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田坂広志氏×野中郁次郎氏×松岡正剛氏「次代に引き継ぎ、変革し、新たに創るものIV」

投稿日:2011/09/27更新日:2023/06/27

何が社会にとって良い事なのか、変化の中でちょうどいい解をみつける「実践知」のリーダーが必要(野中)

野中:ピーター・ドラッカーは「20世紀は知識社会だ」と言いました。富の製造過程に知を入れる必要がある。会社は組織を知識創造体としてマネージしなければならないということです。ただ、知識はわけが分からない。目に見えません。私はこれまで、経営資源としての知識がどのように蓄積、配分、使用されるか、つまりマネジメントサイドから知をつくるというのはどういうことか、研究し、実践してきました。

知識は天然資源のように発見される物ではなく、他者との関係性、またその人の想いなどから生まれてくるダイナミックなものです。同じ組織内の人間や、顧客、サプライヤー、競合、大学、政府といった様々なプレーヤーとのやり取りの中で、互いに異なる主観を共有し、客観化し、綜合していく社会的プロセスの中で創られます。

「綜合」とは、単に複数の事柄を一つにまとめていくことではありません。より高い次元で対立をアウフーベン(止揚)し、スパイラルアップすることです。

知識には暗黙知と形式知があります。身体に埋め込まれた知を暗黙知、理性的な知を形式知という。両者は相互補完の関係にあります。お互いは相補的です。ところが、ある時から形式知ばかりが横行するようになり、知の停滞が始まりました。

西洋社会は、プラトン以後、身体の否定、理性の知こそが真実に到達できると長らく考えてきました。身体に埋め込まれた知も必要だよというのが、東洋から発信する意味であり、私自身がグローバルに知られるようになったきっかけでもあります。

知の創造プロセスとは、この暗黙知と形式知をスパイラルアップしていくことです。

では持続的に知の創造、イノベーションを起こす組織とは何か。イノベーションと言えば、シュンペーターを思い出します。彼は、イノベーションを起業家個人とイメージしていた。私は少し違います。集合知を組織に染み込ませることがイノベーションを起こす上では重要と考えています。組織的にいかに行動するか具体化したのが「SECIモデル」です。

SECIモデルについて簡単にご説明します。

生きた市場を身体化している顧客の暗黙知を共有し(Socialization=共同化)、組織の境界を超えた本質的対話で市場知をコンセプトに昇華し(Externalization=表出化)、IT を駆使して時空間を超えて体系化し(Combination=連結化)、技術、商品、ソフト、サービスに結晶化し、自己のノウハウ化する(Internalization=内面化)、と同時に、市場の顧客の新たな知を触発し、再び共同化につなげる。この、それぞれの英語のフェーズの頭文字をとったSECI(セキ)の高速回転化が知の綜合力なのです。

しかし、持続的にSECIモデルを回すのは極めて難しい。ここで、イノベーションのプロセスを支援するリーダーシップが必要となってきます。

判断と実践を行う知を、実践知のリーダーシップと呼びます。実践知というのは、何が社会にとって良い事なのか、現実が時々刻々と変化する中で、走りながら、ちょうどいい解をみつける「適時適切判断」能力のことです。

実践知の源流に遡ると、アリストテレスがフロネシスという概念を提示しています。フロネシスは、賢慮(prudence)、実践的知恵(practical wisdom)、などと翻訳されていますが、我々は一語で「実践知」と言います。現実における文脈、その背後にある関係性はいつも動いています。その動きの中で判断する能力は分析力と言うよりは、総合力なのです。

実践知のリーダーが有する6つの能力とは(野中)

実践知のリーダーとはいかなる能力を持っているか。6つあげます。「善い」目的を作る能力。場をタイムリーに作る能力。ありのままの現実を直感する能力。直感の本質を概念に変換する能力。概念を実現する政治力。実践知を組織化する能力。要は、現場の背後にある関係性を直観する「現場感覚」、本質を概念化・言語化する能力を備えた「大局観」、それらを場づくりのただ中で実践する政治力を含めた「総合的判断力」をもつのが、フロネティック・リーダーシップの本質です。

ここでは時間の関係から、場作りと実践知の組織化の能力について紹介したいと思います。実践知をいかに組織に埋め込むかという点において、場作りということは、非常に重要です。場とは、共感された動的文脈、つまり生きた文脈が共有されている状態のことです。異なる主観を共有して客観化する。一つ例をご紹介します。

アメリカのソフトウェア開発の先端では、「アジャイル・スクラム」という手法を使っています。アジャイルというのは「俊敏」という意味ですが、スクラムは、スクラム・アプローチを指します。スクラム・アプローチとは、実はわれわれが1980年代に提示した日本の製造業の開発モデル「ラグビー方式による新製品開発アプローチ」をITに展開したもので、今日欧米のソフトウエア開発の主流になりつつあります。

注目すべきはその進め方です。毎朝15分間の、「スクラム」と呼ばれるミーティングを設けます。決まった時間、場所にプロジェクトメンバー全員が集まり、作業実績や予定、問題点を話し合って、一体感を醸成している。

また、ペアプログラミングといって、2人の開発者でペアを組み、一つのマシンを共有、共同で作業するスタイルをとります。ドライバーとナビゲーターの役割を交代しながら作業し、仕様とコードの整合性を確認する。ベテランと新人が組めば、ベテランの暗黙知が行動を通して新人に伝承される。まさに、日本の伝統的な「徒弟制度」の復活です。

ここではITを活用しつつ、人間同士のふれあいを重視している。身体性を共有しながら、相互主観性を高める場を共有しているわけです。私の論文を読み、スクラムの手法を考案した米国のジェフ・サザーランド博士とこの1月にお会いした時に、彼が、「日本の製造業で生まれた手法から学んだ。日本から、さらにより良い開発手法が発信されることを期待している」と話していました。

場のプラットフォーミングを、いかに組織に埋め込むか。一言でいえば、ITに支援された徒弟制度の復活が重要だと考えています。非常に質の高い暗黙知は、生き方や立ち居振る舞いの問題ですから親方との共体験から学ぶわけです。こうしてフロネシスが伝承されていく。立ち居振る舞いはマニュアルでは表現できません。

日本企業は元々こうした場を構築する能力に優れています。その力を生かし、知の綜合力を結集することが、日本企業の発展につながるはずです。

では実践知を持つリーダー育成の上で、場があればそれでよいのか、座学は必要ないのでしょうか。私は、リべラル・アーツが重要であると思っています。人間とは何か。何が真善美であるかという価値判断が、価値の創造には欠かせません。イノベーションを遂行する組織体というのは、トップはもちろん、ミドルのリーダーまで、「世のため、人のため、こういう価値を創っていこう」というきちんとした想い、哲学を提案していくものです。

組織体が、何が社会にとって善いことであるかという共通善(Common Good)を提供していくべきだという考えは単なるきれいごとではありません。世界的な潮流です。市場構造の分析に基づく競争戦略論大家マイケル・ポーター米ハーバード大教授でさえ、最新の論文で、「CSRは偽善である。企業の事業戦略と社会的価値の創造との融合が競争優位の源泉となる。Creating Shared Valueがゴールである」と指摘するようになりました。しかしCSVは、日本企業にとっては新しいことでも何でもない。松下電器産業の「産業報国」を始め、多くの企業が、本業を通じて社会に貢献することをその最大の目的としていましたよね。

