久保利英明氏×郷原信郎氏×柴山昌彦氏「最高裁と特捜検察という“聖域”を斬る」 

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「一人一票の平等をめぐる戦いに全霊を傾けている」(久保利)

三宅伸吾氏(以下、敬称略):本日は、「最高裁と特捜検察という“聖域”を斬る」という主題で進めていきます。まず久保利氏に最高裁、郷原さんに検察に係る問題提起をいただき、その後、柴山さんから双方に関してご意見を伺ったうえで、会場から質問をいただく流れで進めていきます。ではまず、久保利さんよりお願いします。

久保利英明氏(以下、敬称略):はい。私のほうでは、「一人一票実現国民会議」というものを推進し、最近も新聞紙上に全面広告を展開してきたばかりです。衆議院選、参議院選と遡り、既に20回ほど意見広告を出しています。今や意見広告としてはこの団体が一番多額のお金をメディアに払っているのではないかと言われるぐらい、一生懸命やっているのです。

なぜこんなことをやっているのかといえば、議員の先生がいらっしゃるところで恐縮ですが、この国が本当の意味での民主主義国家ではないからです。民主主義というのはすなわち、いろいろ議論をしたうえで最後に採決をする。その採決は多数決でなければならない。そういうものです。そして、その採決のときには1人1票、等価値の投票権を行使するのでなければ、それは民主主義ではないということを、小学校の学級委員の選挙のときから我々は教わってまいりました。

たしかに国会議員の先生方が議会において1人1票を持ち、それが等価値であることは間違いありません。それは衆議院であれ参議院であれ、内閣不信任案、あるいは1つ1つの立法、これはすべて議員の先生方の1人1票、等価値によって決まっています。しかしよく考えてみると、その一人ひとりの国会議員の後ろにいる国民の数というのは、まるで違うではないかということです。

参議院選挙の選挙区でいえば、鳥取県では24万人の有権者から1人の参議院議員が選出される。ところが神奈川県では120万人の有権者から1人の国会議員が選出される。衆議院の小選挙区にしても、1人の国会議員の後ろにいる有権者の数は、本来ならイコールでなければならないのではないかという素朴な疑問があります。

この一番素朴な疑問について最初に気付いたのが、越山康さんという人です。もう半世紀ぐらい経ちますけれども1962年、当時の越山さんは最高裁判所の司法修習生で、のちに弁護士になります。司法修習生の身分でありながら「1票の格差」をめぐって選挙無効の訴訟を起こして、最高裁まで持っていきました。結果的には、参院6倍衆院3倍という不合理な線引きにあって、一人一票等価値などまったく相手にされませんでした。その後も弁護士活動を通じて何度も何度も提訴しましたが、最高裁判所が参議院の選挙で違憲判決を出したのは、7倍近い票の格差があった1992年の選挙だけ。ほかはすべて全敗ということになって、いまだにその歴史は続いているわけです。私どももこれは酷い話だなとは思いました。とはいえ憲法には関心ありましたけれども、それがどれほど重要な問題なのかということについては、越山先生が頑張っているからしっかりやってもらおうぐらいの認識でいました。ところが、年を重ねるに従い、日本の政治がこれだけ混迷しているのは、ひょっとしたらそのせいではないのかと考えるようになりました。そこで私は『日経ビジネス』のインターネット版を通じて、小沢一郎さんに文句を言いました。「政権交代」となんだか偉そうに言っているけれど、本当に政権交代なのか、1人1票が確立しないなかで、どちらが多数派と言えるのか、という喧嘩を売ったのです。もちろん相手にはされず通しですれど、そのことからまず衆議院について選挙運動の訴訟を全国でやろうということになりました。

越山先生の活動がうまくいかなかった一因は、東京高等裁判所という最も保守的なところでのみ訴訟を起こしたことにあると考えています。選挙運動に関する訴訟は地裁をパスして、第2審の高裁から入ります。そうすると最も保守的な東京高裁というところに行ってしまったために、どうしても勝てない。そして最高裁判所も高裁の判決を支持します。これをなんとか変えたいところです。そこで考えてみると、全国には実は高裁が8つあります。そして支部が6つあります。14高裁・支部があるわけで、そこでそれぞれ3人の裁判官が合議をします。ということは14高裁・支部で提訴すれば、計42名の高裁裁判官が合議をすることになります。その高裁の判事たちが違憲判決を出す。あるいは、まだ違憲ではないけれどもそれは執行猶予にすぎず、早く訂正しないと無効にするという判決。これが「違憲状態」と言われますが、その2つのいずれかの判決が全高裁で下されれば、最高裁もよもやひっくり返すことはできないだろうと思いました。

そこで衆議院の1票の格差に関して、各地でまずは9つの裁判を起こしました。結果的には7勝2敗で、現在は最高裁判所の大法廷にかかっていて、2月23日に大法廷で弁論が開かれるという状況になっています。おそらく4月か5月頃には判決が下りるでしょう(※この講演後、3月23日に「違憲状態」判決が下った)。一方の参議院のほうは、全部で15の提訴をしました。たまたま東京都の原告と神奈川県の原告で重複したので、これで15になりました。現在までに12の判決が下りていて、すべて違憲、もしくは違憲状態ということで、あとの3つも2月中に判決を下りることになりそうです(※同・2月24日までに全て判決がなされ、全てが実質勝訴となった)。

我々が活動してきたなかで、きっと多くの裁判官は「自分のところにも提訴してくれないか」を待っていたんじゃないかという気がしてなりません。東京高裁ばかりにいくのではなく、僕らにも考えがあるということを示したかったのだと思いますが、大阪高裁、福岡高裁、あるいはそれ以外の支部でも、もの凄く良い判決が下りています。1人1票、等価値でなければ民主主義ではないということを、きちっと言ってくれた判決が次々と出てまいりました。そういうことで1票の不平等是正の訴訟が、ようやく花開く可能性があるのではないかと思っておりますが、この入口の部分がまるでデタラメなことには、まだ変わりありません。

