八木澤商店 河野通洋社長 −信念のリーダーシップ(講演) 

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「時給150円ですよ?」「そんなもののために農業をやってきた訳ではない」

八木澤商店は醸造業を営んで206年になりますが、今日はまず、震災前に私たちがどのような経営していたかというお話からはじめさせてください。私たちが会社として一番大事にしているのは、どんな経営環境でも潰れない会社になることです。醸造業、特に味噌と醤油の醸造では原料に大豆と小麦、そしてお米を使います。で、米は国産があるのでまだ良いのですが、大豆と小麦は9割以上を海外生産品に頼っていて、国内自給率は一桁のパーセンテージに留まっています。円がまあまあ高い現状こそあまり苦労しませんが、震災前から「将来は危機的状況になるだろう」と考えていました。そこで「原料も自分たちでつくろう」と。自分たちだけですべてをつくることは出来ないので一部は地元の契約栽培品を購入していましたが、それで結果的には国産原料の使用比率が7割前後にまで高まりました。それをさらに100%へ向けて高めていく努力をしていた訳です。

ただ、農業を実際にやってみると、そんなに甘くはないんですね。私は米を一町歩つくっていましたが、農協さんへの販売価格から労務費を時給換算してみると幾らになるか。たった150円です。そんな状況ですから、岩手県の年代別就農人口を見ても、増えているのは80代だけ。60歳以下は言うに及ばず、60代も70代も就農人口は減っているという状態でした。

ですから今は「日本の農業が何年持つのか」という、そんな秒読み段階に入っているという危機感を私は持っています。TPPが云々といった話ではなく、もうその前に壊滅しているのではないかと。だから補助金、そしておじいちゃんおばあちゃんの年金を突っ込んでなんとか食糧自給率を高めている。今はそんな状況なのです。

ではそこで私たちが何をすれば良いのか。まず、一緒に農業をやっている60〜70代の先輩たちは意識が大変高い。「時給150円ですよ?」と言っても、「関係ない。そんなもののために農業をやってきた訳ではない」と。「大切にしている人たちに食べて貰って、それで喜んで貰うことが原点なんだ」と言うんですね。より良いものを作るための努力はカネには換算できない、と。でも、それは持続可能な営みではないですよね。

実際にどんなことが行われているかというと、70〜80代のおじいちゃんたちが毎朝4時に起きて、地域の田んぼをすべて見て回るんです。それで「お前のところの田んぼ、もぐらが穴を開けて水が漏っていたぞ」とか、「雑草が生えてきたぞ」とか、そういうことを農家に教えて回るわけです。大きなお世話だと思いませんか?でも、大きなお世話であってもそれを続けていたんです。

そんな農業を地元の子どもたちに、今でも教え続けています。私も教わりました。震災後も同じ。「今年から復活させて、子どもたちと一緒に食育をやるんだ」と仰っています。歳をとって足腰が立たなくなってきた仲間がいれば、無償で代わりもします。どこまでも人が良い。私としては、そんな気持ちでやっている人たちにスポットライトが当たらないのはおかしいと感じます。「何故こんな時代になったのか」とも思います。

そこで私は市内における米の自給率を調べてみました。個人でつくって個人で食べている方々は別として、市内でつくられた米が市内でどれほど食べられているか、飲食店と販売店を調査してみたんです。すると、ゼロ。それで地元にある酔仙酒造というところの営業部長と「この状況を変えたい」という話になり、市内の飲食店40軒を回ることにしました。しかし、そこでどれほど薦めても、誰も使わない。新潟のこしひかりや秋田のあきたこまちといったブランド米のほうが良いと言うんです。

ですから次に、「子どもたちの食育を農家のおじいちゃんたちと一緒にやりませんか?」という誘い方にしてみました。で、それに酔仙酒造と八木澤商店の社員、そしてスーパーマーケットのバイヤーをはじめとしたお米に携わるような人たちにまとめて参加して貰いました。そこで地元の米をベースにお酒をつくったり、田植えをしたあとに皆で塩おにぎりを食べて貰ったり、酔仙酒造の酒に使う仕込み水を飲んで貰ったりもしました。そして飲食店の方々に、「これでも美味しくないですか?これでも使いませんか?」と(笑)。それで数軒が使うようになっていきました。