実践知のリーダーシップを組織的に埋め込む集合実践知(Distributed Phronesis)を通じて、ビジョンと情熱を持って衆知を結集し、持続するイノベーションを起こしていく。持続するイノベーションの共同体論を、企業レベル、国家レベルで実践していけば、日本独自のイノベーションや経営の在り方を、世界に発信していけるものと、信じています。ありがとうございました。

日本に特有の“デュアルスタンダード”とは(松岡)

松岡:今日は私なりのエディティングで「次代に引き継がなければいけない日本文化とは何か」というテーマについてぜひお伝えしておきたいことを、7つのキーワードとともにお話ししていきたいと思っています。

最初に、これまで色々な方が「日本の良さ」を説明するという作業をしてきました。しかし、私としては、どれも日本をあまりうまく説明出来ていなかったのではないかと思っています。そろそろ、日本に関する基本的な事柄を、古代から現代、そして次代へ向けて総合的に見つめ直さなければいけない。そのためには、マネージからイメージを見るだけでなく、イメージとマネージの組み合わせのなかで、日本を考えていくアプローチが必要だろうと感じています。

今日の話は、“デュアルスタンダード”という言葉で括れます。ダブルスタンダードではなく、行ったり来たりのデュアルなスタンダードが日本のなかに、ある。

まず1点目は、「“和を以って貴しとなす”が日本であろう」という考え方について。これでは半分だと思っています。どういうことか。日本には「和(なご)み」というものがあれば「荒(すさ)び」もあった。歌舞伎ではご存知の通り、和事(わごと)の一方に必ず荒事(あらごと)をつくっています。この二つの併行性を外しては絶対にだめです。この「荒び」という言葉、実は古代では「遊」という字があてられています。「口遊(くちずさ)ぶ」とか「手遊(てすさ)ぶ」というのがこの字ですね。「遊(すさ)び」とは、あるものを荒れさせることです。自分が面白いと思うことをやると、もう一方の世界が荒れていきます。これらは「和」と「荒」で一対なんですね。こちら側で遊んでいることが何かを「荒ばせる」ことになる。そこでそれを再び一緒にしようというのがアマテラスとスサノオの物語でした。「荒(すさ)ぶ」というのがスサノオです。

2点目は、日本には「公家と武家」という二つの文化の歴史があるということです。私たちは世界に向けて日本を説明するとき、サムライの話をすることもあれば、一方で「もののあはれ」の話…、たとえば源氏物語の話をしたりしてします。公家と武家も一対です。公家は貴族ですよね。彼らは「あはれ」という言葉を使って日本人の最も大事な感情を言いあらわしていましたが、武家政権になってからは武家たちも「この感覚っていいじゃない」と思うようになりました。ただ、武家たちが使うときになって「あはれ」は破裂音を伴う「あっぱれ」となっていきました。

ですからこの二つの言葉は同じキーワードで同じコンセプトなのです。しかし「あはれ」というのはかわいそうという詠嘆です。「まだあどけない子があんなところで一生懸命働いている」とか、「戦場で死にそうになっていく」といったことで、それが貴族的に言えば「あはれ」でした。それこそが源氏の「もののあはれ」でもあったのですが、武家社会では同じことを「あっぱれ」と言って、むしろそれを積極的に評価して、まったく新しい価値観をつくっていったんですね。

もうひとつ例を示しますと、かつては高効率とか上手くいくことを「はかがいく」と表現していました。今でも「はかどる」と言います。反対に「はかどらない」は出来が悪いとか能力がないということになります。ところが、和泉式部はこれを「はかなし」と表現しました。「“はか”のない子がいても仕方がないじゃないか」という意味です。そして、「その“はかなし”は私たち本来にもある」と言っています。「常」があるなら「無常」があるのと同じ論法ですね。このデュアルスタンダードが日本なのですよ。

3点目は日本が長らく無文字社会であったということです。万葉仮名が生まれるまで、日本には文字はなかった。そこで漢字を導入して、その読み方を和風にし、さらに平仮名とした。これは日本の大事な宿命です。ここについてきちんと考えないとだめだと思っています。チャイニーズキャラクターやチャイニーズグローバルスタンダードといったものをどれだけ日本的にしたところで、そもそも漢字文化圏のなかに私たちはいたということです。

最近は英語を公用語にする企業も出てきました。しかし、英語的グローバルスタンダードを日本に入れたいのならば、かつて無文字日本社会と漢字社会をうまく組み合わせて万葉仮名や平仮名をつくったのと同じように、現代における言語社会文化を新たにつくっていかなければなりません。私も10年間にわたって、同時通訳の会社をやっていたことがありますが、同時通訳を育てるのはものすごく大変でした。しかしそういうことをやらざるを得ない。英語でただ日常会話のように喋っていればいいのかというと、そうではないのです。戦略的な日本語と戦略的な外国語を、ただちに置換可能な状態にしなければならないんですからね。それをやらざるを得ないということを含めて、もう少し言語と文字のデュアルスタンダード化についてお考えいただいたほうがいい。

そして4点目は、日本が仏教、儒教、神道の3つを神仏習合させてきたということです。本地垂迹(ほんじすいじゃく)してきた。神と仏は9世紀までにほとんど合体しています。ですから日本は神の国とも仏の国とも言えません。そのことを世界へどのように説明しますか? これだって説明しないとだめだと思います。しかも、そこへもってきてクリスマスを祝い、大晦日にはお寺で除夜の鐘を聞いて、初詣には神社に行くのですから、もうさらに複雑になってくる(会場笑)。こういったものをどのようにして世界にアカウンタブルに説明していくか、次代に引き継がなければいけないもののひとつです。

5番目のポイントは、「しつらえ」、「ふるまい」、「もてなし」の3つがほぼ同じであるという見方が必要だということです。これもまたデュアルです。それぞれ漢字にすると“設え”、“振る舞い”となって、「もてなし」は、源氏物語の「ばちを持って成す」という一説から“持て成す”になります。何かをスキルフルにハンドリングすることを「もてなす」と表現しています。「ふるまい」はどうかというと、大盤振る舞いというのはお金や料理などをたくさん出すことですが、「お前の振る舞いは良くない」といった使い方ならビヘイビアやパフォーマンスを意味しますよね。さらに「しつらえ」ですが、これはインテリアの意味で訳してしまうのは間違いです。「どうも今日はしつらえが良くなかった」と言うように、段取りやプログラムや手順のようなものまで「しつらえ」に入ります。この「もてなし」、「ふるまい」、「しつらえ」は非常に難しいキーワードです。

6点目に、私たちが現在は競争社会にいることを考えなければいけません。新自由主義やフリードマンの新古典派が出てきたからではありません。ジェノバとヴェネチアがイスラム世界から複式簿記を採り入れて、「これでいける」と思ったモデルをワールドモデルにしてからというもの、競争社会はずっと続いています。なぜか。