たとえば(と地図を提示しながら)、参議院では、鳥取県では1人1票の価値がありますが、鳥取のすぐ隣の兵庫県は0.21票です。兵庫というと瀬戸内海側の神戸を思い浮かべがちですが、日本海の沿岸部まで兵庫県です。これが5分の1の価値しかない。北海道は過疎地の典型ではないかと思いますが、これも0.21票です。そして神奈川県が0.20票。東京都が0.23票。大阪府が0.21票です。決して過疎地だけにたくさんの票がいっているわけではありません。鳥取から山を隔てて反対側の岡山県は0.3票です。いかにバラバラでいかにデタラメかということを強く主張したい。こう考えていろんな運動を展開してきました。

そのなかで我々としては、単に弁護士が訴訟を起こすだけではなく、国民運動をやっていこうと考えてTwitter(@hitori_ippyo)のようなソーシャルメディアを活用した運動も始め、つい先週はある発言が総合ランキングで2位になりました。Twitterの2位がどれほど凄いのかわかりませんが、少なくとも大変大勢の方々が投稿してくださっています。

それから、全国の地域で、例えば東京では山手線で毎朝、それこそ議員の先生方と同じように「朝立ち」をやりました。学生諸君の通学、あるいは若いサラリーマンが通勤を狙って、「1票の格差」を訴えるカードを配るといった活動をしています。

おそらくこれから大きな変化が出てくるでしょう。特に大きなポイントは、最高裁判事に対する国民審査による締め付けです。判事にはこう言っています。「あなた方は決して国民から孤立しているのではない。入口がこんなデタラメな投票権だったら、その訂正は最高裁判所の違憲立法審査権に懸かっている。違憲立法審査権でビシッと違憲だと言ってください。それが言えなければ、国民審査で投票に来た人の過半数があなた方に『×』をつけることになります。すると憲法に書いてある通り、あなたは罷免されますよ」。こう訴えています。しかしこれだけだとなんだか恫喝しているようで、本意ではありませんし、おそらく最高裁判事も気分が優れないだろうと思うので、こうも言っています。「裁判官は内閣に任命されたただの役人だからといって、国民との接点はないということは言わないでください。国民との接点は、クビにされることにあります。内閣総理大臣は国民によってクビにされることはありませんが、最高裁判事は国民によってクビにされるだけの強い絆があります。国民とのむすびつきは政治家より強いのです。だから自信をもって判決をしてください」。そういうお願いを2月23日には申し上げるつもりです。

今日はその前哨戦として議員の先生方、そして参加の皆さん方から、諸々ご批判をいただければ有難いと思っているところです。また、ぜひ新聞広告も含めて巨額の基金を入れていただき、Twitterも盛んに支援していただけると心強いと考えております。

「社会的な組織であれば必ず課される要求から免れてきたのが検察」(郷原)

三宅:それでは特捜検察について、郷原さんのほうからお願いします。

郷原信郎氏(以下、敬称略):今の久保利さんのお話は司法と立法にかかわる問題だと思いますが、私は司法と行政との関係の典型例として検察の問題を考えてみます。

私は法務省に設置された「検察の在り方検討会議」の委員を務めております。私は2年程前から特捜検察の一連の政治資金問題に関して、徹底的に検察批判をしてまいりました。そして『検察が危ない』という本を出しました。こういう私が会議に入るというのは、検察にとっては(2009年4月に郵便不正事件の証拠品フロッピーディスク内データを大阪地検特捜部主任堅持が改ざんした問題を示唆し)フロッピーディスクの改ざん以上に、あってはならないことだと思います(会場笑)。この会議に入ったことの意味は、私の本業であるコンプライアンスという観点から、組織の問題として今回の検察不祥事を考えるという使命を与えられているのだと、私なりに捉えております。

そういう観点からこの問題を考えてみたいと思います。おそらく組織の考え方として、一般企業や行政官庁と同列に論じられること自体が、検察内部の人間にとっては許し難いことでしょう。そこに実は一番大きな問題があるわけです。本来は組織の問題として考えるべきではない。この検察の問題は、そういう性格の問題なのかと考えてみましょう。いま八百長問題になっている大相撲の世界も土俵の上で相撲を取っているだけの話で、それが世の中に対して特に影響力がないというのであれば、それは勝手に相撲を取ってもらったらいいわけです。殺人や泥棒や放火といった伝統的な犯罪を処罰する世界というのは、ある意味ではそういう相撲のような世界かもしれません。

しかしこの数年、検察が手掛けた事件を思い起こしていただければわかるでしょう。例えばライブドア事件。あの強制捜査が、いったいこの経済社会にどれだけ影響を与えたか。福島県立大野病院の事件で産婦人科の勤務医が逮捕されたことが、全国の産婦人科医にどれだけ影響を与えたか。こう考えてみると、検察のアクションというのはまさしく世の中と密接に関わっていて、すでに相撲のような土俵の中だけの世界で考えるわけにはいきません。それでは検察を一般企業や行政官庁と比較すると、どういう存在なのか。そして、それが今の検察不祥事にどう関わっているのか、ということを考えてみる必要があります。

そこで企業や官庁がバブル経済の崩壊以降、世の中のトレンドが大きく変わってきて、等しく3つのことを要求されてきたということを、改めて思い起こしてみます。3つのうちの1つはガバナンスです。組織というものは、その権利者・主権者たちの意思を反映した形で運営されなければならない。一部の人間が暴走したりしてはいけないというガバナンス。これは企業も官庁も同じです。そして2番目が、情報開示。組織の運営についての情報を開示しないといけない。そして3番目に説明責任。開示した情報に基づいて、その組織がどういう考え方で何を行っているかということについて、しっかり説明しないといけません。日本の様々な企業や官庁は、この3つを等しく要求されてきたはずです。

ところが検察というところは、これら要求からほとんど免れてきました。まず第1にガバナンスという面で、検察の権限というのはいったい誰の意思に基づいて行われてきたかと考えてみますと、ほとんどが「正義」という言葉で切断されます。「すべての刑事事件は法と証拠に基づいて適切に処理される」という言葉で辞任した法務大臣がいましたが、その言葉が「誰の意思に基づいて」というところを切断してしまいます。そして2番目に情報開示義務ということに関して言えば、捜査の秘密であるとか、辞任された仙谷官房長官がしばしば口にされていた刑事訴訟法47条というようなものが出てきて、それでおしまいですね。情報は基本的に開示する必要がないということでやってきました。そして3番目に説明責任の問題。2年前の西松建設事件でいろいろ問題にされましたが、結局のところ検察は自分たちは裁判所に対して立証責任を負っているだけであって、世の中に対して捜査のアクションや起訴に関して説明責任は負わないということで通してきました。

