろんな会社をやっていらっしゃるけれど、佐藤さんの人生における筋は何だろう。(18:16)

佐藤:僕は今41歳で、最近はこれまで歩んできた道を振り返ることが多い。こんな風に話す機会をいただくことも多く、たとえば学生時代にどうだったかを振り返ってみたら今言えることはたくさんある。でも、当時は気付いていなかった。それが前提ね。当時は上手に喋れることができなかったし、来たものを必死で打ち返していただけというのが正直なところだ。ただ、振り返ってみると、「このボールは打ちたい。このボールは見逃す」みたいなことはたくさんあったと思う。じゃあ、何を打ち返していたのかと考えてみたら、共通点があった。(19:44)

まず、きっかけは誰かからの相談ごとだ。たとえば就職活動で泣いている後輩たちがいる。それで、「夢が見つかりません」「面接に落ちまくってます」といった相談を受けると。そのとき、「こいつのせいじゃないな。制度が悪いんだ」と思ったから、それまで日本になかったインターンシップをつくろうと考えた。しかも、それが日本で初めてだったから少し燃えた。その子の悩みを解決するとどうなるか。同じように悩んでいる子が全国にたくさんいるだろうことは簡単に想像がついたから、「それならやってみよう」と思って頑張ることができた。もう寝ても醒めてもインターンのことばかりだ。(20:28)

すると、次は公務員になりたい学生の悩みを解決したいという思いが湧いた。公務員になりたい学生は公務員試験の勉強を一生懸命やったりするでしょ? 18歳から22歳っていうすごく多感な時期を勉強に費やして、「ようやるな」と。ただ、「それで公務員になることが本当にやりたいことなの?」と聞くと、「分かりません。とにかく勉強を頑張ってます」と言う。だから、「それなら1回働いてみたり現役の官僚と会ったりするほうががええんちゃうの?」と言うと、「その通りです」となる。それで僕は行政と議員のインターンシップも始めた。今は企業のインターンシップも議員のインターンシップも両方やっているけれど、とにかく学生たちの悩み事から始めたわけだ。日本の学校教育では、たとえば選挙と接点を持ってはダメというようなルールがあるでしょ? 「学校と政治は分けておきなさい。接してはいけません」と。「でも、それで二十歳になってから急に選挙へ行けと言われたって、それ無理あるで」って。だから議員のインターンシップにも意味があると考えた。(21:00)

最近はどうかというと、NPO仲間がすごく増えた。で、そうしたNPO経営者が僕のところへ相談に来るときは、だいたいお金の話になる。「お金がない」と。じゃあ、彼らの経営能力が低いからお金がないのかいうと、そうでもない。日本より寄付が多いアメリカやイギリスのような国では寄付に関する各種制度が整っていて、ルールもツールがある。日本にはそれがないだけということが、調べてみると分かった。これも相談を受けたことから始まっている。素晴らしい活動をしているのに、「お金がなくて潰れそうだ」と言っている経営者がいる。それで、「こいつの悩みを解決したらハッピーになる人がたくさんいるだろうな」と。なにかこう、「こいつのせいじゃない。制度のほうが悪い」という考えが、いつも僕のなかでは共通点になってる。(22:07)

振り返ってみると無視していた相談もあったと思う。「それはお前だけが悪いんだよね。お前だけの問題だよ」って。そういうときは、友達としてその場で適当にアドバイスをするけれど、寝る前にはたぶん忘れてる。でも、僕が本気で会社をつくったり、法律を変えようとして動いたりするほど頑張るときはそうじゃない。今もそうだ。インターンシップに関わって10年が経ち、一区切りついた。だから最近はインターネットで小口のお金を集める、いわゆるクラウドファンディングの仕組みづくりに活動の場が移っている。5年間ずっと続けていて、今は「クラウドファンディング馬鹿」みたいになってる。これも制度とルールとツールの問題だと思ったからだ。結局、悩み事の相談を受けるところからスタートして、それを制度に発展させる点が共通点という気がする。(23:01)

34645

河村:学生の皆さんはどんな視点で就活をすると、「ここに就職して本当に良かった」という気持ちになれるだろうか。皆、10~20年後には、「自分の筋はこれだったんだ」といったことが分かるような、使命感に燃えるような仕事を求めていると思う。マスコミに進んだ多聞さんが、そのなかでもTBSを選んだのはなぜだろう。(23:52)