複式簿記には貸方と借方がある訳ですが、これは船を造って海外に出かけ、収積物をもって帰って分配するというしくみを簿記化したものでした。船にものすごくお金がかかるから資金を集めて有限責任のスポンサーを集める。そして船を出す。そうして海外から金銀財宝や香辛料をとって帰ってくる。こういう組み立てで貸方と借方が出来た。それ以来、ずっと競争社会です。

それはそれで構わない訳ですし日本だって競争はしますが、日本は最初に「合わせて」から競うという特徴があります。アワセとキソイと言います。「歌合せ」などがそれにあたりますが、まずは合わせてから勝ち負けを決めていくのです。だから完全に自由市場に進出すると限らない仕組みを、かつての日本人は持っていたということですね。そこをこれからどう考えるかというのが6つ目のポイントです。

グローバル化と共に、私たちは外からやってきたものをすべてそのまま使おうとしている(松岡)

最後ですが、西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」というとても難しいことを言っていました。これはさっぱり分からないような言葉ですが、とても暗示的な言葉です。西田はこれを「切ってはいけない」「一気に発音しろ」なんて言っていました。それを清沢満之(きよさわまんし)という、司馬遼太郎が生涯愛した仏教者は、「二項同体」と表現しました。これはAとB、あるいはCとDなど矛盾しているものを矛盾のまま、次のものに引き継いで変革しようじゃないかということです。どちらかを二者択一的にセレクトすることはやめようという思想です。先ほど野中先生も「東洋的あるいは日本的なものの発信力」と言われていましたが、そこには必ずこういうものが潜んでいると思います。これを何とかして生かしたい。私はこれについて、建築用語を使って“てりむくり(の曲線)”と呼んでいます。下側に反った曲線「てり」と、上側に反った曲線「むくり」がひとつになった、いわば千鳥破風のような日本独自の曲線です。お風呂屋さんによくある形ですね。しかしこれは世界でも他に例を見ません。何故かというと力学的に矛盾しているから。

これは、床の間が日本家屋の構造的矛盾から生まれたように「第三の審級」なのです。矛盾があるものをディベートしてひとつにするのでなく、そのまま継承して「第三の審級」を生み出していく。そういう方法が生んだ曲線なのです。そのとき日本というのは非常に面白いことになると思います。

以上のことをまとめますと、私は「苗代」というものをもう一度見直したほうがいいのではかと思っています。アジアは天水農業の社会文化および経済を持っています。天からの貰い水で稲や田畑を育て、私たちの五穀としていますよね。ですから五穀豊穣というのはアジア全体の考え方です。

ただ、アジアの天水農業は直播をしても平気ですが、日本には台風があり、鉄砲水があり、梅雨がある。気象が非常にフラジャイルです。おまけに日本列島は地震列島であり、今も火山や地震に悩んでいるスタビリティのない国土です。その環境をいかに超えようとしても無理な話ですよね。地質的条件ですから。

だとするとインスタビリティということをバックボーンにしながら日本の天水農業あるいは収穫を考えなければいけない。柳田國男もそこに驚いたのですが、アジアから来た種を、日本の形に合う苗の状態にしてから国土に植えつけていきましょうというふうに工夫をしたのです。同様に、中国から来た仏教も儒教も漢字も、そのままではなく、苗代にしていったのです。国土も風土も違うし、場合によっては日本人の感情も、あるいは野中さんが仰っているような暗黙知が違うかもしれない。だから苗代という場面をつくっていった。こういったことが歴史のなかで繰り返されてきた訳です。

しかしどうも、どこかの時点で…、恐らくは敗戦からだと思いますが、私たちは外からやってきたものをすべてそのまま使おうとしはじめたようです。グローバリゼーションに合わせすぎてしまったのです。

今日は7つほどのキーワードと、ほとんどが一対のデュアルな交換可能なものであるということ、そしてもうひとつは、いろいろなものをもういちど日本的な苗代というところにしてから、次世代に継承していったほうがいいのではないかという話をしてみました。どうもありがとうございました。

現在の資本主義を、いかなる資本主義に変革し、次代に引き継ぐべきか(田坂)

田坂:先ほどから伺っていて、お二人とも、深い見識のある話だと思いました。そして、お二人の話には、幸いなことに、私が今から申しあげる話と重なるキーワードがいくつか出てきておりました。ですから、少しお二人の話も受け継ぎながら話をさせていただきたいと思っています。

まず、今回のG1サミットでは、「次代に引継ぎ、変革し、新たに創るもの」という素晴らしいテーマが与えられています。私は、次代を引き継ぐリーダーには、今こそ「大きな戦略」が必要だと考えています。昨日のパネルでも「日本には大きな戦略が求められているのではないか」という話がされていましたが、賛成です。その意味で、今日は一つの「大きな戦略」を示したいと思います。もとより、他にも大きな戦略が幾つも必要だと考えていますが、この時代においては、まず何よりも、「資本主義の未来はどうなるのか」、あるいは、「資本主義をどうしていくべきなのか」を論ずるべきだと思っています。ですから、今年のG1サミットのテーマに即して言えば、「現在の資本主義を、いかなる資本主義に変革し、次代に引き継ぐべきか」というテーマ。今日は、このテーマで話を進めていきたいと思います。

まず最初に、この「変革」という言葉について考えてみましょう。現代の社会には、一見すると区別し難い二つの事柄があります。今、私は「変革」という言葉を使いましたが、それは「革新」という言葉でも結構です。つまり「イノベーション」ということですね。しかし、現代の社会においいて使われる、もう一つの言葉があります。それは、「進化」という言葉です。つまり、「エボリューション」ですね。たとえば、何かの産業で大きな「変革」が起きたとき、我々はよく、「進化」が起きた、と表現します。この「イノベーション」と「エボリューション」の違いを、我々はどう受け止めていくべきなのか。ただ単に、ミクロで見れば「イノベーション」、マクロで見れば「エボリューション」、というのも少し寂しいですね。そこで、もう少し深く考えてみると、ある大切なことに気づきます。我々が一つの意思を持って何かのシステムを変革することは非常に重要ですが、同時に、世の中では「創発的な進化」というものも起こっているということです。誰かが意図的にそうしている訳ではないのですが、何かが自然に起こってくる。たとえば、ネット革命がまさにそうですね。ネット上のコミュニティは、まさに創発的な進化を遂げます。誰かがデザインして、意図的にコントロールすることはできません。この変革と進化、イノベーションとエボリューション、この二つの言葉の違いをしっかり理解したうえで、「これから資本主義の未来はどうなるのか」という問いについて、さらに深く考えてみたいと思います。