要するに、社会において存在と活動が認められた組織、社会と深く関わって活動していく組織であれば、等しく課せられている3つの要求から免れてきたのが、検察という組織です。こういう組織のなかで起きていくことは。決して適切で健全なものにはならないということが、これまでいろんな企業・官庁のコンプライアンスとして、我々が学んできたことです。そこで今回の不祥事の問題を考えてみる必要が出てくるわけです。

では今回の検察不祥事を、企業の不祥事に置き換えて考えるとどういうことになるのか。検察の仕事を企業に置き換えてみると、だいたいこういうふうに考えることができます。一般的には検察の仕事というものは、多くの刑事事件では警察のような第一捜査機関から仕入れます。そして自分でさらに取り調べをしたり、証拠を集めたりして、その事件に一定の加工を加えて裁判所に供給する。なかにはいろいろやってみて、これは不良品でまったく使いものにならないというような場合もありますが、そういうものは不起訴処分です。裁判所に供給する以上は、検察がこれはまともな商品だということを保証する形で送り込むわけです。

そのなかで1つだけ特殊な業務をやっているのが、特捜検察です。ここは、いわば部品の仕入れから供給まで一貫して行っています。立件も逮捕も起訴も、すべて自分たちの組織だけでやります。そしてここで扱う商品が、目玉商品です。マスコミが大騒ぎして世の中に大々的にアピールして、裁判所に持っていこうと。世の中の注目を集めるというところに特徴があります。

こういった前提で考えたときに、今回の村木事件(前出の郵便不正事件に同じ。村木厚子前厚生局長が大阪地検特捜部によって逮捕、起訴された)、そしてそのあとに起きた証拠の改ざんなどの不祥事はどうなのか。まず村木事件の無罪判決がありました。検察が自信を持って裁判所に送り込んだ目玉商品が、裁判所から「とんでもない不良品だ」という判断を受けたわけです。そして検察自身が、それをそのまま受け入れざるを得なかった。組織として「その通りでございます」と言わざるを得なくなった。こういう問題です。そしてその直後に、裁判所に自信を持って送り込んだはずの商品を構成している部品が、改ざんされていたということまでわかったわけです。これが今回の不祥事です。

ここで考えてみないといけないのは、もしこれが一般企業の不祥事であれば、どういう対応が求められるだろうかということです。そういう不祥事が起きたときにどういう対応するかということに関して、私は「検察の在り方検討会議」でいろんなアドバイスを求められてきました。まさにその目玉商品を社として意思決定して送り込んだところ、それがとんでもない不良品だという判断を下されて、認めざるを得なくなったわけですから、業務の根幹に関わる問題です。つまり経営責任にも関わる問題です。ここで紛れもなく必要なのは、いったいどうしてこんなことになってしまったのか、関係を明らかにし原因を究明して、再発防止策を講じるということを、客観的にしっかり検証し判断していかなければならない。これは当然のことだと思います。

ところが今回検察が行ったことは、そうではなかった。まず朝日新聞のスクープでその問題が公表されるや、その日のうちに部品を改ざんしていた主任技術者を逮捕して、自分たちのテリトリで、その企業の副社長が指揮を執る形で捜査をやって介入していこうとした。そして捜査・処罰とは別に、客観的な検証も行われようとしたんですが、これも副社長を座長とする本社チームのところで検証を行って、それを世の中に対して客観的な検証と称して公表した。これが昨年末の最高検の検証結果報告書です。

当然のことながらその中身は、問題の本質にはまったく触れることができませんでした。当たり前ですね。そういう業務の根幹、組織の根幹に関わる問題を当事者が調査して、その本質に迫るわけがありません。だから、この検証結果報告書も厳しい批判を浴びました。我々「検察の在り方検討会議」も厳しく批判しました。マスコミも批判しました。検察には自浄能力があるのかということが、問題になったわけです。

そしてもう一つ大きな問題は、いま検察が置かれている状況がこの証拠改ざんの不祥事が発覚したときと比べて改善されているかというと、まったく改善されていないどころか、むしろ事態が一層深刻化しているということです。

そもそも前田(恒彦)元検事のやったフロッピーの改ざんが証拠隠滅だといって刑事事件にして、これを中心にこの不祥事の問題を片付けようとしたところに、根本的な問題があります。先程も申し上げたように、この不祥事の本質は、目玉商品を裁判所に送り込んだことにあります。最終的に冤罪と認めざるを得なかった村木さんの事件。検察の構図が客観的な証拠と矛盾しているから、そこで諦めて引き帰えさなければいけないのに、逮捕・起訴して160日以上も村木さんの身柄を拘束した。ここが問題の根本です。そして先程の企業の例でいえば、経営の中枢が変わらなければ、その問題の本質には触れられないわけです。ところが主任技術者が部品を改ざんしたというところに、問題を限局しようとしてしまいました。そしてそちらのほうに限局しようとするとどうなるかといえば、主任技術者の上司は部品の改ざんを知っていたのか知らなかったのかということに、当然ながらフォーカスされることになります。そこに世間の関心が集中し、なおかつその上司が言っていることがどう考えてもおかしいということになると、それをまた個人的な犯罪として、処罰せざるを得ないということで、大坪(弘道)前特捜部長、佐賀(元明)前特捜副部長が犯人隠避という罪名で逮捕されることになったわけです。

しかし本来は、前田元部長が適用されるべき罪名は、特別公務員職権濫用です。これは警察官検察官のような権力機関の公務員が対象になります。職権を濫用して人を逮捕監禁した。それによって成立する犯罪です。今回の犯罪はどう考えても客観的な証拠に矛盾するストーリーで人を逮捕・起訴したという行為であり、これは検察官の本来の職権として認められているはずがありません。明らかに職権の逸脱です。そういう職権の逸脱について、懲役6カ月以上10年以下と重い特別公務員職権濫用罪を適用しないといけません。ところが、本来であれば被告人側・被疑者側がなんとか罪を免れたいと思って証拠を隠滅したりする行為に適用される、懲役2年以下という軽い証拠隠滅罪で片付けてしまおうとしたところに、大変な問題があるわけです。