これにより何が形になったかというと、たとえば飲食店のマスターがおにぎりを出して、「これは米から俺がつくっているんだ」「この酒も俺が仕込んだんだ」とお客さんに言えます。また、地域でしか買えない状態にすれば、地元の飲食店でも「限定」ということで付加価値を高めることが出来ます。そういったストーリーをつくっていったんですね。で、そのネットワークをなんとか循環型にして守りたいと考え、震災が起きるその年まで続けていました。

「地域が衰退するのは俺たち中小企業の経営者が雇用創出を怠ったせいだ」

それともうひとつ。岩手にも宮城と同様、中小企業家同友会という中小企業の団体があります。そこで中小企業経営者が何をやってきたか。仙台や都市部であれば中小企業診断士や社会保険労務士、税理士、会計士、弁護士といった士業の方々もかなりいますが、田舎にはほとんどいません。しかし我々は、「この地域のなかで一社も潰すな」というスローガンを掲げていました。そして所属する一社一社に、「ひとりでも良いから毎年新卒を採用しよう」と言っていました。そうすると人口統計が変わってきます。現在、団体に加盟している企業は88社ですから、全社がひとりずつ採用しても「たった88人じゃないか」と思うかもしれません。しかしそれ以外に、地元の役所や病院、あるいは銀行での雇用も見込めます。

そもそも田舎が衰退する原因はなんなのか、そしてその責任は首長や国あるいは役所にあるのか…、そんなことを言い始めてもきりがありません。我々としては「俺たち中小企業の経営者が悪い」という結論に至りました。厳しいですよね。でも、中小企業の経営者が弛まぬ努力で新しい仕事と雇用を毎年生み出していたら、地域は衰退しません。「それを怠ってきたから駄目なのではないか」という話になっていきました。

そこで実際に何をしてきたのかというと、たとえば勉強会を開き、テーブルを囲んでグループ討論をします。すると、なかには顔色の悪い経営者がいるんですね。そこで「どうしたの?」と聞くと、「いや、資金が…」なんていう話になる。皆さんだったらどうします?普通、そんな状態の経営者にはあまり近づかないですよね(会場笑)。

しかし我々は逆にその会社に乗り込んで行って、「何故大変なのか」と聞いていきました。そして自分たちの決算書も見せたうえで、「お宅のも見せてください」と。そうして見てみると、なかには粉飾をしているところもあります。地場企業の経営体質をきちんと見てみてみると、債務超過の会社がかなりあるんですね。黒字にしないと公共の仕事が取れないから粉飾しているんです。

そういった企業を改善しなければ地域自体が駄目になってしまう。ですから我々は農家のおじいちゃんと同様、余計なお世話を焼きました。「これ、どこからどこまでが粉飾なんですか?」と聞くんです。すると「どこからどこが粉飾なのか、もうわからん」と(会場笑)。で、どうするか?一緒になって棚卸をするんです。そして伝票も一緒に整理しながら、「この辺までが粉飾で、この棚卸に関してはもう不良資産化しているから差っぴかなければ」といった話をします。そうしていくと、事実上債務超過になりますよね。

余計なお世話は更に続きます。そこから一緒になって経営再建計画を立て、人を集めていきます。そしてある程度の目処が付いたところで地銀の支店長を訪ね、「あそこが今厳しいのはお宅も分かっているだろうけど、今は経営再建に向けてこういう努力をしている。だから少し話を聞きに行ってくれ」と。そんな話をしながら、資金がショートしないような地銀にバックアップして貰うための手当てをしていくんです。

ほかにも色々な問題が出てきます。たとえば「社員に労働基準監督署へ駆け込まれてしまった」なんていう話も出てきます。仮にそうであれば、「それはちょっと俺でも分からないから社会保険労務士の仲間に訊いてみようか」となる。陸前高田はそういうことをやってきた地域です。ですから地元の中小企業経営者ネットワークというのは大変強固でした。