ここで、お二人が触れられていた哲学、すなわち「弁証法」という哲学が、「未来を予見する哲学」という意味で、私も非常に重要になると考えています。この弁証法については、ヘーゲルやマルクスがよく言及されますが、実は、日本には遥か昔から「禅の思想」があり、「矛盾の哲学」があり、「西田幾多郎の哲学」がありました。ですから、この弁証法は、必ずしも欧米の思想の輸入というものではありませんが、この弁証法の哲学の中でも、最も重要なものが、「事物の螺旋的発展の法則」です。すなわち、世の中の変化や発展、進歩や進化というものが、どのような「理」(ことわり)で起こるのかといえば、実は、右肩上がりの一直線で起こる訳ではありません。むしろ、世界は螺旋階段を登るようにして発展していく。螺旋階段を登っていく人を横から見ていると、上に登っていきます。すなわち、進歩、発展していきます。しかし、この人を上から見ていると、一周回って元に戻ってきます。すなわち、古く懐かしいものが復活してくるのです。ただし、これは螺旋階段ですから、一段高いレベルに登っている。新たな価値が加わっている。すなわち、物事の変化や発展、進歩や進化においては、「古く懐かしいものが、新たな価値を伴って復活する」ということなのですね。まず、そのことを申し上げておきます。

実際、いま、世の中を見渡すと、この「螺旋的発展」の事例が、数多く見受けられます。たとえば、ネットの世界を見ると、この「螺旋的発展」の事例をいくつも見ることが出来ます。「ネット・オークション」や「逆オークション」は、まさにその典型です。これらは、最先端のビジネスモデルと思われていますが、よく考えてみると、昔からある古く懐かしい「競り」と「指し値」のビジネスモデルです。この競りと指し値のビジネスモデルは、資本主義の発展とともに、ひとたび、「一物一価の法則」によって消えていきました。しかし、それらが、ネット革命によって現代の市場に復活した。ただし、昔に比べるならば、一段レベルが上がっている。新たな価値が付け加わっている。なぜなら、昔の競りと指し値は、数百人程度しか相手に出来なかったのですが、ネット・オークションと逆オークションは、数百万人相手でも行えるようになったからです。「Eメール」も同様に、螺旋的発展の事例ですね。Eメールの前は「電話」が主流でしたが、さらにその前は「手紙」でした。すなわち、Eメールによって、古く懐かしい手紙の文化が復活したのです。ただし、Eメールは、昔の手紙と違って、一瞬にして地球の裏側に何千通でも送ることが出来るのです。新たな価値が付け加わっているわけです。そして、「Eラーニング」も同様の事例ですね。これは、かつての「家庭教師」や「寺子屋」といった「個別学習」の教育モデルが復活してきたわけです。個人の能力と興味と都合に合わせて学べるというモデルです。そもそも、全員が一律に学ぶ「集団教育」というものの歴史は非常に短いのですね。そのことにも気がついておくべきですが。

ただ、ここで、鋭い方なら一つの疑問を心に浮かべていると思います。「ヘーゲルや西田の時代から弁証法というのなら、なぜ、いまさら「螺旋的発展」などが話題になるのか」という疑問です。実は、そこには見事な歴史的理由があります。たしかに、昔から世の中で、「螺旋的発展」は起こっていたのです。しかし、その変化は極めてゆっくりだったため、昔は、それは歴史学者の研究テーマでしかなかった。ところが、現在は、ご存知のように「ドッグ・イヤー」や「マウス・イヤー」と言われる時代です。過去の7年や18年で起こっていた変化が、現代では1年で起こるようになった。物事の変化と発展が、極めて速いスピードで起こるようになったのです。では、この変化が加速している時代において、我々は何を目撃するか。端的に言えば、我々は、「螺旋階段」を駆け登っていくようになったのです。昔であれば、一生涯をかけて、せいぜい1、2段の階段を登るに過ぎなかった。従って、そのとき、横の手すりを見ても「直線」にしか見えないのです。しかし、いまは、一生涯の間に、階段を駆け登っていく。そのため、今は西に向かって階段を駆け登っているつもりが、気がついたら、東に向かって登っているということになるわけです。このあたりに、現代社会における変化というものの、面白さと難しさがあります。

「事物の螺旋的発展」の結果、歴史において古い「ボランタリー経済」が復活した(田坂)

では、この「螺旋的発展の法則」に基づくならば、これから資本主義に何が起こるのか。そのことを予見するために、もう一つ大切なことがあります。それは「眼鏡を外すこと」です。これは非常に重要なことです。眼鏡とは「貨幣経済」のことです。実は、我々は無意識にある「思い込み」に陥っていることに気がつかなければなりません。「経済とは、貨幣経済のことである」という思い込みです。特に、現代の経済学者の方は、その思い込みに陥っています。もとより、「経済=貨幣経済」という考えに基づいて、さまざまな素晴らしい理論が打ち立てられてきたのも事実なのですが、これからは、そうした理論が限界に達します。では、なぜ、「経済=貨幣経済」という考えが限界に突き当たるのか。そのことは、視野を経済学の領域に留めず、さらに文化人類学の領域にまで広げれば分かります。すなわち、文化人類学が教えるのは、人類の経済活動は、「貨幣経済」以前にも、色々な経済原理があったということ。貨幣が発明され貨幣経済の時代を迎える前は、価値ある物と物とを交換する「交換経済」が存在しており、さらにその前は、「贈与経済」と呼ばれるものがあったのです。この「贈与経済」は、人類の最初の経済原理であり、善意や好意から相手に価値あるものを贈るという経済活動。これは、現代においては、「ボランタリー経済」と呼ばれるものです。

ここで「ボランタリー経済」を定義しておくと、「精神の満足を目的として人々が行う経済活動」ですが、これに対して、「マネタリー経済」(貨幣経済)とは、「貨幣の獲得を目的として人々が行う経済活動」のことです。そして、歴史を通じて我々の社会を支えてきたのは、実は、この「ボランタリー経済」なのですね。たとえば、皆さんの家で行われる家事、育児、家庭内教育、老人介護、さらには、皆さんの地域で行われる地域清掃、治安維持など、これらはすべて「ボランタリー経済」として動いているものです。従って、もし、社会において、この「ボランタリー経済」が停止すると、明日、「マネタリー経済」も停止することになるのですね。そして、ここで大切なことは、この「ボランタリー経済」が現在、急速にその影響力を増していることです。その理由は、ネット革命やWeb2.0革命が、この「ボランタリー経済」を加速しているからです。なぜなら、たとえば、「リナックス」というコンピュータの基本ソフトは、全世界の数千名のエンジニアが自発的に集まり、無償で開発されているものです。また、「ウィキペディア」も、草の根の人々が無償で書き込み、その結果、世界最大の素晴らしい辞書が生まれてきたわけです。さらに、最近では、「Q&Aサイト」に行くと、何か質問をすれば、誰かが親切に教えてくれます。このとき、お金は取られないわけです。ただし、「お礼を言え」と言われますが(笑)。 このように、いま、弁証法の「事物の螺旋的発展の法則」の結果、人類の歴史において古く懐かしい「ボランタリー経済」が、新たな価値を伴って復活してきているのです。

さて、こう申し上げると、皆さんの心のなかで、「では、次に何が起こるのか」という疑問が生まれると思います。その答えを知るためには、弁証法におけるもう一つの法則を思い起こす必要があります。それは、「対立物の相互浸透の法則」です。これは、分かりやすく言えば、「対立し、競い合う者同士は、互いに似てくる。そして、次第に融合していく」という法則です。たとえば、イギリスの保守党と労働党の政策は、以前は全く対立していましたが、最近では、もう区別がつきません。また、ネット革命でも、かつては、「ネット対リアル」などという対立構図が語られていましたが、最近では、そういうことを言う人はいません。最近のビジネスモデルは、ネットとリアルの双方を使うのは当たり前になっているからです。さらに、金融界でも銀行と証券が、かつては「直接金融」対「間接金融」という対立構図の中にありましたが、最近では、どちらもユニバーサル・バンクという融合した形態に向かっています。