企業不祥事の場合もそうですけれども、問題の本質に迫らないで表面的な問題だけを捉えようとしていると、それがどんどん拡散していって、最終的にはその組織の根幹が揺らいでしまう。まさにいま検察が陥っている危機は、そういう危機だと思います。今後どういうことが起きるか。私は大坪前特捜部長、佐賀前副部長の犯人隠避の起訴は、相当無理筋だと思います。これから刑事公判の場で、仁義なき戦い検察版が展開されます。しかもこれは相当、検察にとって不利です。こうなると検察の内紛、内部抗争的なものがおもしろおかしくスポーツ新聞やワイドショーで取り上げられて、検察に対するイメージはずっと低下したままです。

そうすると現場で何が起きるか。「検察はどうせロクなもんじゃない」と思われるなかで、仕事をしてきたことは検察の職員にはほとんどないわけです。こんな状況下では、どんどん仕事がやりにくくなります。そしてこれまでできたことが、できなくなっていきます。そこで無理をして、また不祥事が起きる。そして信頼がさらに失墜する。これは数年前ある官庁、即ち社会保険庁で繰り返されてきたことです。それと同じようなことになってはならない。そこでとにかくこの機会に、検察というものはなんなのか。検察はなぜ行政機関でありながらも準司法機関などと言われて、聖域のように扱われまったく外からの介入が許されないようなやり方がしてこられたのか。そういったことも含めて、根本的に考え直してみないといけない。それができるかどうか。検察の再生、信頼回復が果たせるかどうか。そのポイントになるのではないかと思います。

「独立性の担保とガバナンスの担保、双方のバランスに課題」(柴山)

三宅:ありがとうございました。本日のパネリストお三方は、いずれも弁護士の資格を持っています。弁護士の世界は国会議員と同じで、期で序列が決まっています。柴山先生は一番お若いと思いますが、それにこだわらず、2人の先輩に厳しくコメントをお願いします。

柴山昌彦氏(以下、敬称略):私は司法研修所の53期になります(会場笑)。今日の主題は「最高裁と特捜検察という“聖域”を斬る」ということですが、今の久保利先生のお話も郷原先生のお話も、この聖域というところが大きな背景にあります。今日は行政の方もいらっしゃっていますが、民間の方もたくさんいらっしゃっています。そのいずれにおいても、要は、やはりきちっとチェックをするシステムがなければ、組織というものは絶対に腐敗してしまうということです。

ただ、裁判所でいえば「司法の独立」という大きな建前があります。裁判官というのは、どんな裁判をしても基本的には誰にも文句は言われない。もちろん控訴・上告というプロセスを経て、上級審による破棄や控訴取り消しといったチェックを受ける可能性はありますけれども、そうでなければ理屈のうえでは裁判の内容が、例えば最高裁の人事局の評価の対象にはならないわけですね。それをやってしまったら当然、個々の裁判官に対する介入ということに陥ります。

その結果、必然的にどうなるかというと、裁判官が独善的になりがちである。これは非常に大きな問題になってきます。だからこそ先程、久保利先生がおっしゃったように、ピラミッドの頂点である最高裁の判事は、我々衆議院の選挙ごとにこれをリコールというかどうかは争いがありますけれども、国民が「×」をつける洗礼を受けなければならないわけです。ただこれは残念なことに、久保利先生が一所懸命運動してくださっていますけれども、なかなか実効性が伴わないわけですね。まあそれはそうです。その当該最高裁判事が、これまでどういう職務経験をして、どういう裁判に関わって、どういう判決を下したなどということは専門性が高いし、だいたい皆さん選挙公報を見て、最高裁判官の国民審査について細かい字で書いてあるものをいちいち全部ご覧になった方は、いらっしゃらないでしょう。そういう問題があります。

そして検察庁については、郷原さんのほうからお話があったように、個別の不祥事というものに歪曲化してはならない。やはり問題は、組織の体制なんですね。検察は上命下服のある意味、閉鎖的な組織だと思っております。私は体育会出身なので、上命下服自体は悪いと思っていません。司法修習生の時代に、東京地検で修習して連日検事の方々と飲み会をやりました。そういう体育会的なところは個人的には大好きです。ただその上命下服の厳しい規律のもとで、上に対して文句を言えないということが、いったいどういうことに繋がってしまうのかといえば、組織のなかで無理が起きたり、不祥事が起きたり、それを隠蔽する。あるいは、自分の体にメスを入れるような検証ができなくなってしまう。そういう弊害があります。

もちろん裁判所も検察庁も外部から独立してこそ、しっかりとした職務奉仕が成されるということで、組織をきちんと守るということは大切です。それも大切ではありますが、外部からのチェックやガバナンスをどう図るかという、この両立ということが非常に難しい問題です。そういうところに、司法改革が進んでいます。そしてそれはまさしく、今お話があったような様々な聖域に、新しい風を吹き込むために必要な動きだと思っております。

この会場にいらっしゃっている世耕弘成先生も林芳正先生も、司法改革を提唱されてきました。ともすると独善的になりがちで、しかも社会や経済界からのニーズに応えられていない、質も量も極めてミゼラブルな司法というものを、どういう形で現実の(諸外国の)レベルにキャッチアップしていくのか。私も7年前に国会議員になり、そういった司法改革に尽力してきた次第です。

具体的には、法曹界の人数を増やす、あるいは弁護士任官という形で弁護士から裁判官にリクルートの道をもう少し広げていく、民間企業への出向を積極的にやってもらう、裁判員制度を導入するといった様々なことがあります。そういうようなことで、なるべく司法が独善的にならないような仕組みをつくり上げてきたわけです。ただこれら1つ1つは、副作用を生んでいるのではないかというような指摘もされています。その一方で、改革が十分ではないという問題意識もあります。この両者の声に応えていくことが、これからは求められていくでしょう。

