渡部昇一氏 「リーダーが引き継ぐべきもの 

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奇跡的な成功を為した「弐キ参スケ」の満州政策

渡部昇一氏(以下、敬称略):今日はこれほど多くのリーダーである方々、あるいはこれからリーダーたらんとする方々を前にお話しする機会をいただき、大変光栄に存じます。

私は数年前、ある出版社から「戦後総理大臣の銘々伝を書いて欲しい」と言われて執筆したことがあります。東久邇宮首相から安倍首相までの範囲で書いておりました。私はそのあいだに首相となったすべての方々を終戦直後から、間接あるいは直接見知ってきております。彼らがどのような決断をしたか、どのような法律をつくったかということを、一応、ざっと見続けてきました。

そうして見ておりまして、あることが分かりました。たとえば富士山というのは遠くから見ますと高いと感じますよね。ところが実際にうんと近くへ行くと、まあ高い山でも小さい山でもだいたい同じ高さに見えます。そこで再び離れるとよく分かる。そんな風にして現代から振り返ったうえで「戦後総理大臣で最も偉大だったリーダーは誰か」と聞かれたら、これはもう断然、岸信介になります。

岸信介さんは戦前はエリート官僚であり、四十幾つで当時の商工次官となりました。満州の経済政策を引き受け、当時「弐キ参スケ」と呼ばれていた実力者のひとりです。弐キは東條英機と星野直樹で、参スケというのは岸信介のほか、鮎川義介と外交官の松岡洋右ですね。

彼らの満州政策は、もう奇跡的な成功でありました。現在では満州というものについてあまり語られませんけれども、当時は満洲国が独立して…、独立というか満州帝国が出来た訳ですね。清朝最後の皇帝は満州族なんです。清朝というのは満州族の王朝なんです。彼らの先祖が徳川家康の時代に満州を制覇し、そしてその孫ぐらいの代になって北京および全支那を征服しました。

ですから清国というのは満州族王朝でありました。それに対して独立運動が起こった訳です。孫文はこれを革命と言いました。まあ、ある意味では革命かもしれませんが。孫文は日本に来てから革命という言葉を覚え、それを大変気に入ったそうです。しかし本当は支那人の満州族に対する独立運動だったんですね。それで紫禁城を追われまして、北京市で殺されかかっていた溥儀が日本の公使館に転がり込んできたという訳です。これがそもそものはじまりでした。

で、当時の日本には歴史を知っている人が多かったので、「満州人ならば満州の祖国に返せばいいのではないか」となった。そこで彼を満洲国皇帝に奉りあげました。これは傀儡政権と言っても良いのですが、皇帝は満州族です。先祖代々から続く彼らの血を引く皇帝であり、大臣もすべて満州人および清朝の忠臣でありました。ですから傀儡政権と言っても立派なものだったんです。

しかし彼らは近代化を成し遂げる能力や組織を持っていませんでした。それを助けたのが冒頭で申しました参スケです。岸信介は経済政策を担当し、鮎川義介は実業家として日産グループの母体となった企業を持って行き、そして松岡洋右は満鉄総裁として活躍しました。南満州の鉄道ですね。そうしてわずか十数年のあいだに満州を世界で最も輝ける地域にしていったんです。

それがどれほど素晴らしかったか。ソ連は敗戦直前、火事場泥棒のようにして満州の主な工場を皆持っていきました。ただ、持っていかれたのですが残っていたものもあった訳ですね。そしてそのあと?小平が改革開放政策をとるまで、中国におけるほとんどの工業生産はその残りで行なれていたほど素晴らしいものだったんです。

当の岸信介は東條内閣発足時に商工大臣となり、のちに軍需次官へ…、大臣は東條さんが兼任しましたから次官となりましたが、実質的には大臣となりました。しかし安倍晋三さんが総理になったとき、野党のどなたかが愚かにも「あなたは自身の祖父が東條内閣の大臣であったことを恥じないのか」と言ったんです。すると安倍さんまで反省しているというようなことを言った。ですから私は後日お会いする機会があったときに「とんでもない」と安倍さんに申しあげました。

東條内閣というのは当時の天皇陛下に「何がなんでも戦争がはじまらないようにせよ」という目的を以って任命されたのです。ほかに引き受け手はいませんでした。当時、軍隊を抑えながら平和交渉を行うことの出来る力を持った人物は東條しかいなかった。ですから東條は、本当にありとあらゆる力を尽くして和平交渉を行いました。それに協力するため、経済界から当時の商工省を握っていた岸信介が入閣していたんです。ですから安倍さんに「平和のために大臣となったのであって、何も恥じることはありません」と申しあげたんですね。当のお孫さんですらそのようなことを教わっていないような、そんな日本の教育が情けないですね。

結局のところ、戦争をはじめたのは東條という形になりました。しかし、昨今はこれまで秘密とされていた資料も出てきています。どのみちアメリカは日本と戦争をするつもりだったんですね。すでにルーズベルト大統領は1941年の9月何日かに、日本空爆を求める署名にサインをしています。ですから現代から見れば、平和を目指した東條内閣の努力というのは無駄であったことが分かります。実際に戦争もはじまってしまいました。

岸信介は戦前、「計画経済を志向している」と悪口を言われていました。しかし当時の様子を見ると世界はすでにブロック経済化していた。ソ連、イギリス、アメリカ、それからナチス…、なんだかんだ言って自由貿易が出来なかったんですよ。その状況下でどのように生きていくのかと考えたとき、出来ることは一つでした。国家で経済を統制し、資源を上手く使うほかに仕方がなかった訳ですね。それだけの頭と器量と迫力を持った人物の代表格が岸さんだったというお話です。