従って、この「対立物の相互浸透の法則」に基づけば、これから「マネタリー経済」と「ボランタリー経済」は融合していくでしょう。いや、これは、もはや「予見」の問題ではなく、「現実」の問題になっています。たとえば、Amazonという企業は、マネタリー経済においても、大変な高収益を上げている企業ですが、では、このAmazonにおいて最も人気のあるサービスは何か、と言えば、「草の根の書評」です。これは、多くの人々が無償で書き込んだ書評であり、「ボランタリー経済」によって生まれたものです。また、皆さんはGoogleを毎日使われていると思いますが、これは、お金を払って使っているわけではないですね。そもそも、この企業は、創業者二人が、「世界中の情報を、誰でも使えるように、オーガナイズしたい」という夢を抱いたところから始まっていますから、検索サービスは、無償で提供しているわけです。ただ、その周りに高収益の広告ビジネスモデルが生まれ、「マネタリー経済」としても大成功を収めているわけです。これは、リナックスも同様です。中心にあるのは「ボランタリー経済」から産まれた基本ソフトですが、その周りには、システムサービスなど数多くの収益ビジネスが生まれています。

こうしたマネタリー経済とボランタリー経済の相互浸透と融合は、他の領域でも起こっています。たとえば「CSR:企業の社会的責任」。これは、今まで「営利追求だ」と言っていた企業が「我々には社会的責任がある。社会貢献もしなければ」と言い出しているわけです。これは、マネタリー経済からボランタリー経済への染み出しが起こっている現象です。しかし、一方、逆も起こっている。「社会起業家」がそれです。これは、今まで「社会貢献」を掲げ、志を持って活動していたNPOが、寄付に頼っているだけでは、事業の持続可能性が難しい。そこで、自らの社会貢献事業の中から利益を上げ、その素晴らしい活動を自力で継続していこうという動きが生まれてきた。それが、「社会起業」ですが、これはボランタリー経済からマネタリー経済への染み出しが起こっているわけです。従って、この二つの動きは、いずれ融合していきます。それが、皆さんも、最近よく耳にする「ソーシャル・エンタープライズ」や「ソーシャル・ビジネス」と呼ばれるものです。近い将来、この形態こそが、世の中で一般的になってくると、私は思っています。

日本においては公共的な精神が、地域社会だけでなく、企業社会にもある(田坂)

このように、いま二つの経済の相互浸透が起こっており、それが資本主義の在り方を変え始めているのですが、ここで、我々が気づくべき不思議な事実があります。それは、何か。

日本型資本主義では、昔から「マネタリー経済」と「ボランタリー経済」が融合していた、ということです。その一つの象徴が、日本企業において、昔から語られてきた三つの言葉があります。第一は、「企業は、本業を通じて社会に貢献する」という言葉。第二は、「利益とは、社会に貢献したことの証である」という言葉。さらに素晴らしいのは、第三の言葉です。「企業が多くの利益を得たということは、その利益を使ってさらなる社会貢献をせよという世の声だ」。特に、この第三の言葉が素晴らしいのは、社会貢献と利益追求の二つを並べたとき、企業の究極の目的は社会貢献であると明確に宣言しているからです。もとより、利益追求も重要です。しかし、それは、あくまでも、さらなる社会貢献をするために必要だという意味においてです。私は、この日本型経営の三つの言葉をダボス会議などでも、しばしば語るのですが、これこそ日本が世界に誇るべき日本型資本主義の思想であり、日本型経営の思想なのです。

また、これに加えて日本型経営のさらに素晴らしいところは、現場で働く労働者の意識もまた高いことです。たとえば、我々日本人は、「働く」とは、「傍」(はた)を「楽」(らく)にすることだと教えられてきました。これに対して、英語の「Labor」という言葉には、「苦役」という意味が含まれています。日本語の「働く」には、それが無い。むしろ、「働き甲斐」、あるいは、「働く喜び」が含まれている言葉です。我々は、こういう国において資本主義を育ててきたのですね。さらに言えば、日本人の「報酬感」も素晴らしい。私は若い頃、先輩から、「仕事の報酬は、仕事だ」と教えられました。当時は、給料が安いのを我慢させるために説得をされているような気がしましたが(会場笑)、年を重ねるにつれて納得できる言葉ですね。こうして考えてみるならば、「世界の資本主義の進化」という未来を考えるとき、実は、日本型資本主義は、その未来を先取りしていることに気がつきます。

ここまで、ボランタリー経済の復活とマネタリー経済との融合について話してきました。では、これはいったい、何が起きているのか。「懐かしい価値観」の復活です。我々は、昔から、「世のため人のため」、「お陰さま」、「お互いさま」という言葉を企業の現場でも使ってきました。日本においては、こうした公共的な精神は、地域社会だけでなく、企業社会にもあるのです。最近、現政権が「新しい公共」を掲げていますが、これは実は、「懐かしい公共」でもあるのですね。「公共」という概念が、新しい価値を伴って復活しているのですね。そして、「公共の進化」は、「資本主義の進化」と表裏一体の動きとして見ておくべきだと思います。

こうしたことを理解したうえで、昨日の最終セッションで話題となった、「社会の文化、人々の意識が荒廃している」という事実に、我々は向き合う必要があります。現代の社会においては、残念ながら、多くの人々が、自分さえ良ければ良いと考えるようになってしまっています。この意識を、いかにすれば変えていけるのか。そのためには、もちろん家庭内教育も重要でしょう。しかし、この文化や意識というものは、必ずしも一般的な教育だけで変わるわけではありません。では、こうした文化や意識は、何によって変わるのか。そのために大切なことは、ネット革命を通じて、社会の文化や人々の意識の「創発的進化」を促していくことでしょう。たとえば、ウィキペディアで解説を書き、アマゾンで書評を書いたとき、「お金をよこせ」という人はいません。それは、これらの人々が、「誰かの役に立つ」ことを喜びとしてやっているからです。こういう文化や意識は、自然に広がっていく。誰かに、「この文化を広めろ」と言われてやっているわけではないのですね。だから私は、ネット革命そのものが、様々なトラブルや問題を抱えつつも、その本質において、素晴らしい世界を創ろうとしているのではないかと思うのです。そして、ネット革命がボランタリー経済を復活させることによって、古く懐かしいものが新たな価値を伴って復活してくる。その結果、日本の精神、思想、文化が、新たな形で世界に貢献していく時代がくる。私は、未来というものを、そう予感しています。

これから世界が経験する5つの価値観の変換とは(田坂)

そこで、最後に、これから世界の価値観がどのように変化していくかということについて、「5つの価値の転換」として手短に話をしたいと思います。結論から申し上げれば、これから世界は大きな価値の転換の時代を迎えていく。そのとき、その先にやってくる「新しい価値観」とは、不思議なことに、日本にとっては、「懐かしい価値観」だということです。