それから、久保利先生のおっしゃった議員定数の問題ですね。実はこれでもかなり改善がされたんです。とくに衆議院では、中選挙区制度から小選挙区制度への移行にあたって、定数配分の区割りにおいても1票の格差をなるべく少なくするような形で見直しが行われました。ですから基本的には、1票の格差を1:2未満にするようにということで改善がされています。ただその場合でも、例えば各都道府県にどう分配するという問題等々があって、厳密には1:2未満にはなっていないという実態があります。

今年の国勢調査の速報値が間もなく出てきます。5年に1度の国勢調査の速報値で、それぞれの選挙区ごとの1票の格差がどうなっているのか出てくるので、これをもとに私は自民党の政治制度改革本部の事務局で、定数の見直しに取り組みます。自民党も民主党も議員定数削減を公約にしているので、定数の削減と1票の格差の是正の両方を一緒に進めていかなければなりません。

問題は参議院なんです。衆議院は選挙制度を抜本的に改革しました。小沢一郎さんを中心にして、小選挙区制度を導入するということで選挙の区割りの仕組みを改革したんです。一方の参議院は、改革が手つかずで、これまでのやり方と同じです。定数もほとんど減っていない。そして半数改選という、これはもう憲法上の規定なんですね。ですから1回の参議院選挙で変えられる部分は、非常に限られている。ということもあります。何増何減というような技法的な修正はしますけれども、11対5というとてつもない1票の格差は、直せません。これを本当に変えるためには、参議院の側でコペルニクス的な改革をやらなければなりませんが、私たちのような衆議院議員が言うのは僭越にあたるので、今日出席されている林先生や世耕先生のような参議院の若手の改革派が、どういう形で制度設計をされるかということが大きなポイントになってきます。

あえて私がいま申します。地方分権に際して、道州制が起爆剤になるのではないかと議論されていますよね。そうなれば、都道府県の枠を取り払って道州という枠にしたうえで、参議院の割り振りをすべきではないかということが、盛んに言われています。あるいは、直接投票制をこれまで通り確保するのが本当に相応しいのか。これも憲法上の問題が出てくるという話もあるので難しいですが、そういうような大きな改革が今後は必要になってくるでしょう。「立法府の怠慢」と言われ続けて久しいです。今度の最高裁の大法廷で弁論が予定されているので、弁論があるということは実質的に憲法判断でかなりの踏み込みがあるということが予想されるわけです。こういうことからしても、怠慢と言われないように我々は自らの体にメスを入れる改革というものを、しっかりと出していかなければならないと感じているところです。

次に検察庁の問題ですけれども、これもいまだに有罪率が9割を超えるということで、これは諸外国からすれば異例の数字となっています。第三者からのチェックも必ずしも十分でないということで、もがき苦しんでいるところです。外部からの検討をしっかりやらなければいけないし、外部検証するための人選やプロセス、あるいは期限をどうするのか。私も衆議院の法務委員会のメンバーですから、是正していかなければならないと思っております。

また取り調べの状況をいかにオープンにするかということで、可視化の議論が進んでいますね。この取り調べの可視化の問題についても、前進の道を開く時期にきています。ただその一方で、なんでもオープンにすればいいのかというと、それもそれで適切な捜査に支障が生じる場合が出てきます。かつて「1人の冤罪者を出すくらいだったら、99人の有罪の人を見逃したほうがマシだ」と言った人がいますけれども、これは私はとんでもない暴論だと思うんです。両方とも許してはいけません。冤罪を許してはいけないし、嘘をついて切り抜けるような仕組みをつくってもいけない。「正義のもとで」というような話がありましたけれども、本当の意味で正義が実現されるようにするために、例えば取り調べの可視化を進めるのであれば、諸外国で認められているようなおとり捜査、あるいは限定的な形で盗聴ができるようにする。どこまで認めるかは議論がありますけれども、新時代の捜査手法も導入していく必要が出てくるでしょう。裁判員裁判に際する準備の問題や、検察が不起訴を決めた際の裁量をチェックするための検察審査会のあり方など、論点はたくさんありますけれども、個別の問題はまた皆さんとしっかりと議論していきたいと思っております。

「事実上のピラミッドの頂点に立つのが外部の人間でいいのか」(柴山)

三宅:郷原さんに伺います。「検察の在り方検討会議」についてです。普通に考えますと、腐敗した組織を変えるには、やはりリーダーから変えないといけないということになろうかと思いますが、検察の在り方検討会議で検事総長を生え抜きの検事ではなく、例えば刑事弁護を3年以上経験した人材から起用したほうがいいのではないかといった提言は、誰も出さなかったのでしょうか?

郷原:そういう話も巷では聞きますけれども、会議ではそういう議論は出ていません。まだまだこれから議論が本格化するところですが、そこは検察組織の特殊性を考え合わせる必要があります。

一般の行政省庁であれば、大臣に権限が与えられていて、その権限が各部局に分掌されていますが、検察組織というのはそうではありません。すべて権限は検察官個人にあります。その検察官の権限を、総括するのが上司です。そして常識的にいえば、個々の検察官に対して検事総長、検事長、検事正が指揮監督できますが、権限を持っているのは検察官個人ですから、起訴意見を本人の意思に反してどうしても不起訴にしろと指示できません。最終的に検事個人の意見を受け入れられないときにはどうするかというと、上司がその事件を自分が引き取って処理するか、担当を変えてほかの検事に割り振ります。こういう形で検察全体の意思の統一と、個人個人の権限の独立性との調和を図っています。だから検察組織そのものは、上命下服の関係ではなく、個人個人の権限がふわーっとした空気のような形で一体化されているという、非常に特殊な組織です。したがって検事総長を民間人にして、その検事総長の言う通り検察機関を全部動かせということにできるかといったら、組織の性格が違うので不可能ですね。

先程はこれからどうすべきかいうことは話しませんでしたけれども、組織の力をどう生かして活性化していくのかということを考えるべきでしょう。検事個々人の能力が、本当に今の世の中に適用できるようなものになっていない。閉鎖的な組織だったから、徒弟制度的、職人堅気的なものに甘んじてきた。そのなかでどんどん劣化しています。それをなんとかすることを考えないと、形を変えてもおそらく良くはならないと思っています。

三宅:例えば郷原さんが検事総長になっても、何も解決出来ないということですか?

郷原:ダメです。反発を受けるだけで、おそらく何も変わりません。

三宅:久保利さんが検事総長になったらどうですか?