「8カ月あればうちの社員ならなんとかする。八木澤商店は経営再建する」

そのなかで、3月11日を迎えました。人口2万4000人の陸前高田では亡くなった方と行方不明の方が合わせて1800人にのぼりました。事業者は84.7%が壊滅しています。八木澤商店も工場を二つ持っていましたが、工場と本社はすべて壊滅しし、残ったのはトラック2台だけでした。総被害額は2億2000万を超えています。

当日の夜は社員や地域のお年寄りとともに近くの神社へ逃げました。ただ、そのときの写真を見てみると夜中の2時ぐらいに皆が笑っているんですね。人間いつまでも悲観的になっても、悲しんでもいられない。ですから夜中の2時ぐらいになると冗談のひとつも言いたくなってくるんです。近くに住んでいた和菓子職人のおじさんは、「実は地震の直前まで饅頭を100個焼いていた。あれはかなりいい出来だった。あれが今ここにあったらなぁ」なんていう話を、皆が何も食っていない夜中にするんです。そうすると誰かが、「だったら津波の中、泳いでとってこい」なんて言って(会場笑)。そんな話もしながら、「もうどこも被災してどうにもならない状況だから、明日からは皆で生きるためになんとかするぞ」と。「八木澤商店は経営再建するから」と、私はそのときから吼えていました。

具体的に何を考えていたかというと、まずは借入金の総額が頭にありました。経営者の頭の中にはバランスシートが常にあって、一方には借入金、もう一方には現預金が入っています。で、借入金は支払いの優先順位を変えるため、一時的にストップする。そして「役員報酬ゼロの状態で、社員の給与を払うために現預金をすべて使うと、売上ゼロで何カ月持つか」と計算しました。すると8カ月ある。「8カ月あればうちの社員ならなんとかする。それならやってやろう」と、経営再建を決めたのです。

ただ、もともと経営理念は持っていた八木澤商店ですが、あのときは経営機能を失ったためにそれを追求することが出来なくなりました。人間は残ったから、何がなんでも再建はする。ただし醸造の機能を取り戻すまでのあいだは、「生きる」、「暮らしを守る」、そして「人間らしく生きる」という3つの方針を軸にしていこうと考えました。「だから経営理念はしばらく封印する」と社員には話しました。そして「4月1日に再び集まって欲しい」とも伝えました。

ただし、その前からやることはありました。まず、陸前高田には高田自動車学校というところがあり、その社長である田村滿さんは我々同友会の支部長でした。で、こちらの学校はコースから寮から教室からまったく被災していなかった。これは便利でした。コースは救援物資の収集場所になり、夜は消防のトラック、自衛隊のトラック、警察車両の青いトラックがやってきました。彼らは、その中で座ったまま寝ていたんです。そして震災後1週間目あたりから救援物資が全国の仲間から届きはじめたので、我々はそれを配る役割を担うことにしました。市役所でも全職員の4分の1にあたる116人の方々が犠牲になっていたので、救援物資を運ぶような機能も著しく低下していたためです。

当時は40カ所ほどあった避難所のほかに、たとえば一軒のお宅に40〜50人が避難しているような状況もありましたよね。しかしそこのお宅の方々は「支援物資を貰いにいけない」と言うんです。これは日本人の心理だと思います。「避難所で救援物資を必要としているのは家を流されてしまった方々だから、家が残った自分たちは貰いにいけない」と。それで、家にあった自分たちの衣服や食料を避難してきた方々にすべて提供してしまった状態なのに、それでも物資を貰いに行かない人々がたくさんいました。我々はそういった方々にも救援物資を配っていきました。

一方、もともと「一社も潰すな」というスローガンを抱えていた訳ですから、同友会としての活動も行いました。まず盛岡にある中小企業家同友会の事務局へ行って、市中銀行の全フリーダイヤルを何十枚もコピーしました。そして八木澤商店や田中さんのところの社員、あるいは同友会の仲間たちで、救援物資とともにそのコピーを配っていきました。なぜか。経営者自らが電話し、口座を凍結させるためです。「金融機関はフリーダイヤルを持っているので、なんとか電話が繋がるところまで行って自分で電話をしてください」と。米びつの底に穴が開いているのだから、まずは自動引き落としを止めるよう伝えました。