第一が、「無限」から「有限」への価値の転換。たとえば、世界全体が地球環境問題に直面するなかで、資源や空間について、それが無限にあるように考えることはできなくなっている。しかし、我々、日本人は、昔から狭い国土と乏しい資源を前提として、「有限」の文化を築いてきた。たとえば、「もったいない」の文化などは、まさにそれです。第二は、「不変」から「無常」への価値の転換です。世界全体が、「ドッグ・イヤー」「マウス・イヤー」という言葉に象徴されるように、極めて変化の速い時代に突入しています。こうした時代に、「不変」という価値よりも、「無常」という価値、すなわち、物事は常に変転していくこと、それも加速しながら変転していくことを前提とした価値が重要になってきます。第三が、「征服」から「自然」への価値の転換。実は、我々日本人は、一度たりとも「自然を征服しよう」と思ったことはないのですね。自然との「共生」ですらない。なぜなら、「共生」という言葉には、自然と人間の分離のニュアンスがあるからです。今、世界では、環境問題を論じるとき、欧米の人々は「共生」という言葉を強調します。しかし、「共生」という価値観は必ずしも最高の価値観ではありません。なぜなら、日本においては、「自然」(じねん)という言葉があるからです。これは、自然と人間を分離しない、本来一体と見る思想です。この「共生」と「自然」(じねん)の違いは、英語で言えば分かり易いでしょう。「共生」とは、英語で言えば‘living with nature’です。しかし、「自然」(じねん)は、英語で言えば、‘living as nature’ 。すなわち、我々人間もまた自然の一部であり、自然として生きていこうという思想です。これからの時代には、この「自然」(じねん)の思想をこそ、世界が学びに来るのではないかと思います。そして、第四が、「対立」から「包摂」への価値の転換。世界は、異なった価値観の対立ではなく、多様な価値を包摂する方向に向かっている。そして、日本という国の価値観は、宗教においても、すべてを受け入れていく「大乗仏教」であり、様々な神が共存する「八百万の神」なのですね。たしかに、日本人はクリスマスには教会に行き、大晦日にはお寺で除夜の鐘を聞き、年が明けると神社に参拝に行きます。これを、「宗教的に無節操」と批判される方がいるかもしれませんが、私はまったく逆だと思っています。日本人は、そういう小さな宗教の違いにこだわらない。その奥に、もっと深く大きなもの、大いなるものを見ているのです。従って、どのような宗教にも頭を垂れることが出来る。私はむしろ、日本というのは非常に宗教的情操が浸透している国だと思います。皆さんは食事を取るとき、当たり前のように「いただきます」と言っています。そして、誰かと会うと、「ご縁ですね」と言う。さらに、お礼を言うとき、「有り難い」と言う。これらは、すべて宗教的な深い言葉なのですね。最後の第五は、「効率」から「意味」への価値の転換です。「効率がすべて」と考える時代のなかで、日本という国は、「意味」というものを深く見つめてきた。「大きいことは良いことだ」、「早いことは良いことだ」、「楽なことは良いことだ」とは、全く思っていない。小さなものに対しても、「一隅(いちぐう)を照らす。これ国の宝なり」などの思想が、最澄の時代から語られてきました。そして、日本には、「急がば回れ」「大器晩成」という言葉もある。さらに、「艱難辛苦、汝を玉にす」という思想も語られる。このように、日本という国は、実に成熟した思想を持っているのですね。

このように、世界が向かっていく「新たな価値観」を見つめてみると、実はそれは、日本にとっては、「懐かしい価値観」に他ならないことに気がつきます。ある意味で、日本という国は、世界がこれから向かう価値観を、先取りしているとも言えるのです。しかし、それは、単なる「古い価値観への回帰」ではない。なぜなら、これから起きるのは「螺旋的発展」。必ず、「新たな価値」を伴って、「古く懐かしいもの」が復活してきます。では、その「新たな価値」とは、何か。そのことを、我々は、深く考えてみる必要があるでしょう。そのことを忘れるならば、それは、「弁証法的発展」ではなく、単なる「復古」になってしまうからです。

さて、ここで、最後の問いになります。

我々は、何を次代に引き継ぎ、何を変革し、何を新たに創るのか。

そのことを、改めて皆さんに問いかけたいと思います。どうか、考えてみてください。我々は、これからいかなる「螺旋階段」を登っていくのか。人類は、どこへ向かうのか。ときに、そうしたことを、深く考えていただきたい。私の話が、そうした思索に向けての糧となれば、幸いです。

有り難うございました。

次代のリーダーに望むこと、伝えたいメッセージ

堀:G1サミットも残り27分ということになりましたが、この場でまず登壇者の皆さまにお礼を申しあげたいと思っております。このG1サミットにお越しいただきましてありがとうございます。時間のこともありますので私からの質問はひとつにさせていただき、あとは会場の皆さまからご質問を募りたいと思います。ここに集まっているメンバーは、政治、ビジネス、学問、文化…、さまざまな分野で次代のリーダー、あるいは現在のリーダーとして活躍しています。三日間に渡るサミットで今回もさまざまな課題は挙がっていますから、そこで僕らは立ち上がって行動しなければならない責任を持っているし、それは1億2000万人の国民も同じだと思っています。そんな気持ちからG1サミットが組成され、僕らとしては仲間とともにやり通したいと思っているのですが、そこで次代のリーダーに対して望むこと、あるいは伝えたいメッセージがあればそれぞれご登壇順にお伺い出来ますでしょうか。

野中:今日は、フロネシス、実践的知恵、賢慮、といったことについてお話をしましたが…、フロネシスのモデルとなったのはウィンストン・チャーチルや若き日の毛沢東らですが、もともとアリストテレスがモデルとして挙げたのは、有能な政治家かつ軍人のペリクレスでした。私としては今日お話しした6つの能力のなかで、5番目の「実現する力」というものが非常に重要ではないかと思います。「意思決定」というものがマネジメントの本質であるとこれまで言われていましたが、その本質はむしろ「ジャッジメント」なんですね。意思決定はコンピューターのメタファから来ているものですが、ジャッジメントはコンテキストの洞察です。そして文脈というのは関係性…、つまり物事やデータが置かれている状況および環境との関係性であって、それをどれほど深く広く洞察出来るかがカギになると考えているからです。そのためにはリベラル・アーツが非常に重要だと、米国のビジネススクールもサブプライム以降は考えるようになりました。

もうひとつ。実践知はまさに実践しなければいけないわけです。私が言っていることは一見すると典型的なアイディアリズムに聞こえますが、実はプラグマティズムと言いますか、やはり善が分かるためには悪をしらなければいけない。そういう意味では政治力ということがイノベーターとしてすごく重要になるのではないかと思います。そのなかでもレトリックは大切で、本田宗一郎、井深大、松下幸之助などは皆、レトリックに優れたプロデューサーでした。関係性を読んだうえで大局観に則って法螺を吹く。すると、はじめは「やれ」と言われて「何を言っているんだ?」と思う人も、聞いているうちに「やれるのではないか」という気持ちになってくる。米国でもスティーブ・ジョブズはレトリックの達人ともいわれ、そのプレゼンは「現実歪曲空間」というそうです。法螺を聞いているうちに「出来るのではないか」と思わせてしまうパッションを表出する言語能力ないしレトリック能力というのが、やはりリーダーとして不可欠です。政治力のなかでも、自分の思いを社会に伝えて実現していくという実際のプロセスにおいて、実はレトリックが非常に重要になるということです。日本のリーダーにほとんど存在感がないのは、レトリックの欠如だと思っています。