久保利:私が検事総長になっても反発があるでしょうけれども、郷原さんがおっしゃったように、そういう検事のあり方でいいのかということが問題です。「検察官の独任性」と言われますが、実はほとんどの弁護士は「そんなことはない。結局は上命下服だ」と思っています。だから、むしろそこのところをはっきり認識して、質が悪い検事がこんなにいるという、この組織をどう変えたらいいかというときには、やはり三宅さんが言うように、トップから変えていくという手法は当然あり得ます。そしてそこで反発があるということは、逆に言えば意味があるわけですから、郷原さんが検事総長になるなら、私は応援してもいいと思います。

三宅:今の話題について、柴山さんからお願いします。

柴山:例えば、石川知裕さんや小沢一郎さんの起訴についても、最終的に小沢さんが不起訴になったときには、「御前会議」があったわけです。要するにあれだけ大きな問題になれば、最終的に検察のトップが現場の捜査に携わった方々としっかりと協議したうえで、組織としての対応を決めるという部分があります。また、政治に関わってくると、法務大臣の指揮権の問題もありますよね。そうなると、検察は組織として大臣との距離感が微妙になります。だから検事総長に誰を据えるかというのは、非常に難しい問題です。指揮権の発動は軽々しくしてはならないということは皆さんおわかりでしょうが、では事実上のピラミッドの頂点に立つ検事総長が外部の人でいいのかどうか。外部から入ってきた人が、本当にそういったクリティカルな場面で最終判断を下すにあたって相応しいかどうかというのは、本当に難しい問題になってくるので、手放しに第三者ならいいということには、なかなかならないでしょう。ただ組織内部からの叩き上げで必ずしもいいかというと、それもそれで様々な問題点が挙げられています。ですから、指揮権をどうするか、あるいは検事総長の人選をどうするかということは本当に重要な問題なので、これを軽々に判断することは非常に難しいと思っています。

郷原:いま御前会議の話が出ましたが、なぜその呼び名がついたかといえば、神秘のベールに包まれているからなんですね。その会議はいったい誰が決めているのか、どういう資料に基づいてどう決めているかというのは、まったく外部からはわかりません。実態をいうと、下のほうの人間と上のほうの人間との力関係がまったく違います。それを戦争中の話にたとえると、神風特攻隊や戦艦大和の特攻攻撃を決めたときの御前会議のような、そんな狂った決定を誰がしたのかと思うけれども、みんなが空気に包まれたなかで、誰も反対出来なかった。これと同じようなものです。その空気をつくっているのが検察であり、そこに問題があるわけです。

今回のように前田検事の問題が発覚して、最高検の検証結果報告書でも、決栽にどういう問題があったとかいろいろなことが一応、指摘されてはいます。ところが結局、前田検事個人にすべての責任が押し付けられています。検察官個人に権限があるので、法的にそうなるのはもっともです。ただ事実上、誰がそれを決めているかというと、影響の大きい事件であればあるほど、上層部が方針を決めています。何か問題になったときには、最終的に検察官個人の問題になるという、非常にファジーな構造自体に問題があります。

そこで先程、柴山さんが言われた指揮権について。法務大臣の指揮権はなぜあるかというと、これは検察という組織が独立して判断する限りすべて正義だ、すべて適切だということの1つの例外というか、それが行政庁である以上は、それだけでは済みませんよね。行政庁である限りは、国会に対しても国民に対しても、なんらかの形で責任を負えるものでなければならない、というところを担保しているのが法務大臣の指揮権です。ところがこの指揮権発動をめぐって歴史上、非常に不幸な出来事がありました。政財官を巻き込んだ造船疑獄事件で、封印されてしまった。そこに大きな問題があるということです。

「選挙無効の請求訴訟7勝2敗は実は全敗ではないのか」(三宅)

三宅:1人1票のほうにも話題をふりましょうか。久保利さんに質問ですが、2009年の衆議院選の選挙無効の請求訴訟で7勝2敗とおっしゃいましたけれども、私から見ると全敗だと思うんですね。選挙無効を求めているのに、選挙無効判決は1度として出ていません。だから全敗だと思います。

それから、原理原則が1人1票というのは大事なことです。しかし、1人1票を実現して、どんな良いことがあるのかが見えないと、大きな議論にはならないと思いますので、その点を伺います。

もう1つは、誰がどう考えても1人0.2票というのはあり得ないわけですけれども、戦後60年以上にわたって程度の差はあれ続いてきたわけですね。これが続いてきた本質的な理由はどこにあると思いますか?

久保利:全敗だと言われれば、それは認めます。選挙を無効にしなかったからという点では、たしかに全敗です。これは、無効にしたときのリアクション、つまり、今の議員たちが失格となったとき、どういう状況が起きるかということに対して、明確なメッセージを我々は出していないのが1つの原因です。しかし最高裁が選挙区をつくって、この区割りでやりなさいということを言ってくれということが、日本の訴訟のなかでできるのか。今の制度ではダメなんだけれども、もし自分たちでつくれないならこれでやれということを、アメリカの連邦最高裁であれば言えます。我々は訴訟法上、いったいどのようにそう言わせたらいいのか。現に我々は都道府県を跨げば、厳密に1人0.9991票というところまではやれるという原案は出しました。だから裁判所に意があれば、理由の中でこれでやりなさいというのを言ってくれる可能性があります。それは我々はとしても期待しているわけですが、では「請求の趣旨」としてそれを書いたかといえば、そうはなっていない。この点については、我々の研究がまだ足りないところです。

それからなぜこんなふうになっているのかというと、そもそもスタートラインから履き違えていたわけです。参議院ではもともと2.36倍でした。すなわち1人0.4票というところからスタートしています。それがどんどん悪化して、今のような状況になってきている。当時の票割りもいびつだったし、そこから多くの人口が都市部に流出していきました。例えば九州であれば福岡に行く。それ以外の地域であれば、東京や大阪に行くという、この流出の仕方も違いました。そういうことで、結果的には1:5の格差になっています。