そして次に、雇用を維持しながら経営を再建する方法を探っていきました。それでハローワークにも行ったのですが、最初は「解雇してください」ということを言われました。「こういう状況なので一時休業し、経営を建て直してから皆さんを呼び戻してください」と。しかし被災した85%の企業が一斉に解雇をしたら、その街は無くなってしまいます。自分たちの街が無くなったあとに経営を再建出来たとしても、絶対にそのあとで再度潰れますよね。ですから「今守るべきものを守ろう」という考え方でやっていきました。

「与えられ続けることで人の自立の機能は驚くほど低下する、そのことを恐れていた」

もちろん自社の経営再建にも注力しなければいけなかったので、私は4月1日に八木澤商店の代表取締役に就任しました。何故そのタイミングだったかというと、若いから。親父より長生きするからです。若くて長生きする人間が「再建します」と言えば、まず社員が安心します。金融機関やお取引先、何よりお客さまも「再開するんだな」と思ってくださいます。長期でモノを考えることの出来る若い人間が全責任を負ったうえで「進めます」と言えば、「じゃあそれに協力しようか」という考え方に変わるんですね。

それで営業所を5月2日に開いたのですが、そのあいだも救援物資の配達や倒産防止の活動は続けていました。で、そのなかで感じたのですが、危機的な状況下で役所は素晴らしい動きを見せてくれました。まずは国の役人が4月13日に現場へやって来ました。中小企業庁、経産省東北経済産業局、そして中小企業基盤整備機構の部課長クラスがきて、「プレハブで仮設の店舗や工場や営業所を建てましょう。国が無償で貸与します」と言う。「ただ、これは完全なフライングです。法案も決まっていなければ予算もまだ見えていない。でも自分たちの首をかけてでも成立させます」とも彼らは言っていました。

それを聞いた私は、「行政は今動ける状態じゃないから我々民間でやる」と言いました。また、「首をかけると言うのなら貴方たち全員の名刺をください。すべてコピーする」とも言いました。そのコピーをうちの社員や同友会の仲間が、救援物資と一緒に配っていったんです。我々一般人が「国が建てるらしいですよ」と言っても誰も信じないから彼らの名刺が欲しかった訳ですね。彼らも「私たちの名刺で良ければどんどん使ってください。説明が必要なら直接伺います」と言ってくれていて、すごく協力的でした。

また、これは4月後半の話ですが、被災地にテントを持ってきてくれたWFP(国連世界食糧計画)に田村さんが電話をして、「(テントを)商売に使いたいけれども良いか」と訊いてみたんですね。すると向こうは「基本的には物資を保管する倉庫ですが、建てたあと何に使ったからといってそれを処罰する法律はありません」と言う(会場笑)。ですから我々はテントを建てたうえで、地元の魚屋・肉屋・お菓子屋・飲食店に「商売をやるぞ」と声を掛けていきました。

で、普通は考えられないのですが保健所に図面を持っていって、「木造でこういう小屋を今日明日にでも建てますから許可をください」と。それで6つの営業許可を1日で取って来ました。それほど現場判断に委ねられていたんです。すごいパワーですよ。上を通してハンコを押して云々なんていう話じゃない。それで本当に5月1日から営業をはじめました。保健所に行ったのが26日ですから、大変なスピードです。

とにかく早く営業を再開したかったんです。売る喜びと買う喜び。お金を出してモノを仕入れ、そしてお金をいただいて商品を売りたかった。何故急いでいたのか。恐れていたのは人間が自立する力を失うことでした。与えられ続けることで人の自立の機能は驚くほど低下していきます。救援物資に対しても最初は「ありがとうございます」と感謝するのですが、そのうち「そこへ置いておいてください」に変わってしまう。人間としての気概を失ってしまうんですね。それを失ってしまうと復興のエネルギーも沸いてきません。