松岡:野中さんがほとんど言われたので、私のほうからは一言。リーダーに望むことは「朝令暮改を恐れない」ということですね。それに尽きますね。朝令と暮改のあいだがいろいろあるので、そこにはプロセス・エンジニアリングが必要ですが、基本的には朝令暮改を恐れない。もうひとつは、バックミラーを前に置いて「過去や歴史を見ながら前に進む」ということです。それが私からリーダーに対する期待です。

田坂:二人のご意見に賛成です。そのことを申し上げたうえで、私がリーダーに期待するものを一言で語るならば、「言霊力」ですね。聞いているうちに「やれるのではないか」と感じさせる言葉とは、まさに「言霊」が宿った力に満ちた言葉ですね。そして、「悪を知る」というお話がありましたので、それについても、一言。私は、昔から経営の世界を歩んでいて、一つ心に残る言葉があります。この言葉は、そのまま受け入れたくはないのですが、どうも気になり、納得してしまう言葉があるのです。それは、「経営者として大成する人間は、悪いことが出来て、悪いことをしない人間である」という言葉です。これは含蓄のある言葉ですね。それは、ある意味、自分のなかに「多重人格」を持っているかという意味でもあると思うのです。「ここは勝負だ」というときは、勇ましい人格が出てくるけれども、「ここは退くべきだ」というときには、慎重な人格が出てくる。そのような形で、色々な自分が必要な場面に応じて出てくる。そういった多重人格を持つ、懐の深いリーダーであれば、恐らく朝令暮改ということも、巧みに現実に処しながら、行っていけるのではないかと思います。

そのことを申しあげたうえで、やはり、リーダーたるもの、「真の知性」を持つべきだと思っています。では、「真の知性」とは何か。「知性」という言葉には、似て非なる言葉があります。「知能」という言葉です。それは「知能検査」というものが存在することで分かるように、「答えのある問いに対して、いかに早く、その答えに辿り着けるか」という能力のことです。しかし、「知性」とは、それとは全く逆の能力です。それは、「答えのない問いを前にして、その問いを問い続ける力」のことです。「生涯かかっても、答えなど得られないと分かっていて、なお、その問いを問い続ける力」のことです。あえて言えば、それは「魂の力」とでも呼ぶべきものでしょう。今日は会場に、政治家の方も数多く出席されていますが、政治の直面する問題は、やはり、「この問題は、それほど簡単に答えなど出ない」と分かっていて、粘り強く考え続けることがありますね。それこそ「本当の知性」ではないかと思います。そうした意味で、皆さんに、亀井勝一郎の言葉を贈りたいと思います。彼が残した言葉は、「割り切りとは、魂の弱さである」との言葉です。たしかに、そうですね。経営の世界にいると割り切りたくなることもある。「仕方がない。コスト削減のためには人員削減しかない」と。我々は、この「割り切り」に、ともすれば流されてしまう。もちろん、人員削減という経営判断自身は、最後の手段としてあってもよいと思います。ただ、そのときに、「心が、魂の弱さに流れていないか」を問うべきでしょう。その意味で、「割り切り」という言葉と、似て非なる言葉があります。それは、「腹決め」です。目の前の問題から逃げようとせず、魂で問題と正対し、「やはり、ここは決めるしかない、自分の責任において、決めよう」と覚悟を定める。そこには、安易に割り切って何かの答えに逃げ込むような思いは、ありません。ですから、これからの時代のリーダーには、この「真の知性」を大切にしていただきたいと思います。

「民主主義」「資本主義」は今度どうなっていくべきか(会場)

堀:ありがとうございます。では会場のほうにもご質問を振りたいと思いますが、いくつかまとめてご質問を伺っていきましょう。

林芳正氏:大変心に染みるお言葉をいただいて感謝しております。質問というより感想めいたことになりますが、二重人格というお話の段で、大平正芳元総理のことを思い出しました。それは“楕円”と表現されていたものですが、「常に重心が二つあって、そのあいだを行ったり来たりする」という働き方の方だったそうです。これは谷垣禎一自民党総裁から聞いたのですが、大平さんは総理か官房長官の頃、ある人が相談に来るとすぐそれに対する指示を出したかと思うと、次はまったく別の問題で別の方にすぐ指示を出せるようなてきぱきとした方だったそうです。イメージからは伺い知れないところがあるのですが、今日はそこに対し非常に理論的な裏付けをいただいた思いが致しました。質問としては徒弟教育をグローバルにどのように展開するか、さらにはデュアリズムに関するポイントについてもお伺いしたいと思っております。デュアリズムについては、陰陽共に抱えているのが我々の強みだとすると、そういった点を欧米の人々と議論するにあたってどのように伝えていけば良いものなのか…、もしなんらかのご示唆があればお伺いしたいと思っておりました。

辰巳琢郎氏:先ほど日本的資本主義といったお話があり、それはどんどん変わっていくということでしたが、民主主義のほうは今後どのように変わっていくのでしょうか。あるいは日本型民主主義というものはあるのか否か。民主主義とは侵してはいけない絶対的で聖域のような最高の考えであるとほとんどの方が思われているようですが、歴史的にみるとそうではないことがあると思います。そのあたりに関してどのように考えていけば良いのかを最近少々悩んでおります。何かご意見があればぜひ頂戴したいと思っております。

会場:行き過ぎた資本主義世界に対して日本の価値観を発信すべきというのは私も感じたのですが、他方では資本主義に則った資本や人などリソースの適正配分がきちんとなされていないというのが現在の日本の問題になっている気がしています。世界に発信することとは別に、国内ではまずは資本主義に則った資本の適正配分をきちんとしなければいけないのではないかという気持ちがあるのですが、そのあたりに関するご見解をお伺いしたいと思っております。

堀:三つのご質問をいただきました。では「この質問はどなたに」ということは敢えてやらず、それぞれお答えになりたいところをお伺いしていきたいと思います。いかがでしょう。改めて登壇順で野中先生からお願い致します。

野中:徒弟制度についてお答えします。これは企業経営に関してですが、GEをはじめとした米国大企業のコンサルティングで大成功しているラム・チャランは「CEOは徒弟でしか育たない」と結論づけています。方法論としては通常の人間の数倍のいわゆる修羅場を計画的に与えるということと、メンターの数をかつての徒弟のようにひとりではなく複数置きながら、多面的にフィードバックサイクルを早め、促していくというものです。それが彼の結論でした。文脈を読みながらものすごくちまちました個別の現実における小さな変化を見て、そこに普遍を見出せるか。そういったミクロとマクロのループをさせるには、やはり非常にチャレンジングな仕事を日常のなかで比較的スピーディに与える以外にはないと思っています。しかもそれは計画的にやらなければならない。かつてのOJTというのはかなりいい加減でしたから。「計画された徒弟制度」とでもいいましょうか。

