田坂広志氏×冨山和彦氏「混迷する日本に必要なリーダーシップとは」 

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堀:皆さん、こんにちは。G1サミット2010最終となる本セッションでは、「リーダーシップ」について考えてみたいと思います。「現在の閉塞感漂う日本において私たち自身に必要なものは何か?」という自問にもつながるテーマです。

今回のG1サミットでは、「1.批判よりも提案を」「2.提案から行動へ」「3.次代のリーダーとしての自覚を醸成する」という精神を掲げています。つまり、国家のリーダーだけではなく、この会場にいる一人ひとりがリーダーとして何を考えていくか。僕ら自身が自覚を持ち、何をどう変えていくべきかを考え、行動に移していこうということです。

まずは「リーダーとは何か?」という側面から議論していきましょう。ここで考えていく要素は三つ。一つ目は資質、つまり能力ですね。二つ目は哲学。どういった哲学を持つべきか。そして三つ目がどのように育成をしていくかという点です。自らを育成しながら、その一方で皆さん自身が多くの部下をどのように育成していくかも重要になります。

今回は素晴らしいパネリストにお越しいただいています。まずは田坂さん。哲学的な側面からでも結構ですが、リーダーシップというものについてお話しいただけますでしょうか。

「自らが語っていることをどこまで深く信じているか」(田坂)

田坂:G1サミットという、まさに次の時代のリーダーとなる方々が集まる場所で、リーダーシップというテーマについて語る。これはなかなか意義深いパネル討論かと思います。まずは、最初の質問、「リーダーの資質とは何か」について、コメントしたいと思います。もとより、「リーダーの資質とは?」と聞かれれば、挙げようと思えば10でも20でも、求められる資質について挙げることはできますが、この会場の皆さんの無言の問いは、「それらの中でも最も大切な資質を、たった一つ挙げよ」と聞かれているかと思います。

そこで、この3日間を振り返ってみましょう。この3日間、さまざまなセッションがありました。そのなかで「胸を打つ言葉」がありましたね。また、「心に残る言葉」や「腹に響く言葉」も随分あったように思います。すなわち、「胸を打つ言葉」「心に残る言葉」「腹に響く言葉」。私は、そういった言葉を語れるかどうかが、非常に重要なリーダーの資質ではないかと思っています。端的に申し上げれば、リーダーに最も求められる資質は、「言葉の力」だと思っています。そして、私は、日本文化を大切にしている人間ですので、ここでは、日本という国に伝わる、あの言葉を申し上げたいと思います。

「言霊」(ことだま)。

これからの時代、日本のリーダーは、「言霊」を発することのできる人物でなければならないと思うのです。私は、海外の講演などにおいても、「KOTODAMA」という英語にして、その大切さを述べています。たった3人の職場のリーダーであろうが、日本という国のリーダーであろうが、リーダーたるもの、この「言霊」を発することができなければならない。そのことを、我々は、自らに問うてみるべきかと思います。

もとより、我々は、誰もが修行中の身。それゆえ、「自分の語っている言葉は軽いのではないか」と、ときに、深く反省するときもあるでしょう。自分の語った言葉が、部下、社員、県民、あるいは国民へどのように伝わっただろうか。胸を打つ言葉が、どれほどあっただろうか。心に残る言葉が、どれほど語れただろうか。腹に響く言葉を、どれほど発することができたか。そうしたことを反省するときがあります。

グローバリゼーションという大きな流れのなかにあって、「日本人はもっとディベートの力を磨くべきだ」と、よく言われます。たしかに、そういった能力も必要と思いますが、実は、欧米でも、本当にすごいリーダーは、ただ一言で、多くの人々の心を動かします。皆さんもよくご存じのあのリーダーは、そのただ一言で、多くの人々に大きな勇気を与え、変革の行動に駆り立てました。
“I have a dream.”。皆さんのなかにも、あのマルチン・ルーサー・キングの演説に、大きく心を動かされ、励まされた方がいるのではないでしょうか。