しかし戦争がはじまり、のちにサイパンが落ちますと、岸さんは「もう自信がありません」と。これからは終戦に向かって努力して貰うほかないと言いました。その以前から「サイパンは守ってください」と言い続けていたんです。ところが東條さんは残念ながら、統帥のこと、あるいは軍事のことに口を出すなと言って岸さんの話に耳を貸しませんでした。ですからサイパンをろくに防御しなかった。しかしサイパンが落ちたら本当に物資が来ませんから戦争を続けることは出来ません。

東條さんは岸さんのクビを切ろうとしました。ただ、切りたかったのですが当時の憲法上それは出来ません。大臣のクビを切ろうと思ったら総理大臣をはじめ内閣が総辞職する必要があった。そしてそのあと、天皇に再任されたら新しい内閣をつくることが出来る訳ですが、嫌な人がいたらそのときに外すという形にしか出来なかったんですね。結局のところ東條さんを引きずり落とすひとつの大きな力となったのは、岸さんと東條さんが意見を異にしたということであります。まあそんなことを買われてか、戦後に岸さんはA級戦犯になりましたけれども死刑は免れました。

日本の平和と安定、そして繁栄は岸信介氏の改訂した枠組みの中にあった

その後サンフランシスコ講和条約が結ばれました。あれは朝鮮戦争によって「日本の言い分は正しかった」ということをはじめて反省したアメリカがばたばたと結んだ平和条約です。で、そのときに岸さんもA級戦犯から 開放された訳ですね。ただし公職追放はそのまま続きました。そこで政治に復帰しようとしてどうしたか。岸さんは政界に復帰する直前、巣鴨拘置所から出てきて間もなくドイツを訪ねます。ドイツの復興があまりにも目覚ましかったからです。それはもう奇跡と言われていましたし、実際、奇跡のような復興でした。

私も終戦直後にドイツへ留学する機会があったので分かります。当時の東京では学生寮もトタンづくり。冬は外の寒さと寮内の寒さが同じで、夏はもういられないぐらい暑い。トイレも外にあるというような、そんな代物でした。ところがドイツへ行って見てみますと、敗戦後に建てられた学生寮でもセントラルヒーティングで、水道も部屋まで来ているんですよね。当時の日本であれば一流旅館でも水はだいたい廊下まで。部屋までは来ていませんでした。

岸さんはそんな部分も知っていたんでしょう。ドイツへぱっと見に行って、アデナウアー首相の良いところを採り入れました。彼は外交ではアメリカと一緒にやっていく、共産主義には一切妥協しない、そして経済は自由主義。それによってドイツはあっという間に戦勝国のイギリスを超えるような復興を遂げました。岸さんはそれを見て「その通りにやろう」と考えました。

岸さんは戦前の人ですし、戦前の事情をよく知っています。ですから先の戦争で日本だけが悪かったなんて思っていません。爪の垢ほども思っていないんですよ。ですから彼には政界に復帰したのち、ともかくも最初にやらなければならないことがありました。まず強引に自由党と日本民主党による保守合同を進め、そうして誕生した自由民主党の幹事長となりました。そのあと自らが首相になった訳ですね。そこで最初やらなければならなかったのが、憲法改正ということです。

岸さんは東大法学部出身で、在学中は1〜2を争う秀才だったそうです。東大で教授になろうと思えばなることも出来たそうで、とにかく頭がものすごく良かったと。ですからいわゆる新憲法というものが憲法ではないこともよく知っていました。憲法というのは主権の発動です。占領下で主権がある筈はないんです。しかも占領軍は恒久的な法律を被占領国に課してはいけないと、ハーグ国際条約でも決まっている訳です。

つまり国際条約違反のもとで勝手に進駐軍が日本に憲法をつくらせた。日本人がつくったという形にした。それも自分の意図を入れてね。すなわちそれは占領政策基本法であると岸さんは見てとりました。ですから、だからこそ、まずはこれを変えなければいけないということですね。

また、サンフランシスコ講和条約における一番の欠点として、独立を回復したと言いながらも米軍が日本において占領時代と同じように動けるということがありました。米軍の駐留に関しては占領時代と同じだったんです。ですからまず安保条約を改正して、日本として対等の条約にしなければいけない。そこで安保改定を第一に目指しました。当り前なんです。誰が見ても、少しも悪いことではありません。改定しなければアメリカ軍は占領時と同じように振る舞える訳ですから。

ところが…、皆様のなかですと覚えている方はいらっしゃらないかもしれませんが、60年安保闘争というものは空前絶後。それはそれは怒涛のごとき闘争でした。わっしょいわっしょいと、もう何万もの人々が議会に毎日押しかけてきた。それで警察も守ることが出来なくなって「どこかへ避難して隠れてください」というようなことを岸さんに言ったんですね。そこで岸さんは「首相の俺が一体どこへ隠れようというのか。死ぬならここで死ぬのだ」と言い放ちます。度胸はありますよ。戦前の人ですから。しかもA級戦犯として絞首台を目の前に見ていますから。

デモが最も盛り上がったとき、もう首相官邸には弟の佐藤栄作さんと岸さんの二人しかいませんでした。お付きの人間たちも皆、怖がって逃げてしまった。しかし安保改定は通しました。そうして成立した安保条約の枠組みは、今に至るまで少しも変わっていません。岸さんが通したままですよ。そののちに高度成長も何もかもがあった訳です。