松岡:大平さんの楕円というのはバロックということですよね。二つの焦点が動いていく。日本の歴史でも世界の歴史でも円的あるいはピラミッド的に、中心的な機軸があったりしたあとには、必ず二焦点になります。その二焦点が米ソ対立のようになっていったのち、また、一極化が起きる。ですから世界も日本も“ネオバロック”ですとか“柔らかいバロック”といったものを考える必要はあるという気がします。

それから民主主義についてですが、自由主義も議会主義も三権分立も含め、すべて国民国家が出来てから生まれたものです。ネーションステートという基本の枠組みを余りにも強く思うとすべての基準を受け入れざるを得なくなり、そのまま食べ尽くすしかないのですが、実は私たちの国というのはエスニックステートでもあるし、宗教国家でもあるし、公益国家でもあります。公益国家の部分は資本主義として吸収されていますが、民族的なものも残っている。もっと言えば「記憶の国家」と「記録の国家」がどこかで入れ違って組み合わされている訳です。ですから、そういうなかで民主主義とか自由主義を問い直す必要がある。

最後のご質問にあった資本主義もまさにそこです。冒頭でジェノバとヴェネチアが複式簿記を採り入れたという話をしましたが、その後、アムステルダムからロンドンに「ザ・システム」が移ったとき、資本主義はヨーロッパがアングロサクソンモデルとして確立しました。しかし、それ以外にも資本主義はありました。また、イスラームのような利子を介在させない経済システムもある。ですからもう一度、欧米型にとらわれずに、ユーラシア型の資本主義から新たなモデルを考え直すというのは、私は面白いなと最近思っています。

田坂:「二重人格」では少ない時代ですが(笑)、本当に深い意味での「多重人格」が必要な時代ではないかと思っています。経営者の方は、本当に修行をされていくと、二重人格どころではなく、いくつもの顔=人格を持っている。これは政治家の方々も同じだと思います。今はネットの時代であり、ネットの世界においては、様々な自分、多様な自分を表現出来る場が、昔に比べて増えていますね。その意味で、私は、「多様な自分を、どうマネジメント出来るか」という時代に入っているのだと思います。

「民主主義」については、一言だけ申しあげておきます。それは、実は、「制度の問題」ではないということです。その国に生きる人々が、どのような「意識の状態」でいるかということなのだと、私は思っています。今日は、政治家の方々も数多くいらっしゃいますので、敢えてお話ししますが、私は政治家の究極の役割とは、在任期間中に、「国民の意識がどれほど成熟したか」、あるいは在任期間中に、「国民と共に、どれほど成長できたか」だと思います。そのことを抜きにしたまま、どのような民主主義の制度を導入しても、いずれ「衆愚政治」に陥ってしまいます。ですから、「我々は、国民と共に、人間として成熟の道を歩んでいるのだ」という覚悟を、ぜひ政治家の方々には定めていただきたいと思っています。

そのうえで、「適正な資源配分」というご指摘は、全くその通りですね。私が、弁証法の螺旋的発展において必ず「新たな価値」が付け加わる、と申しあげたのは、単に昔の状態に戻る「復古」を申し上げているわけではないという意味でもあります。たしかに、日本の経営においては、非合理的で因習的なしがらみによって何も動かないという部分があります。こうした部分は、やはり、大きく変えていかなければならないでしょう。その意味では、ある状況において、経営の合理化を最優先で進めていくことが必要になることはあります。ただ、この「合理的」という言葉を、どう考えるか。そのことを、一度、深く考えてみる必要があります。そのことを考えるためには、たとえば、「戦略」という言葉を見つめてみればよいでしょう。この字は味わいのある字ですね。なぜなら、「戦略」と書いて、「戦いを省く」と読むからです。もとより、これは私の勝手な解釈ですが、この「戦略」という言葉は、その意味で、素晴らしい言葉と思っています。では、なぜ、リーダーは無用の戦いを省かなければならないのか。ここで、「経営資源を有効活用するため」という答えは、あまり深みのない考えですね。私は、経営の世界において、「戦略」を司っているとき、いつも心に浮かぶことがあります。それは、「どのような戦略にも、かけがえのない人生を捧げる人々がいる」ということです。だからこそ、その人たちの人生の時間を無駄にしたくない。決して無駄にしたくない。その思いこそが、「合理的マネジメント」と呼ばれるものの根本にあるべき精神なのだろうと、私は考えています。これは日本人なら必ず理解していただける思想と思いますし、世界にも広がっていくべき価値観だと思います。

そして、最後に一つ、申し上げておきます。

私も、「修羅場」は、ずいぶん見せていただきましたが、では、「修羅場」で学ぶものは、何なのか。たしかに、そこで忍耐力や決断力も学ぶことができますが、「修羅場」の体験において最も大切なことは、「自分の心の奥にあるエゴの動きが見える」ということです。「重荷から逃げたい」「人に責任を押しつけたい」。そうした自分の心の中の、「弱き部分」「悪しき部分」を正対して見つめる経験というものは、真のリーダーにとって不可欠のものと思います。なぜなら、本当の「強さ」とは、自分の「弱さ」が分かっていることだからです。そして、自分のエゴの動きが見えていることによってのみ、我々は、エゴから自由になることができるからです。

野中:資本主義と社会主義についてお話をさせてください。恐らくこの二つはだんだん混在していくと思います。我々は武士道というものを改めて読んでみたりするのですが、武士道では形而上学を一切教えなかったですよね。そのことを考えると、これからも我々にはなかなか、マルキシズムや資本主義を含む壮大な理論体系が構築出来るとは思えません。恐らく我々が出来ることはプラグマティズムの部分。米国でもそういうところがありますよね。ただ、それだけではさみしいので、そこにたとえば武士道といいますか…、「世のため人のため」という‘Common Good’を織り込んでいく。これは我々がずっと実践してきたという伝統もある訳です。そういう意味で、私は「日本はプラグマティズムだけれども“アイディアリスティック・プラグマティズム”だ」という法螺を海外で吹いてきたことはあります。やはりそれは出来るところからモデルをつくり、個別を普遍にしていくという、そういう実践論が必要ではないかと思いますね。ひとつのモデル地域、モデル企業、そしてそれらを総合したモデル国家をつくる。そこから大きな物語として普遍化していくということが実践知リーダーシップであるという思いが背景にありますので。

堀:ありがとうございます。このG1サミットは時間厳守ということで進めておりまして、モデレーターの私自身が時間を越えてしまってはリーダー失格ですから、これで終わりたいと思います。皆さまとしてはお聞きになりたいこと、あるいはお話になりたいことがまだたくさんあると思いますが、来年も再来年もG1サミットはやっていきます。ですから僕らのメンターとして今後とも、知恵の面、知識の面、それから精神の面でご指導いただけたらと願っております。会場の皆さまも誠にありがとうございました。それでは最後に盛大な拍手をお願い致します(会場拍手)。

執筆:山本 兼司

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