ですから八木澤商店も5月2日にひと山越えた一関で営業所開きを行い、商売を再開しました。陸前高田からは1時間半ほどの距離なので社員には苦労をかけましたが、ともかくもその年の9月、こんにゃく屋さんの工場にある一角を借りて、つゆ・たれ類の製造を開始しました。資金調達はミュージックセキュリティーズの「セキュリテ被災地応援ファンド」というマイクロ投資の制度を使いました。一関へ移った当初は社員に「陸前高田を捨てるんですか?」と聞かれましたね。「陸前高田で看板を掲げたい。“見捨てた”って言われたくない」と彼らは言うんですね。実際のところ、相当言われていたのだと思います。

「2200人の方が亡くなった中、震災前の97.4%まで雇用を回復。いよいよ緒に就いた」

しかしその1年後には、本社機能だけですが陸前高田に戻すことも出来ました。陸前高田にもともとあった古い建物を改修したうえで、そこに営業、事務、店舗の機能を戻しました。改修は糸井重里さんの紹介があり、京都で数奇屋建築を手掛ける三角屋の三浦史朗さんという建築家の方に行なっていただけました。予算がないと申し上げたのですが「中身の施主は八木澤さんだけれど外見の施主は自分がさせてもらう。八木澤商店が戻るのならきちんとしたものにつくりかえないと」と、古い旅館を直してくださったんです。全面漆喰のなまこ壁を持つ素晴らしい建物となりました。

一方、製造機能に関して言えば陸前高田ではまだ上下水のインフラ等が復旧していなかったこともあったので、大東町に工場を建てました。震災1年前に廃校となっていた大原小学校というところを利用しています。こちらは本来であれば一関市で校舎を解体し、そのあと工業用地として八木澤商店に販売する流れになった筈ですが、「それだと八木澤商店がもたないだろう」と。時間短縮のためにも八木澤商店が校舎ごと土地を買えることになりました。校舎解体費用については見積もりを一関市に見せて、そのぶんを購入費用から引いていただくことになっています。それで「校舎解体はキャッシュフローが潤沢になってからやってくれればいいから」と。そんな流れで醤油の醸造を再開し、3月には仕込みも再開する予定です。

さて、最後に地元の就業人口を見てみたいのですが、震災前は陸前高田と大船渡で1万6020人が働いていました。そして震災後の一番底ということでおよそ4400人の雇用が一時的に奪われましたが、85%の企業が壊滅したという状況下、逆に言えばそれほど残ったとも言えます。で、そこから就業人口は伸び続け、昨年12月時点で1万5612人にまでなりました。2200人の方が亡くなった陸前高田と大船渡で、震災前の97.4%まで雇用が回復したんです。有効求人倍率は1.54。今年1〜2月ではさらに上がっていると思います。

こうなると今度は別の問題が出てきます。賃金がどんどん上がっているんですね。仕事はたくさんあるのに人がいないから。しかしこれからは色々な会社や工場が立ち上がりますし、ショッピングセンターもホテルも建てられていきます。「そこで誰が働くの?」と。ですから働く人も外から呼んでこなければいけません。

また、現在はインフラ復旧の仕事がかなりあって、これも10年ぐらいは続くと思いますが、やはりいつかは無くなってしまいます。ですから10年後に向けた仕事の種を今から造っていく必要もあります。そこで我々は、「なつかしい未来創造」という会社をつくりました。復興街づくり会社ということで、地元の中小企業経営者と、東京のソーシャルビジネス・ネットワークという社団法人が協力して株式会社化しています。

もちろん、今でも被災企業のなかには再建見通しが立たないところは結構あります。そのあたりをどう解決していくか。八木澤商店の売上もまだ震災前の6割で、損益分岐点に届いていません。ただ、ダイレクトマーケティングで直接販売するお客さまの数は震災前のおよそ3倍になりました。ですからその辺に注力しつつ、さらには地元で復旧・復興したお客さまにうちのお醤油やお味噌を使っていただけるよう、今は色々と提案しているところです。そこで生まれたものを、今度は八木澤商店の醤油を使った新商品としてダイレクトマーケティングでも売っていく。そうすると我々としても、新しく立ち上げていく人たちとしても、商売として成り立つと思います。大事なのは立ち上げたあとにもお客さまがいるかどうかですから。そんなお客さまづくりを本業でやっていくことが、復興における我々八木澤商店の役割だと思っています。

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