これが日本が経済成長してきたことと関係するのかと問われれば、地方から大都市への集中というゆがんだ成長の結果という一面はあるかもしれません。。そして今、日本経済が低迷しているのは、この票割りのせいだろうと私は思います。なぜならば、鳥取、島根、高知といったところの票の価値が高いわけですけれども、こういった地域は若年層が少なく高齢者が多い。高齢者はデフレ歓迎だと思うんです。自分の持っている財産をこのまま維持したい。そうなってくると、日本の政治的なイシューを決めていくときに、一番無難で変化の少ない、今のままゆっくりとジリ貧で野垂れ死にしていく方向に、みな加担するのではないか。それは日本にとって最大のリスクです。だから1人1票になると凄くいいことがあるというのは、日本がもっと力を持って若い人たちが元気になるような、そういう時代が来るのではないかと考えます。過疎の問題より過密の問題ととらえるべきです。私も66歳、それから(一緒に一人一票実現国民会議を運営している)升永(英俊)弁護士はもう69才になりますけれども、そういう人たちのいわば後世に対する遺産として、あり金をはたいてでもなんとか変えていきたいという原動力は、実はそこにあります。

柴山:1つ付け加えさせていただきます。小選挙区制度が導入されて、衆議院については1票の格差がかなり改善されましたが、少なくともそれまでは人口が大都市に移ってきても、定数がなかなか変えられなかったのは、私が言うのは僭越ですが、自民党の怠慢です。地方に根をはやして何度も当選されてきた先輩方が、既得権益にありついてなかなか重い腰を上げられず、定数是正がなかなか進んでこなかった。裁判所が「違憲状態」という判決を突き付けて、ようやく腰を上げて変わってきているということです。やはり地方選出で、「ドン」と呼ばれる政治家が居座っていて、定数の抜本的な改革に賛成せず、日本の政治の本来あるべき政策、グローバル化に対する機敏な対応を遅らせてきたのは、紛れもない事実だと思っています。

ただ現時点で言えば、鳥取から出ている代議士は石破茂さんと赤沢亮正さんです。この2人が既得権益バリバリかというと、決してそういうわけではないと思います。ですから衆議院に関しては、やはり昔に比べれば変わってきたという気はしています。ただそういう政治的な怠慢というものは、同じ自民党にいる者として謙虚に反省しなければいけないし、だからこそ私はこの選挙制度改革をするために、一生懸命頑張りたいと思っております。

三宅:ありがとうございます。会場からも伺いましょう。

世耕弘成氏:質問というよりも、久保利さんへの答弁をさせていただきます。いま参議院では、まず議長のもとに各党協議会というものがつくられました。自民党ではさらにその各党協議会に出していく案を考案するために、参議院改革本部をつくって、具体的に選挙制度を議論しようとしています。私はその事務局長を務めているので、しっかりと答えを出していきたいと思います。

これは自民党も民主党も、マニフェストに定数削減を掲げました。自民党の場合は、3割削減をうたっています。1票の格差是正と定数削減を同時に実現しようと思ったら、これは根本から選挙制度を変えなければなりません。自民党の参議院改革本部では、これまでで2回ほどフリーディスカッションをしましたが、まさに百家争鳴です。党内でもそういう状態ですから、超党派でやろうとすればさらにいろんな利害が絡んできます。例えば、全国比例にすれば格差はなくなるわけですけれども、そうなると小党乱立になって政治が安定しないという話になってくる。あるいは、合区という手法も当然ながら検討しなければいけめせんが、ではなぜ島根と鳥取は一緒になるのに、鳥取と岡山は一緒にならないのかというように、非常に難しいという議論も出てくるでしょう。

いま柴山さんや久保利さんのおっしゃった、選挙制度が日本の政治を歪めていることについて、逆の立場から言う人がいます。これは私の意見ではありませんけれども、逆の立場からは、地方の配分を少なくした選挙制度を衆議院に導入したから、地方が衰退したんだという主張もあるわけです。これをまとめるのは非常に難しそうです。ただし、最高裁に憲法解釈の権限があるのであるとすれば、我々国会には憲法改正の権限がありますから、そこまで視野に入れた案をつくっていかなければいけないだろうと思います。

いろんな案が出てきて侃々諤々の議論になっていますが、ただ我が党で1つコンセンサスができているのは、次の参議院選挙までになんらかの抜本的改正案を出さないと、国民から信頼を失うだろうということです。それぞれ立場があるけれども、何か案をまとめようとしていることだけはご報告できます。

久保利:私が申し上げたいのは、定数削減はもう少し後でもいいということです。西岡武夫参議院議長の提案では、1人0.87票まで縮まります。これを政治家として、なんとかやっていただきたい。そこからまた別の提案が出てこれば考えますけれども、いずれにしても西岡提案は都道府県を跨いで9ブロックにするという道州制を踏まえた案でもあるし、早くみんながそれに相乗りしたならば、非常にスムーズにいくのではないか。最高裁の判決を横目で睨むのではなく、ご自身の責任でやっていただきたいと思います。

「参院、衆院が相互チェックの機能をなぜ果たさないのか」(会場)

林芳正氏:アメリカの上院議員は、各州から2人選出されますね。カリフォルニア州とデラウェア州とでは人口がまったく違いますが、上院議員の数は変わりません。アメリカと日本の選挙制度は、なぜこんなに違っているのか。日本国憲法第14条に「法の下の平等」がありますので、アメリカにも同じような憲法の理念はあるはずです。むしろ立法府として、衆議院はまったく1:1ぐらいにして、逆に参議院はいくら1票の格差があって1つの県に1人という制度をつくってもいいのではないか。憲法解釈をする最高裁が14条との兼ね合いでどう判断するのかわかりませんが、そのあたりをどう頭のなかで整理すればいいのか、久保利さんに伺います。

それからもう1つは、郷原さんに伺います。尖閣事件があったときに、大学以来初めて、刑事訴訟法を読み返してみました。通常なら行政法の関係というものは、法律の下に政令や省令、通達、告示などがずらっとありますが、訴訟法にはそれがないことに驚かされました。したがって、公判の前だから証拠が出せないというのも、あれ本当は違うのではないかと思いましたが、それを当てはめるべきものがあまり見当たりません。そういうものと、先程の話の空気感が関わってくるのかと聞き入っていました。検察官の独任性、あるいは検察が準司法組織になっていることについて、憲法や法律上の根拠を改めて教えていただきたいと思います。