こんなことを申しあげると自慢になってしまいますが、当時外国から帰ったばかりの私は「この条約改定のどこが悪いんだ」と言っていました。そんなことは誰でも分かります。ですから上智大学のなかで岸首相を励ます会というのをつくりました。あまり集まらなかったのでデモなんぞは出来ませんでしたけれども。まあそれでも「せめて岸さんを励ましましょう」ということで、岸さん宛てに激励の手紙などを書いたぐらいのものでした。ただ、いずれにせよ岸さんは怒涛のごとき当時のデモに屈しなかった。他の人間は大丈夫なのに皆逃げてしまったんですね。しかし彼は屈しませんでした。条約改定は自動で通った訳ですが、その後、右翼に刺されて引退なさった訳です。

とにかくそのあと何十年と続く日本の平和と安定、そして繁栄は、岸さんが改定した枠組みのなかにあったんです。一人あたりGDPが一時アメリカを超えるほどにまで成長したのは、その枠組のなかでだったんですよ。これは素晴らしいと思います。あれほどの怒涛のごとき世論を押し切り、「もうこれしかない」と。もし岸さんが刺されずに少なくともあと5年、あるいはあと10年首相の地位におられましたらと、私は今でも残念に思います。もしそうなっていたら、現在、我々が大きな問題と言っているものも皆無くなっていたのではないかと思われるほどです。

しかし実際には安保を改定したのち、さらに憲法をいちからつくり直さなければいけなかった。しかしあの安保闘争における凄まじい左翼の攻勢に恐れをなした以降の首相たちが、それを表に出すことはありませんでした。一応、綱領のなかでは唱えたりしますけれども。で、岸さんの後を継いだ池田内閣は所得倍増計画という経済主義に走りました。経済主義自体は成功した訳ですし、それはそれで良かったと私も思います。しかし「日本が独立国であるために今の憲法では駄目なのだ」という、岸さんが最初から目指していたことは皆いつの間にか忘れてしまった訳ですね。

憲法9条なんて言いますが、あれはまあ運動家のインチキというか、一つの手なんですね。本当に問題にしなければならないのは前文ですよ。憲法前文のなかで日本国民は生命を…、命をですよ?日本人の生命と安全を、平和を愛する他所の国に預けると書いてあるんですよ。国民の生命を外国に預けるなんていうそんな前文が、どこの国の憲法ありますか。しかし前文については「九条の会」の人たちも言及したがらないんですね。さすがに「命まで外国に預けるのは嫌だよ」と言われてしまうから。ですからそれをずっと誤魔化し続けているという訳です。

いずれにせよ、世論の大変な反発を受けますと勇気ある首相でも一番大切なことをやりかねてしまう。ですから私としては、…今年で82歳になりますが、私としては本当にあのとき岸さんがあと5年、可能であればあと10年、首相を続けてくれていたらという思いを持っています。

岸氏存命であったら「もんじゅ」を日本の大目標とするのでないか

で、次のお話については皆様方のご意見とも違う部分があると思います。今、日本の世論で私が一番恐ろしいと思っているのは反原発運動です。福島の原発、大変なことになりました。しかし世界はそう見ていませんよ。世界のなかでも分かっている人はそう見ていません。では福島の原発で何が分かったか。日本の原発はマグニチュード9の地震でも大丈夫だということです。地震で壊れた原発はひとつもありません。不幸にも津波で、しかも電源がやられました。ですからその辺はまずかった訳ですが。福島第一よりも震源地に近い女川原発は大丈夫で、むしろ被災者の人々が避難する地域になっていた訳です。それを世界中が「ああ、そうか」と見ているんです。しかも福島第一は日本で最も古い原発で、その後の原発は改良されたものばかりです。

それで実際にどうなったか。まずアメリカは30数年ぶりで原発をつくる決定を致しました。原子炉は東芝(の子会社)のものです。ベトナムもトルコもなんだかんだと計画しています。しかも一番近くの韓国は日本海に面したところで2基つくると、昨年のうちに決めました。

何故ならば日本の原発技術は、本当の地震波が来る前の弱い波を捉えて運転を止めるという技術を完成させていたからです。これは世界でも日本でしか実現していないんですよ。東日本大震災でもすべて止まった訳で、運転中の被害は皆無でした。ですから「チェルノブイリの事故と似ている」とか「長崎や広島に似ている」というのは、すべて嘘っぱちなんです。

しかも騒いでいる人たちは震災前から反原発の考えを持っていた人です。菅さんも昔は学生運動で産学協同に反対していました。「学問と経済界が結びついてはいけない」と言いながら、わっしょいわっしょいとやっていたような人たちなんですね。それが本気で「原発を止めよう」なんていうことを発言してしまった。

そして面白いことに、これを支持するのは左翼ともうひとつ、はっきり言えば韓国の手が廻っている人か、手が廻っている人の手が廻っている人なんですよ。なんとなれば韓国は日本の原発事故を見てすぐ、日本海側で2基つくることを決めましたね。韓国は電気が足りず困っている国なんですよ。少し前にも大停電がありました。だから原発をすぐにつくるんです。日本海沿岸に。

しかも国策として何を掲げましたか? 80基の原発を輸出するという目標です。玄葉(光一郎氏:衆議院議員、外務大臣)さんは先日、「原発をつくってくれ」と言われてトルコへ行ってきました。しかし現在の内閣は脱原発向きですから「まあまあ」と言ってあまり乗り気ではなかった。そこを突いて李明博大統領がトルコへ行っているんですよ。「韓国の原発を買ってくれ」と言うために。スリーマイル島での事故以来30数年つくらなかったアメリカも、「日本の原発はどんな地震でも大丈夫らしい」ということで新規の建設を決めました。

皆様も御存知の通り、原発というのは福島の事故が起きるまで地球に一番やさしいと言われていました。私は前々から反原発について非常におかしいと思っていたのですが、若い頃からその根拠はあったんです。私は大学時代、広島の原爆を受けて片耳が潰れた男性と同じ寮の同じ二人部屋で過ごしていたんですね。これが元気なんです。医者に行ったところを一度も見たことがない。外国でも3年間、隣部屋にいました。医者になど一度も行っていません。