私はダボス会議などの国際会議にも、よく参加しますが、あの場において、欧米の論者の饒舌さに負けないように饒舌に話すことが国際戦略だとは思っていません。たしかに日本人は、もう少し喋ったほうがいいとは思いますが、やはり日本人は、言葉の数は少々足りなくとも、ひとたび発言を求められたら腹に響く言葉を発する人々でありたいと思います。そうした言葉の力で勝負できたならば、「KOTODAMA」という言葉も、いつか国際語になるのではないかと思っています。何年か先には、そうなってほしいですね。

ただ、このように、「リーダーには、言葉の力が求められる」「リーダーは、言霊を語らなければならない」と申し上げると、会場からは、「それは分かった。では、どうすれば、その言葉の力が身につくのか? 言霊を語れるようになるのか?」という疑問の声が挙がると思いますので、もう少し、話をさせて頂きたい。

心に残る言葉には、一つの共通点があります。それは、「自らが語っていることをどこまで深く信じているか」。究極的には、この一点だけです。

極論と思われるかもしれませんが、たとえ間違ったことであろうとも、本気で信じている人間が語る言葉は、心に響きます。実は、皆さんも経験的に、そのことを感じられているのではないでしょうか。逆に、言っていることは正しいが、心に響かない、ということもしばしば経験します。教科書のような本をたくさん読み、いつも模範的なことを言っている。しかし、それらの言葉の奥に少しも信念を感じない。自分で自分の言っていることを信じてないという言葉も、この世の中には数多くあります。そうした言葉よりも、多少、言い過ぎではないかと思えるような言葉であっても、その人が信じ込んで喋っているときには、それは「言霊」になります。その意味では、「信じる力」が、「言霊」を語る第一の条件だと思います。

しかし、こう申し上げると、「ああ、信念が大切ということですね」と思われる方が多いと思いますので、もう少し続けましょう。
例えば、皆さんが部下に、「君は信念を持っているか?」と聞けば、大概、「持っています」と答えるでしょう。しかし、それだけでは意味がないのですね。

なぜなら、「信じる力」ということの本当の意味は、「信念を持っているか」ということではないからです。「信じる力」の本当の意味は、「無意識の世界で、それを信じているか」ということなのです。
こう申し上げると、「そんな無体な」と思われるかもしれません。意識の働かないところ、自分自身にも分からないところで信じろと言われても、それは無理だと思われるでしょう。しかし、本当に信じているという状態というのは、自分の無意識の世界まで含めて、信じている状態を言うのです。

例えば、部下を一人つかまえて、「今期の売上目標 20億円」について問いただしたとします。「君は今期、この20億円を達成できるか」、「その信念を持ってやっているか」と聞けば、誰もが、「やります、やれます」と答えます。ところが、この瞬間に部下の心の中で何が起こっているかと言えば、実は、心の奥深くに「マイナスの想念」が溜まっていきます。表面意識では、「はい、20億円達成できると信じています。やります。やれます」と言ってはいるのですが、潜在意識の世界に「達成できなかったらどうしようか。いや、達成できないのではないか」という「マイナスの想念」が蓄積していくのです。

人間の心というものは、不思議なものです。小中学校の理科の授業で行った実験に、ガラス棒を絹の布でこすってプラスの電荷を起こすという実験があります。しかし、あの実験においては、実は、プラスの電荷だけが起こることはないのです。プラスの電荷が生まれるとき、必ず反対側に、マイナスの電荷が生まれてきます。
実は、人間の心もそれと同じであり、表面意識の世界で無理矢理「プラスの想念」を引き出すと、その反対側、潜在意識の世界、心の深い世界には「マイナスの想念」が溜まるのです。

つまり、その部下に対して、「本当に20億の目標、大丈夫だな」と、厳しく問いただせば、ただすほど、その部下は、ますます真剣な顔で「絶対に大丈夫です」と答えるのですが、その部下の心の奥深いところでは、「やれるかな。やれないのではないか。もし、やれなかったら、どうしよう。やれなかったら、何と言われるだろうか」といった不安と恐怖の想念が、どんどん溜まっていくのです。
従って、ここで申し上げる「リーダーが持つべき信念」、あるいは「信じる力」とは、単に表面意識の世界での信念ではなく、全身全霊、潜在意識の世界まで信じ込んでいるということなのです。