丹羽:僕が就活で何をしたかというと、2つ。まず、先輩に会っていた。母校OBだけじゃなく、いろいろなツテを辿って自分がなりたいと思う仕事の先輩にもできるだけ会っていた。皆、意外と会ってくれる。じゃあ、そのなかでなぜTBSを選んだのか。今は視聴率的に少し苦戦しているけど、当時は「ドラマのTBS」と言われていて、ドラマに関して日本一の局だった。で、フジテレビさんや日本テレビさんのOBの方にも会ったけれど、なんだかんだ言ってTBSのOBの方だけが自分がいた会社のことを良く言う。他局の方々は、「いや、ウチは止めたほうがいいよ?」なんて、あまり良く言わないこともあった。それで、「自分がいた会社のことをこれだけ良く言うOBが大勢いる会社は素晴らしいんだろうな」と。それで第一志望をTBSにしたのがまずひとつ。(25:29)

あと、できるだけいろいろな人に話を聞く必要があると思う。たとえば僕の親父もマスコミ業界にいたけれど、映画が斜陽だなんてことは学生時代に分からなかったわけだ。映画の総売上がどれほどあって、前年売上比がどう変わっていて、そして10年後にどうなるかなんていうことは、学生だった僕の収集力では分からなかった。当時はネットもなかったし。でも、業界の人に聞けばそういうことが分かる。だからできるだけ取材をすること。その組織にいる人たちに話を聞いて、その方々がいきいきしている組織を第一志望にするのがいいんじゃないかと思う。(26:41)

河村:すごく分かる。私自身も当初から役人になりたかったわけじゃない。就活の時期はいろいろな方々にお会いして、その結果として「この人たちと働きたい」と1番強く思ったのがたまたま文部省だっただけだ。最初のきっかけは人だと思う。漆先生にもお伺いしたい。多くの子どもたちが学校から巣立っていくわけだけれど、教育者として「こんな風に自分の仕事やキャリアを考えて欲しい」といった視点は何かあるだろうか。具体的なエピソードがあれば、それも交えてお話しいただきたい。(27:21)

漆:いろいろな方と会うにあたって、大切なことがひとつある。大事なことは人に相談しないほうがいいと、私は思う。先輩は皆良いことを言うから、自分がどうしたいのか分からなくなってしまうと思うからだ。私にはそんな経験が多い。たとえば学校を建て替えたときがあった。当時は本当に大変で、一時は中学校の応募者が5人しかいない年もあった時期だ。それで、「あるものを全部使って改革しよう」と、建て替えを決めた。すると、銀行の頭取さんやゼネコンの社長さん等々、会ったことのないような人が数多くいらした。それで当時はバブルだったこともあり、「お金を借りて100億ぐらいで高いビルを建てましょう。それで上部を貸しビルにすれば生徒が来なくても大丈夫です」と言う。当時は国語教員だったけれどもマーケティングという言葉を知らなかった私は(笑)、いろいろと資料を見せられてすごく説得された。ただ、そのときに「変だな」と直感したことがある(28:34)

直感は3つ。まず、「マーケティングと言うけれど、先のことは神様にしか分からないんじゃないか」と。いろいろと資料を見せられたけれど、それらはすべて過去の資料なわけだ。で、2つ目は、バブルだった当時…、うちは商業地域にあるので、両隣が10階までビルを建てていたこと。「皆が同じことをやって儲かる商売があるのかな」と感じた。そして、3つ目は「建てろ」と言う人たちは皆、ビルを高くすればするほど儲かる人じゃないかという疑問だった。だから、理屈は向こうのほうが勝っているけど、「これは、なんかおかしい」と。それで結果としては、直感に従ってのろのろしているうちにバブルが弾けたのだけれど、それでもうちは潰れないで済んだ。(29:49)

そういう原体験があるので、大事なことは自分の直感に従っている。その直感とは、私の場合、「なんかこれ、怖いな」と思うことをやるというものだ。「怖い」と「嫌だ」は違うと思う。後者は、「こういうことは人としてしたくない」「こういういうことをしている会社はダメだ」というもの。で、前者はだいたいチャレンジングな目標だ。そこで人はなんとなく、「それを失敗したらどうしよう」なんて考えて尻込みしてしまう。そこで、私はそのチャレンジが終わった翌日のことを考える。それで自分が成長していたり、人が喜んでいたりするようなものなら、私は怖いことほどチャレンジしてみる。だから生徒にも大事なことは相談しないように言っているし、「人の行く道は混んでいるから、怖いと思ったらチャレンジしてみたら?」と言っている。(30:34)