ですから当時から「いやあ、おかしいな」と思っていたのですが、その後の研究でようやく分かるようになりました。放射能は有害だと言われていますが、これは瞬時にして高線量の被爆がある場合です。低線量の放射線は体によいです。

アメリカは沢山の宇宙飛行士を輩出していますよね。で、彼らはものすごい放射線を浴びています。日本人でも半年ほど宇宙に滞在し、百数十mSvの放射線を浴びて帰ってきている方がいます。その方の健康データを見てみると宇宙へ行く前より行った後のほうが良いんですね。「福島に避難が必要な人は一人もいない」と、オックスフォードのウェード・アリソンという名誉教授も言っています。あの程度なら一人も避難する必要はないと。しかしそこで強制的に動かしたのならば、恐らくはそのストレスによって死ぬ方も出てくる。そういったストレスをSvに置き換えたら、それこそ数十万〜数百万mSvになってしまうというようなことを言っておりました。

つまりまったく必要のないことをやって、しかも電気も止めようとしている訳です。日本はすでに貿易収支も赤字になっています。何故ならば電気のために燃料を買わなければいけないから。しかも燃料はホルムズ海峡の封鎖危機などで高騰しています。それだけではありません。火力発電所は現在、あちこちで故障を起こしています。原発と同じレベルでコンスタントに動かすことが出来ません。

もし、今の日本で岸さんのように未来への見通しを立てることの出来る人がいたら、昔の…、昔と言っても実際にはまだ消えた訳ではないのですが、「もんじゅ」を日本の大目標にすると思いますね。「もんじゅ」では、燃料はひとたび供給されたらあとはもう必要ありません。環境汚染もゼロです。私は20〜30年前、筑波大学の設立者であった福田(信之)先生から直接聞きました。「渡部君。この高速増殖炉という技術が完成したら日本は500年〜1000年という単位でエネルギー問題から開放されるんだよ」と仰っていました。実際にその技術が完成されたとき、その可能性が生まれることを否定する人はいません。

考えてみますと明治時代に入るまで日本が無事に進むことが出来たのは、燃料が木材や炭ぐらいで良かったからです。産業革命の時代に明治へと入りましたけれども、当時は幸いにして日本にもまだ石炭がありました。だからこそ日清日露も勝利することが出来た。ところが第一次大戦のあたりから軍艦のエネルギーが石炭から石油へと変わっていきます。そしてそれ以降、日本の軍部は勝機を失ってしまった。日本には石油がありません。石油が無くなったら戦車も動かず、飛行機も飛ばせません。連合艦隊なんて言ってもまったく動かせない訳ですね。

それから軍部がおかしくなっていくんですね。燃料問題の解決策が見あたらず、そこで焦っているうちに外交でもしくじったりします。あるいは元来、アメリカのほうでもそれを狙っていたりして、そこで悲劇に突入していきました。そして新しいエネルギー、つまり原子力によって日本は終わりました。戦争に敗れました。

しかしそのあと中近東からべらぼうに安い石油が産出され、そこで日本経済の復興も可能になりました。しかし安い石油もやがて第一次および第二次オイルショックを迎え、再び危なくなった頃に日本もようやく気が付きます。反原発の人たちが騒いでいるあいだも有志が集まり、着々と原発の研究等を進めながら去年までは来た訳です。

そんな現状において原発を無くしたらどうなるか。替わるものは今のところありません。何もありません。太陽光なんて言いますがまったく問題になりません。そもそも福島で亡くなられた方は一人もいないんですよ? 雪下ろしで毎年多くの人が亡くなっているじゃないですか。福島の原発事故から数えても、交通事故ですでに4000数百人が亡くなっています。しかしそれは問題ないと言う。一人も死んでいない原発が危なくて、逆にたくさん死んでいるものが危なくないように言われるのは何故かと、我々は考えないといけません。

原子力船の「むつ」が葬られたときのことを考えてみるとどうだったか。「放射能が漏れた」と大騒ぎでしたでしょ? しかしあれは2〜3日漏れ続けていてもレントゲン撮影1回ぶんほどだったんです。それでも騒ぎになり、結局、日本は原子力船をつくることが出来なくなってしまいました。中国が原子力潜水艦をつくっているとき、日本では左翼が、陸上で原子力設備もつくれないようにしていったんです。

第五福竜丸の事件も同様です。「水爆の灰を浴びて大変だ」と。さらには久保山愛吉さんが亡くなって、それはもう大騒ぎになりました。学校教育の現場でも原子力の恐ろしさを教えるため、日教組が徹底的に第五福竜丸の例を引き合いに出した。ところがあれは嘘だったんですね。久保山愛吉さんは放射能によって死んだのではありません。本当は売血の輸血による急性肝炎で亡くなったんです。しかしその事実は隠されて「放射能の灰で死んだ」と、日本中が騒いでいたんです。

現在は原発反対運動というものの風が吹いています。しかし日本の原発は世界で最も進んでいるのですから、これをむしろ輸出の大柱にしていくべきだと私は考えています。しかも「もんじゅ」を目的にする。原子炉の輸出金額は1基でも大きい訳ですから収入も増えます。それでGDPが大きくなれば税収も増える。そうすれば増税も必要なくなるのではないかと。そのようなことを言えるリーダーが出てきて欲しいと私は思っております。そんな訳で今日は思いつくままお話を致しました。ご清聴ありがとうございました(会場拍手)。

世界に打って出るほど自国のアイデンティティが必要となる(堀)