すなわち、「信じる力」とは、ある意味で「恐怖心」との戦いでもあります。逆に、我々経営者が部下や社員の前で何かを言った瞬間、私たちの心の奥には、「本当にやれるだろうか」という恐怖心が生まれます。我々の潜在意識の世界では、実は、その恐怖心と戦っているのですね。そして、我々の能力は、この恐怖心があるだけで、悲しいほどに委縮してしまうのですね。
例えば、いま、この床にチョークで30センチ幅の2本の線を引く。我々は、健常者ならば、この30センチ幅の道を、駆け抜けることができるのですね。しかし、もしこれが、断崖絶壁の上に架けてある丸太橋だったら、我々は、一歩たりとも歩めないでしょう。本来、30センチの幅をコントロールして歩く能力はあるにもかかわらず、心の中に恐怖心が生まれただけで、我々の能力は、恐ろしいほどに委縮してしまうのですね。
しかし、こうした潜在意識や無意識の世界をマネジメントすることは難しい。それを完璧にマネジメントできる人といえば、ある意味で、仏のような存在でしょう。しかし、そこまでいかなくとも、自分の深い意識の世界の恐怖心が見えている。そして、それに処する力を持っている。このあたりが、リーダーシップ論において最も難しく、最も面白く、最も深い世界だと思っています。

堀:ありがとうございます。せっかくですからもう少し踏み込んで伺ってみたいですね。そういった無意識の世界にはどうやったら到達できるのかという点について、お話しいただけますか。

田坂:それは、実はとても大切な質問ですね。なぜなら、優れたリーダーは、一つには、その無意識の世界が望ましい状態だからです。例えば、優れたリーダーや名経営者を見ていると、多くの場合、ある共通の資質がありますね。
それは「無邪気」ということです。そもそも「邪気」というのは「マイナスの想念」ですから、無邪気な人間には、心の深い部分に「マイナスの想念」が溜まらないのです。すなわち、無邪気ということは、ある意味で、優れた潜在意識のマネジメントなのですね。

先の問いに戻るならば、「20億円の目標を達成できるか」と問われて不安になるとすれば、それは人間には「分別」があるからです。できること、できないことを分けて考える力があるということ。普通の人間であるかぎり、必ず、この「分別」を持っている。そして、その分別ゆえ、「プラスの想念」と「マイナスの想念」が生まれ、「意欲や希望」と同時に、「不安や恐怖」も生まれる。
ただ、そうした人間の中で、一人だけ、そうした分別を持たない人間がいる。皆さんの身の回りにもいるでしょう。
それは、「赤子」や「幼児」や「子供」ですね。彼らは、まだ分別が身についていない時期であるがゆえに、「無邪気」であり、まさに「マイナスの想念」が無い。
例えば、小さな子供に将来の夢について聞く。「僕、宇宙飛行士になりたい。絶対、宇宙飛行士になるんだ」と話す子供は、将来に対する不安は無い。「僕、宇宙飛行士になれないのではないか」という「マイナスの想念」が無いのですね。自分の可能性を、無条件に信じ切っている。(会場笑)
だから、優れたリーダーや名経営者には、こうした「無邪気さ」を持っている人が多いのです。それは、実は、最も強力な「無意識のマネジメント」だからです。
では、こうした「無邪気さ」を、どうすれば身につけることができるのか。ただ、基本的に、こうした「無邪気さ」は、「天与の資質」としか説明しようがありません。世の中には、「根っからの楽天家」、「根っからの無邪気な性格」という人がいます。「あの社長は、どこか憎めないよね」と感じる人は、皆さんの周囲にもいると思います。そもそも、リーダーとは、天性の楽天性や無邪気さを持った人なのですね。
しかし、リーダーが持つべき楽天性や無邪気さを「天与の資質」と言ってしまうと、話が続きませんので、もし、そうした資質が天から与えられていない場合には、どうすれば良いか。
そのことについては、後ほど、お話したいと思います。

堀:ありがとうございました。では冨山さんにも同じ質問をいたします。リーダーの能力や資質に関して、特に冨山さんの見ておられるビジネスの世界においては、どのように位置づけておられますか。