久保利:釈迦に説法ですけれども、まず参議院はどこが衆議院と違うのかというのは、憲法のなかでは例えば解散がない、半数改選、任期が6年といった差はありますけれども、地方の民意を問うために参議院をつくるというふうには、どこにも書いてありません。したがって、まず憲法で決められている枠では、代議員制の民主主義であるにもかかわらず、それが参議院と衆議院で違う原理でよろしいということにはなりません。だから人口比例方式。すなわち1人1票、等価値というものは、当然なのではないかと私どもは考えています。参議院の特殊性というのは、これまで議員の先生や最高裁は何をとち狂ったのか、根拠も論理もなしに勝手に言っていたにすぎないということです。

それからアメリカの上院との関係ですが、これも皆さんよくご存知の通り、アメリカはUnited Statesですね。Stateというのは州と訳されますが、実は国を意味します。合衆国という連邦なのです。ですから州の軍を持っているし、州の憲法も持っているし、例えばアメリカ会社法という法律はなくて、カリフォルニア州としての会社法、デラウェア州としての会社法、50州すべて違うから、どこに本社を置くかによって、自分たちの会社を好きな州法の会社法を使うことができます。みんな一律なのは、連邦法である証券取引法だけです。

そういう意味で日本の都道府県というものは、アメリカの州と比べると、州兵もいなければ、憲法もなければ、立法権も何もありません。都道府県は、地方自治法の単位にすぎません。憲法のなかには、どこにも都道府県は出てきません。ですから、道州制は憲法を改正することなく、法律を制定するだけでできます。そういう存在の都道府県に、衆議院ではあらかじめ1人別枠制などといって当てはめているから、こんないびつなものになる。私は石破茂さんが大好きだし、鳥取県選出の議員が減ろうとも彼が落ちると思っていませんけれども、それは個人の問題であって、制度としてそれはおかしくないかと申し上げているだけです。

郷原:なぜ法律で明確になっていないのか。たしかに刑事訴訟法に関して規則はありますけれども、技術的な事項ばかりで、具体的に判断する基準が示されていません。それを誰が決めるかといえば、結局のところ法律上は、検察に関する判断であれば検察官個人がすることになっています。例えば尖閣ビデオの問題に関しても、最終的にはその担当検察官が決めるということで終わってしまうんですね。しかも先程も言ったように、情報開示義務や説明責任が基本的にはその世界の人にはありません。ですから、あのビデオを開示するかしないかという話は、極めて価値判断的要素が強くてまさに行政的です。それなのに検察が準司法機関と呼ばれるところに押し込んでしまうと、一切の情報開示義務や説明責任がなくなってしまう。あの問題を検察の裁量のなかに押し込んでしまったというのは、最悪の判断だったと思います。ある意味であの問題は、検察の歴史にとって大阪地検の不祥事を凌ぐ汚点でしょう。内閣として判断すべきことを、検察の正義の世界にぶち込んでしまった。それを検察は受けてしまったということですから。なぜそういうことができてしまうかというと、検察の世界の曖昧さが原因です。本来は行政庁であるのに、それが何となく司法判断のように扱われてしまう。その実態の曖昧さが、結局そういったところで問題を引き起こしているわけです。

それではなぜ検察が準司法機関と呼ばれて、なんとなく検察の判断が司法判断のように扱われてきたかといえば、そこには有罪率90%以上という世界のなかで、検察が判断したことが事実上、司法判断と重なり合うところがあるからです。そして実際に検察はそれを先取りする形で、逮捕や起訴という判断をすべて自分の裁量でやってきて、世の中がそれによってこの人は悪人だと決めてきたわけですね。そういうような行動のもとで、検察はすべて裁量の世界で結論を出してきた。それは殺人や強盗や放火のような、悪質性・犯罪性が明確な犯罪ならいいけれども、検察の判断が経済的・社会的・政治的に大きな影響を及ぼすようになってきています。だからしっかりとした説明責任を負わせる形で、決定させないといけない。そのシステムが全然できていない。私が「検察の在り方検討会議」で指摘している最も重要なポイントは、そこのところをどうやって制度として整えていくのかということです。

ロバート・フェルドマン氏:コメントと質問が1つずつあります。まずコメントからです。アメリカの上院議員の話が出てきましたが、実はいま上院議員に対するアメリカ国民の印象は非常に悪くなっています。いろんな政策が歪んでいるので、これは真似しないほうがいいと思います(会場笑)。

質問ですけれども、柴山さんに伺います。最初の発言のなかで、できるだけ外部チェックが必要だというものがありましたけれども、その後は衆議院が参議院に対してものを言うのは僭越だとおっしゃいました。しかし参議院がおかしいと思ったら、衆議院から指摘したほうが外部チェックになるのではないかと感じましたけれども、いかがでしょうか?

柴山:鋭いご指摘有難うございます。政党として意思決定する際には、衆議院議員も参議院議員も自由に意見を言うということは、どんどんやっていくべきことだと思います。ただもし外に向かって、あるいは議会の場で衆議院が参議院のことに口出しするということは、これは日本国憲法上、院の自律性がかなり色濃く定められているのでできません。これは憲法53条とか47条とか。いろいろ定められているんですけれども、院の独立性が憲法上建前になっているので、それは少なくともオフィシャルな形で、私が参議院の検討がおかしいということを言うのは、イリーガルになるということは申し上げておきます。

しかし選挙制度について、決して外部から様々な意見がなくていいとは考えておりません。党内でも、例えば一院制にすべきかどうか、それを実現するにあたってどのように憲法を改正するのかという議論があります。そして、参議院をどう扱えばいいかというところではガンガン意見を言っていますので、そこだけはご理解いただきたいと思います。

郷原:それは院の自律性の問題なんでしょうか。参議院のなかでやったことが何か問題だということであれば別ですけれども、これは制度の問題ですから参議院のほうでなかなか発案できないのであれば、衆議院のほうで意見を言うべきだし、院の独立性とはちょっと違うと思います。

三宅:皆さま、ありがとうございました。もうひと方、挙手くださっていたのですが、時間いっぱいということで、まずはこのあたりにて終わらせていただきます。

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