堀義人氏(以下、敬称略):渡部先生、本日はお忙しいなか雪の青森までお越しいただきましたこと、まずは御礼申しあげます。私は先生の著書をかなり読んでおりまして、先日、本棚を整理していたら先生が書かれた本だけで10冊以上出てきました。ですから私自身、かなり影響を受けているというか、あるいは考え方について相当勉強させていただいたという風に思っています。

さて、私たちはこのG1サミットをリーダーの集いであると位置づけています。日本を背負い、世界で活躍出来るリーダーが集まっているという位置づけな訳ですね。で、実はそのG1では毎年、これはもう私の我がままなのですが、日本のアイデンティティや歴史に関するセッションを常に必ず組み込んでおりました。しかも分科会ではなく全体会としてやっていこうと。

何故かというと、たとえば私自身は恐らく、海外で最も日本からの発信ということを行なっている日本人の一人であると自負しております。ただ、世界に出れば出るほどやはり自分のアイデンティティが必要となってくるんですね。自分は何者であり、その背景にはどのような歴史や文化があり、さらにはどのような人間であるべきなのか。そういったことについて、多くの人たちに自分の思いを伝えていくことが重要だという風に考えております。

ところが…、これは渡部先生の著書を数多く拝読している私としても感じるのですが、日本は近代史というものを中学高校の過程でほとんど教えていませんよね。明治維新前ぐらい終わってしまいます。そのような環境ですから歴史の勉強はほぼ独学でやっていくしかありませんでした。そうして独自に数多くの著書などを読んできたなかで、自分なりの見解を持つに至り、さらには世界に向けて堂々と自身の見解を発信出来るようになっていった訳です。

それで、たとえば歴史に関しても中国や韓国の友人たちとも徹夜をして語り明かしたことがあります。その結果として彼らも私の考えに関しては納得していると言います。そういう意識をかなり実感として持っています。逆に言えばそこまで自分の考えをはっきり出すことで、彼らとしても認めてくれるという部分があると思うんですね。

今日は先生のお話を伺っていたあいだ、以前、瀬島龍三さんのお話を伺う機会があったことを思い出しました。そのときの瀬島さんは、ご自身がシベリアに抑留されていた6〜7年間に何を考えていたのかというお話をしていらっしゃいました。牢獄で強制労働を課せられていたその冬のなかで、何を考えていたのか。瀬島さんは「一つだけを考えていた」と仰っていました。「どうして日本はこのような戦争に入ってしまったのか」と。そのことを考え続けていたそうです。

で、そのときに瀬島さんは1941年7月頃から始まるABCD包囲網について触れていらっしゃいました。彼はその日付まできちんと覚えていました。ABCD包囲網をかけられたときに「これをどうしようか考えた」と。で、これはもうどうしようもない。エネルギーがなければ日本では基本的に半年間ですべてが止まってしまうと。ですから「これはお手上げだった」と仰っていました。

そこでどうすべきかとなったとき、当時の内閣が日米講和を結ぼうとしたと言うんですね。講和と言うか、米国とのあいだで協定を結ぶ。そのうえで、陸軍がそれまで進駐していた領域からぜんぶ撤収しても構わないという考えまで当時は持っていたとのお話でした。それで近衞文麿首相がさまざまなルートを使って米国に接触しようと試みたのですが、基本的にあらゆる交渉が色々な理由を付けられて実施出来なかった。近衛首相は話を出来る相手ではないということで、すべての和平交渉が頓挫してしまった訳ですね。そこで近衛内閣が倒れた。先ほど先生のお話を聴きながら調べたら近衛内閣は10月18日に総辞職しており、その後の東條内閣に続いていました。

それともう一つ。今日お話を伺っていて感じたことがあります。それはですね…、たとえば戦前の軍事政権が良かったのかどうかという話は別として、先生が仰っていた戦後の左翼的な流れにのことです。実は私、原発に関して「とことん議論」という形で孫(正義氏:ソフトバンク代表取締役社長)さんと3時間半にわたる対話をしたことがあります。で、その前後も自分の意見を普通に言っていたのですが、もう凄まじい炎上になりました(笑)。実際に自分の考えを伝えようと思った瞬間からとんでもない勢いで批判が来た訳です。本会場には古川(康氏)佐賀県知事もいらしていますが、佐賀で原発再稼働に関する議論をしていたときもさまざまなことが起こったと思います。

現在は左翼的な考え方に大変な勢いがあるとのお話でしたが、私たちはそういった流れをどのように捉えていけば良いのかということも少しお伺いしたいと思っておりました。そもそも健全な言論の自由が担保されなくなってきているのではないかという危惧すら私は持っています。

渡部:私としてもそういった流れを見るにつけ、「何故こうも日本を悪くしたい人がいるだろう」と不思議に思っていました。そこで色々な方の意見を聞いたり本を読んだりしているうち、私としても朧げながら分かってきたと感じていることがあります。

まずサンフランシスコ講和条約まで遡ってみますと、これ自体は日本にとって大変めでたいことですよね。占領から離れて主権を回復するということですから。それで当時の首相であった吉田茂はすべての党首たちに「これはめでたいことだから一緒にサインをしよう」と誘ったんです。しかしスターリンはサンフランシスコ講和条約反対でした。これに日本が調印するということは、当時で言うところの西側、つまりアメリカ側に日本が入ることを意味するからです。そうなると日本共産党が同条約に反対するところまでは理解出来ますよね。

ところが野党第一党の社会党も反対だったんです。これが分からない。その部分を見ながら色々と他の状況についても考えていくにつれ分かったことがあります。スターリンに遠慮していたというのがまず一つありますが、もっと大きな背景があった。当時は社会党の大変強固な支持層がコリアンズだったんですね。そしてコリアンズは日本の独立を決して望んでいませんでした。