あと、どうしても分からなくなったら消去法で考えてみるというのもある。「これは譲れない」「こういうことをする会社は嫌だ」ということがあれば、それは気をつけたほうがいい。以前、ある卒業生から、「商社に決まって就活を一度終えたけれど、その商社に法律違反のバイトのようなことを頼まれてどうしようかと思ってる」という相談を受けた。だから、「そういうことをしても会社を伸ばすことに興味があるなら、そこを選んでもいいかもしれない。ただ、『これだけは嫌だ』というのは一事が万事になる。だから止めたほうがいいかもしれない」とも話した。やはりそういうときは、「就活を再開するのは大変だから」と、どうしても目先を見てしまうと思う。そこは大変だけれど、10年先から考えたうえでそういうことを選んでいくのもいいのかなと思う。(31:33)

特に会場の皆さんは志の高い方々だ。いつか人々に影響を与えるような立場になったときのことも考えてみて欲しい。振り返った道のなかで人に言えないことが入っていると、堂々とできなくなると思う。のちのちスキャンダル等で潰れる人も数多く見てきた。だから少し目線を先に置くというか、広くする必要があると思う。あと、情報収集するのはいいけれど、自分の中を掘っていく作業と併せてやることも薦めている。(32:33)

河村:多聞さんからは、ドラマをやりたかったけれどもその道が混んでいたから一時は報道に行かれたとのお話があった。ただ、最後はドラマや映画のほうに戻ってきている。そういう一本筋でキャリアを築くためのアドバイスは何かあるだろうか。(33:07)

丹羽:アドバイスになるかどうか分からないけれど、僕も佐藤さんと同じで新しいもの好きだ。で、開局当時のBSは視聴者が100万もいなかった。今はもう日本の7割の人が見ているけれど、当時は誰も見ていないメディアだったと。そこに行けて良かったのは、何やっても自由だったこと。僕はBS初の生放送ドラマやBS初のサイレントドラマ、あるいはBS初のワンシーンワンカット、13話連続ドラマなんていうものばかりやっていた。そういうことをやっていると目立つ。それで話題になり、結果的に自分のポジションというか地位ができた面もあったと思う。だから誰もやっていないことをやるのがいいと思う。それに、漆先生がおっしゃった通り、皆がやっているようなことをやってもなかなかうまくいかない。だからそこで少し横から入ってみるとか、そういう考え方をする必要もあると思う。(33:50)

僕の父親は、実はフジテレビ社員だった。でも、父が入社した頃は「鉄は国家なり」なんて言われていた時代だ。「鉄に行かないでベンチャーのテレビに行くの?」と言われるような(会場笑)。ただ、テレビ局はその後どうなったか。今は給料も高くなった。給料が高いから良いという話じゃないけど。僕らの時代も同じだ。僕は1987年卒業だけど、当時はゲーム業界に行くなんて言えば、「え!?」と言われていた。でも、それから任天堂もカプコンもすごく成長した。そのときは評価されなくても後々需要が大きくなる業種は多いと思う。逆に官僚はどうですか? 数百年続いているけれど。(34:50)

佐藤:文部省文科省は人気省庁ですよね。(35:49)

河村:私が文部省に入省したのは平成10年で、当時の文部省は三流官庁なんて呼ばれていた。大蔵省と通産省と外務省が三大人気省庁で、「文部省はそこに行けなかった人が入るところだ」と。または国家公務員試験に受かって、「どうしても文部省に入りたい」という人のどちらかが入ると言われていた。私のようなふらふらした人間が入るようなところでもなかった。でも、今は霞ヶ関で官庁訪問数No.1だ。オリンピック・パラリンピック担当省庁になったこともあるし、幸か不幸か、「教育をなんとかしたい」と考える方が増えてきたからというのもある。正直、入省した頃は、「ちょっとオタク系?」みたいな面もあった。でも、今は役所内がめちゃくちゃ元気だ。なんとかしたいと思ってくれる人が1番多い役所だと思う。「オリンピック・パラリンピックに向けてスポーツをなんとかしたい」、「日本の教育って意外といいとこあるじゃん。でも、ここをもっと良くしたい」と、皆が考えてくださる省庁になった。だから次に何が来るかは本当に分からない。そこで佐藤さんにお伺いしたい。次の夢として、クラウドファンディングの何が魅力で、そこにどんな可能性を感じていらっしゃるのだろう。(35:53)

佐藤:一貫して話してきた通り、僕が行動を起こすその初手というか初動は、いつも相談へのリアクションだ。「こうしたい」と、自発的に行動を起こしたことは、実はあまりない。「こいつが悩んでいることを解決してあげたい。同じように困っているやつがきっと山ほどいるから」ということに燃えてきた。だから次の夢は、誰からどんな相談を受けるかによる。相談待ち(笑)。(38:21)

河村:皆さん、困ってることがあったら…。(38:57)

漆:どんどん相談してあげてください。(38:59)

佐藤:(笑)。

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