「自分の信念をかけた仕事と向き合ったとき、自分は殺されてもいいと思えるのか」(冨山)

冨山:G1サミットの冒頭に竹中平蔵さんと前原誠司さんが登壇されましたが、お二人とも私がかつて仕事を共にした仲です。いわゆる“修羅場系”の仕事を一緒にする羽目になってしまったお二人ですが(笑)、彼らもリーダーですよね。

(私が代表取締役専務COOを務めた)産業再生機構での仕事は、日本政府が関与する組織としては珍しく、生々しく人のクビを切り、時に、その人の人生も壊すような内容でした。それは、日本の政治・経済が今も抱える、不利益をどう再配分するかという課題に正面から向き合うものだったためです。

不利益の再配分を行うとどうなるか。多くの場合、再配分された人は再配分した人を殺してやろうというほど恨みます。特に家庭に影響がおよんだ場合、絶対にどこかで仇をとってやろうと考える。たとえばカネボウやダイエーに入り込んで、マーケット・ディシプリンで云々かんぬんと議論し、要は撤退すべきは撤退しましょう、と決めるところまでは、机上の話ですよね。しかし当該企業が、ついに経営破綻するという段階になれば何万もの人間が職を失います。その家族が食うにも困り、子供たちは大学に上がれなくなるとか、そういうことが現実の問題として起きてくる。リーダーが一番逡巡する局面、“びびる”局面、あるいは「リーダーにならなければ良かったかな」と考える局面というのは、そういった瞬間であることが、ほとんどなのです。

今の日本には、企業にしても、社会保障制度などの仕組みにおいても、長い時間をかけて蓄積された“澱”のようなものがあります。これを解消し、変革を推進していこうという際に、全員を救うことは絶対にできません。すると必ず、どこかに「こいつを殺してやろう」と恨む人間がでてくることになる。“選択と集中”などと口で言うのは実に簡単なことで、現実的には、ある部門かもしれないし、古い世代かもしれないし、現任の社長かもしれないし、オーナー一族かもしれないし、いずれにせよ何かを切り捨てていくことになります。

問題はそれをする際に、リーダー自身に、その最終的な責任、最終的な恨みを引き受ける覚悟があるかということなのです。それは先ほど田坂さんが言われたように、相当に信じ込んでない限りはできないですよね。そういう意味では無邪気という言葉は非常に本質的だと思いました。

極端なことを言うなら、最後の局面で「この人の人生を壊してしまうかもしれない」とか、「この人の家庭を壊してしまうかもしれない」ということが、最終的な結論として正しいと思うか思わないか。これは論理的には答えは出ません。たとえば日本航空は従業員5万人の会社ですが、あの会社が生き延びるためにはおそらく3割、1万5000人に辞めてもらわないといけない。かつての国鉄と完全に一緒ですね。そして当然ながらその1万5000人には配偶者もいれば子供もいるのです。しかも一番辞めて欲しいのはシニア世代。40歳代〜50歳代の従業員のことですが、この世代の子供たちは高校や大学の進学で一番お金のかかる世代です。日経新聞に言わせれば「法的整理に追い込んで淘汰すればいい」ということになりますが、論理的に正しいことが全てではないのです。

これは実際に経験しないと分からないことと思いますが、現実の世界では本当に色々なことが起きます。まず自宅に変な手紙が山ほど届くようになる。開封した瞬間に分かるんです。なぜ自宅に来るかと言えば、私の家族に読ませるためです。変な電話もたくさんかかってきます。なぜか多くの人が私の子供がどの学校に通っているかを知ることにもなります。そういうことが、現実の世界では起きるのです。トップの人間はそれなりにガードされていますから、その下の社員がよく狙われます。ガソリンをかけられそうになった人間もいました。

でもそれは、やる側からすればたしかに切実な問題ですよね。人生がかかっているのですから。再生機構で一番大変だったのは大企業の再建より、むしろ、とある旅館の再建だったのですが、地方の小さな旅館には、訳あり人生を送って来られた従業員の方が多いんです。だから、そこでクビを切られると次の仕事がない。特に子供のいる人などは、これはもう命をかけて抵抗してきますよ。