かつて李王朝の支配者であった李王家などは特別待遇を受け、現在の赤坂プリンスあたりで屋敷を貰っていた訳です。しかしの戦前の日本に来たコリアンの99%は極貧でした。極貧のコリアのなかでも極貧であった人々ですね。ところが彼らは占領下の日本で、皆、大金持ちになりました。なんとなれば闇取引をやっても警察がそれを取り締まることが出来なかったんです。占領軍が取り締まりを許さなかったから。それで当時、「彼らは占領軍でもないし日本人でもない、威張っている人々」という意味で第三国人と言われていた訳です。

第三国人は取締の対象にならなかったんです。ですから傍若無人でした。混んでいる汽車に自分たちが乗っていれば日本人を乗せない。日本国内の話ですよ。あるいは税務署が入ってくれば「叩き殺せ」ということも起きていました。しかしこれを取り締まることが出来ないから、ほとんど皆、一時的には金持ちでした。そのあと貧乏になった人はいますが。

その人たちが何よりも望んだことは、ずっとその調子が続くことです。占領が続いて欲しいということですね。ですから当時の社会党に対してサンフランシスコ講和条約に参加させまいという力が働いた。旧社会党の人たちは今でもその尻尾を持っています。まあ、原罪と言ってもいいですね。その原罪があるから、日本人であるにも関わらず「日本にとって良かれ」という気持ちにどうしてもなれないという部分がひとつあると私は思っています。

それから、名前は出せませんが自民党の大変有力な方から聞いたことがあります。我々としてもその情報を手に出来ないのですが、今の内閣のおよそ3分の1ぐらいはコリアンズか、コリアンズ系の人であると言われています。そうしますと分かるんです。日本の繁栄を潰すことに対しては実に熱心です。

日本の原発を止めたら韓国は繁栄し、日本は沈没します。分かりきったことです。反原発運動をしている人々のなかには…、まあ、なかには間違った危機感に基づいてしまっている善男善女もいるでしょう。しかしそれを煽りたてている人は、コリアンズか、コリアンズの手が廻っている人か、あるいはその手の廻っている人の手が廻っている人と、三段階ぐらい先にまで手の廻っている人々がいる。そこに善男善女が「原発は危ない。原発は危ない」という言葉とともに巻き込まれている訳です。

安保闘争と同じです。安保のときは完全にソ連の手先でした。安保を改定させないためにソ連の手が廻っている人、そして手が廻っているの手が廻っている人たちが学生や労働組合を煽りたてていた。それで、わっしょいわっしょいと何万人もが国会議事堂に押しかけていたんです。それは今振り返ってみると、もう実にはっきりと分かります。日本人同士の争いではなかったんですね。

民主主義は「生きている人間の特権階級意識」になっている(渡部)

堀:ありがとうございます。それでは次の質問に移りたいと思いますが、「リーダーが引き継ぐべきもの」という本セッションのタイトルにも関わることをお伺いしたいと思っています。恐らく今を生きる私たちには、過去から続いているものを一方では壊す必要と、そしてもう一方では引き継ぐ必要と、その両方があると思っています。壊すというのは改革によって変えていくという意味ですね。しかしその一方で引き継ぐべきものもある。その双方に見据えたうえで「この部分は変えるべきだ」ですとか、「この部分は引き継いで欲しい」といったお考えがあればぜひお伺いしたいと思っておりました。

渡部:はい。民主主義というものは知らず知らずのうちに生きている人間の特権階級意識になっているんですね。そうなると生きている人々だけは何をやっても良いという考えになります。死んだ人のことは一切考えない。生きている人々を特権階級にするのが極端な民主主義です。

これをイギリスのG・K・チェスタートンという作家は“横の民主主義”と表現しました。しかし「人間というものには先祖もあれば子孫もあるから縦のことも考えなければいけないよ」と。彼はそれを“縦の民主主義”と言っていますね。別の言葉にするとすれば、それが保守主義であると私は思っています。我々は今を生きています。ですから我々の便利を図ること自体は“横の民主主義”ということで良いと思います。しかし私たちには先祖がいますね。子孫もいますね。そこの部分についてまったく考えないような発想はどうかと思うんですね。

それが最も極端な形で表れたのがロシア革命ですね。当時、レーニンとスターリンの時代を合わせるとおよそ2000万人が殺されました。最も多く命を失ったのは老人ですよ。「自分たちが教育した若い人間がいれば良い。古い人間はいらないんだ」と。つまり生きている人々が超特権階級になったという話です。しかし、生きている人はある程度の特権階級ではあっても超特権階級ではないのだと肝に命じるべきだと私は思っています。

というのも、伝統には「どうしてそれが伝統なのか、その理屈は分からないものがあるからである」と。これは私が尊敬するフリードリヒ・ハイエクさんの言葉です。伝統というものには説明出来ないものがある。たとえば「何故、人が人殺したらいけないのか?」と言えば、そこには理屈があるようでないようなものです。ただ、そんなことを許す集団があれば彼らはいずれ無くなってしまいます。そうなると今存在している集団は集団として残ることが出来る何かの伝統を持っている筈です。同様に、栄えている集団は栄えるに足るような伝統を持っている訳です。

言い換えれば、かつて栄えていた集団が栄えなくなったとすると、これは栄えていたときに存在していたなんらかの伝統を壊してきたということが言える訳ですね。ですから現在の日本がもし下がり坂にあるとすれば、それは何かを壊していると思えば良いんです。そう考えると、革新よりも良い意味での保守が今は必要とされているのかもしれません。

堀:良い意味の保守を残していこうということですね。ありがとうございます。さて、本セッションあるいは今年のG1サミットも残り僅かとなって参りました。ではこの辺で会場のほうにもご質問を募りたいと思います。いかがでしょうか。ご意見でも結構です。では古川さん。

「言論の自由」とは、嫌なことを聞き、嫌なことを言う自由(渡部)

会場(佐賀県知事 古川康氏):堀さんからお名前が出ましたので発言させていただきます。佐賀県の知事をしております古川康と申します。G1には今年2回目の参加になります。

原子力発電所の立地県であるいくつかの他県と同様、佐賀県は昨年の大震災後、定期点検終了後に原発の再稼働を行うというその順番を待っていた県の一つでした。しかしその後、原発立地県である他県の判断によって、あるいは菅元総理の決断…、たとえば浜岡は本来であれば4月ぐらいに再稼働する予定だったのですが、菅元総理の決断によって、まだ再稼働させないという流れになります。で、その結果として現在は佐賀県の玄海原子力発電所における判断が、大震災後に原発を再稼働をさせるのか否か最初になされるべき判断ということになりました。

私がそのときに思っていたのは、とにかく判断を行う立場から逃げないということであります。リーダーの役割は色々あると思います。ただ、私には皆様に選んでいただいた者としての務めがある訳ですね。それが結果的に間違っていようがいまいが、まずはその時点で最善と思うことについてしっかりと判断を下す。そういうことであると私は考えております。そのことを職員にも告げましたし、職員もそれをしっかりと理解したうえで仕事をしてくれていたのだと思います。

もちろん私どもは当然、「安全性が確認されない限り再稼働は考えられない」という立場におりました。ですから一つひとつのプロセスを重ね、さらに安全であるか否かについて何度も政府とやりとりを行なっています。経済産業大臣にもご来県いただきました。そのことで、立地自治体である玄海町からも「再稼働に同意します」というお答えをいただいております。

ただ、私どもとしては経済産業大臣からのご発言をいただくことに加えて「可能であれば総理にも来ていただきたい」とお願いを致しました。当時の総理は「経済産業大臣と自身の考えは同じ」といったことを仰ってみたり、あるいはその発言を大変後悔をされてみたりと、私どもとしては「本当に政府の方針というものは決まっているだろうか」と不安になったためです。ですから官邸にも足を運んで「総理自身の肉声、あるいは総理のご意向がきちんと分かる形で判断をして欲しい」とお願いを致しました。それで結果的には当時の内閣として再稼働の判断はしない、あるいはストレステストというプロセスを新しく加え、そのうえで判断するという流れになりました。

もちろん佐賀県としても最終的にその時点で再稼働させるべきか否かという判断を予めしていた訳ではございません。しかし私どもとしてはそのように一つひとつ、判断のためのプロセスを積み重ねていたんですね。当時は経済産業大臣にご来県いただきましたし、夏場には電力が不足してしまうということも懸念されていました。

また当時は…、本会場にも該当する方はいらっしゃると思いますが、東京をはじめとした東日本から九州にビジネス拠点、生産拠点、あるいは本社を移すといった動きも出ておりました。当然、県内の企業というか全国展開している企業からも「九州で電力が確保されなかったときに備えて工場を閉鎖する順番を決めている」といったようなことも言われておりました。私どもとしては、とにかくそうしたことも総合的に考えたうえで判断をしなければいけないと思っておりましたが、結果的には再稼働させず現在に至っています。

こうした判断をするにあたり、先ほど堀さんから「大変だった」というお話がございましたのと同様、私自身にも色々なことがございました。記者さんには当時、「全国で初めて再稼働するということになれば、私は恐らく人類の敵のようなことを言われるに違いない」と言っていました。しかし誰かがその仕事をやらなければいけない。「再稼働させても大丈夫だ」というきちんとした判断が得られるのであれば、それを実行に移していく。それもまた自分の仕事ではないかと考えておりましたし、実際、当時からそういったことを申しあげておりました。

残念なことに私の名前はそういった本質的な部分によってではなく、九州電力にやらせメールをさせたとかさせなかったとか、そちらのほうで有名になってしまいました。その後、お目にかかる方々からも「ああ、あの有名な知事さんですね」と言っていただくようにはなったのですが(会場笑)。その数カ月間というのは本当に、もう外へ出るのも大変な状況でございました。

それがいけないと言っているのではございません。我が国は賛成であれ反対であれきちんと意見を言うことにためらいを持たなくても良い社会です。ですからそのような社会をしっかり維持していくということは強く支持しておりますし、私自身も頑張らなければいけないと思っています。何か意見を言うことにためらいを持たなければならない社会は決して我々が望む姿ではないだろうと思っておるためです。私ども…、とりわけ本会場にいらっしゃるリーダーや責任者は、そのような多少の逆風があっても必要な判断をしていくべきだろうと今も思っているところでございます。

いまだ十分な電力供給が行えていない状況において、そして何より「日本の原子力発電所が現在のような体制で本当に大丈夫なのか」と議論されている状況において、これからは経済産業省や細野(豪志氏:衆議院議員 環境大臣 原子力行政担当大臣)大臣のもとで設置される組織を通じた厳密なチェックが行われていくのだろうと思います。そうしたことを踏まえて各自治体でも判断がなされることになるでしょう。私としては現時点で玄海原子力発電所の再稼働についてどうこうと思っている訳ではございません。ただ、とにかくどのようなことがあってもリーダーとしてきちんとした判断したいと思っておるところでございます。今日は誠にありがとうございます(会場拍手)。

堀:ありがとうございます。実は今回、古川さんにもパネリストとして登壇いただけないかどうかをお尋ねしていたんです。ただ「今はちょっとリハビリの最中なので勘弁してくれ」と仰っていてですね(会場笑)。そういったさまざまなお気持があったなかでのご発言でもあるのかなと思いました。

渡部:自由に意見を言える社会というのは難しいですね。私も大学で6カ月間ほど、もうすべての授業で妨害に遭ったことが2度ありました。家にカミソリを送られたり放火の予告が来たり、随分と色々なことがありました。しかしそこで止まってしまったら「俺は一体何のために口をきいているんだ」という話になります。まあ授業妨害に関してはそのうち向こうのほうで諦めてくれましたが。

ただ、今は人権擁護法案というものを内閣が通そうとしている。これは大変危険だと思っています。私の授業に押しかけ妨害してきた2団体もその動きに入っています。これは本当に恐ろしい法律です。だいたい彼らは人権擁護の救済機関を三条委員会の団体にしようとしているんですよ。そうすると司法すら手が出ない。公正取引委員会のようになって勝手に人権取締をやる訳ですね。人権擁護と称して気に食わない人間を吊るし上げるという話です。しかし言論というのは自分の気に食わないことも聞いて、そして言わせて貰う自由ですよね。相手の好きなことばかり喋っているのあれば言論の自由などはじめから問題になりません。嫌なことを言う自由なんです。

ここでもう一つ教訓を申しあげます。岸内閣時代は「安保改定などしたら日本はまた戦争に巻き込まれる」と騒がれていました。しかしアジアあるいは世界で最も戦争と関係のないところで生きてきたのは日本ではないですか? 要するに当時の日本を大きく揺るがしていたあの安保紛争というのは、あれはすべて嘘っぱちだったんです。

堀:私にさまざまな批判が来たとき、私は社内で「批判をしている人は堀義人を黙らせようと思っているから批判をするのだ」と言っていました。で、そこで屈してしまったら彼らの思うつぼではないかと。「だから言い続けるんだ」と話していましたね。そうした脅し等に屈してはいけない。とにかく言い続けると。そのような姿勢をとらないで黙ってしまうと、彼らは恐らく「ざまあみろ」と考えてしまう。そしてさらに「次はあいつだ」ということにもなります。そうして結局は皆が黙っていくという流れになってしまうと思うんですね。では最後にもう一つだけ、ご質問を受けたいと思います。

会場(内閣総理大臣官邸 内閣副広報官 四方敬之氏):本日はありがとうございました。現在、外務省から官邸に出向しております四方と申します。戦後日本の外交あるいは政治史という観点でお伺いしたい点がございます。今日は先生のほうから「戦後の首相では特に岸首相」というお話がありました。そこで質問がございます。

日本の安全保障または外交政策のなかで日米安保の骨格と言えるようなものをつくった吉田茂という首相についてはどのように評価されておりますでしょうか。岸首相と吉田首相を比べたときに岸首相を選ばれた理由をお聞きしたいと思っておりました。それともう1点。冷戦後に世界の構造が変わりグローバル化が進んでいるなかで、保守というものに本質的変化が迫られている部分というものはあるのでしょうか。そこについてもご意見をお伺い出来ればと思っております。

渡部:吉田首相はせっかくサンフランシスコ講和条約を締結して帰国したのに、その時点で「占領憲法は主権の発動ではなかったから無効宣言をします」と言わなかった。それを引きずっているから岸さんが憲法改正と言わなければならなかったんです。ですから二人を比べてみると、もうスケールの大きさがまったく違う。問題の洞察するその深さが違うと私は思っています。考えてみますと戦前から吉田さんと岸さんでは、国を背負っていたかどうかという重みの点ですでに違っていましたね。それも一つの大きな違いだったと私は考えています。

それから外交について言えば、最もひどかったのは1985年11月7日になされた条約局長による答弁です。そのときに土井たか子議員が「侵略戦争についてどうしますか?」と質問したんです。講和条約が締結されてから30年以上も経って時点でどうして戦前の、講和条約以前のことを持ち出したんですか? 講和条約で終わっているのに。

しかし当時の条約局長はそれに答えたんです。なんと答えたか。東京裁判告発条項28条云々について有罪とされていますからそのようにご了解願いたいと答えたんです。要するに日本はまだ東京裁判を背負っていますと。それならば中国から何を言われてもやらなければいけない。

そう答えてしまった。それまで日本の首相が中国からああだこうだと言われても、靖国神社の参拝が問題になったことはありません。しかしそのとき以来、中曽根元首相さんもぺこぺこするようになりました。その後の総理も皆同じです。何故なら外務省の見解によって「日本は中国に対し有罪のままである」というのが政府見解となってしまったからです。本当にひどい回答だったと思います。ですから私は今でもこう言っています。「それを見逃したのは中曽根さんの責任ですから、中曽根さんはパフォーマンとして大勲位を返還してください」と。あれ以来、日本は中国と韓国になんというか、ぺこぺこするようになりました。それ以前は誰もそんな風にしていなかったんです。

堀:ありがとうございました。ではそろそろ時間も迫って参りましたので、これにて2012年G1サミットの全セッションを終える形にしたいと思います。渡部先生、本日はわざわざ青森までお越しいただきまして大変ありがとうございました。重ねて大変感謝申しあげます。実は渡部先生は早藤(昌浩氏:世界貿易機関 貿易政策検討部参事官)さんの義理のお父様にあたるということなんですね。そんなこともあって今回は早藤さんにも渡部先生をご招待する過程で色々とご協力をいただいておりました。早藤さんにも改めて感謝申しあげます。それでは皆様、最後に改めて盛大な拍手をお願い致します。本日は誠にありがとうございました(会場拍手)。

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