ここで私がお伝えしたいのは、そういった局面で最終的に問われてくるのが、まさにリーダーシップであるということなんです。自分の信じていること、自分の信念をかけた仕事と向き合ったとき、そのためになら、自分は殺されてもいい、とすら思えるのかどうかということです。

本当に殺されてもいいと思っている人は、先程のお話にあった“ネガティブな想念”も意外と溜まらないところがある。私としては、小泉純一郎さんにはそういう部分があったんじゃないかと思っています。殺されてもいいと思っていたのではないかなと。再生機構にいた当時は、法律的には内閣総理大臣たる小泉さんが上司だったのですが、そのときと今とでは肌で感じるものが異なる。ダイエー騒動のときは経産省と再生機構との間でガチンコになって、こちらも体を張らなければならない場面がありましたが、今の日本航空の件と状況が異なるなと思うのは、上司である小泉さんが殺されてもいいと思って総理大臣をやっていたからか、負のエネルギーを感じなかったんです。だから部下である自分も自然とそうなっていった。信念を共有していたから。もちろん同じことを30年間続けろと言われたら、命が幾つあっても足りないから無理ですが(笑)。

いずれにせよ、リーダーが本当の意味での勝負をしなければいけないときというのは、そんなに幾度も頻繁に来るものではない。問題はその時、腹を括れますか、ということなのです。それは田坂さんのお話にもつながると思いました。その覚悟が、ある種の無邪気さなんですよね。

堀:どうすれば「殺されてもいい」と思えるところまで腹を括れるのでしょうか。たとえば今の政府を見ていても、基本的には騒がれるとすぐにやめちゃうわけですよね。

冨山:そう、びびっちゃってね。

堀:身の危険を感じたら、びびるわけですよね。それをどうやって乗り越えるのか。田坂さんはいかが思われますか。

『この平和な時代を生きる我々に求められているのは、深い「死生観」を抱くこと』(田坂)

田坂:見事なタイミングで話を振って頂いたので、さらに深い話に向かえますね。先ほどの流れでお話しするならば、我々は、子供の頃には誰もが「無邪気」なわけです。しかし、大人になるにつれ「分別」が身についてくる。その結果、当然、心の奥深くに、様々な恐怖が芽生えてきます。
では、そういう「分別」を身につけてしまった人間が、どうすれば「マイナスの想念」を捨てることができるのか。もしくは、そうした想念を超えていくことができるのか。

これについては、二つのことを申し上げたいと思います。一つは、世の中で一般的に言われることですが、「マイナスの想念」を捨てていくには、「成功体験を積み重ねる」ということです。実際、成功している経営者の多くは、過去に多くの成功体験を積み重ねてきた結果、心の奥深くに「プラスの想念」が蓄積されている。心の奥深くに、「必ずできる」というポジティブな自信を持っている。
かつて、非常に強い運気を持ったある経営者から聞かされた言葉があります。「私は、過去に何度も99.99%駄目という局面で、諦めずに100%駄目になるまで、勝負してきた。しかし、そのなかで何回か、ぎりぎりのところで大逆転した経験がある。だから自分は、決して諦めない」という言葉です。こういうタイプの方は、確かに運気が強いですね。ただ、冨山さんのお話にお答えするためには、もっと深いレベルでの「楽天性」について申し上げたいと思います。

実際、経営者の方で、子供の無邪気さとはまた違った形で、根本的に楽天的な方がいらっしゃいますね。そうした方を拝見していると、昔から語られる、あの格言が当てはまる方が多いのですね。「経営者として大成するためには、三つの体験のいずれかを持たねばならぬ。戦争か、大病か、投獄。その3つの体験のいずれかを持たねばならぬ」というものです。この格言は戦前のものですから、大病とは、当時「不治の病」と言われた結核などでしょう。従って、この体験は、生きるか死ぬかの体験。戦争は、言うまでもなく生きるか死ぬか。投獄も、当時は、思想弾圧などがあり、小林多喜二などのように特高警察の拷問で殺されることもあった。これも生きるか死ぬか。従って、この格言は、現代の経営者の方々にとっては、極めて重い言葉ですね。しかし、実際、戦後の名経営者には、この格言が当てはまる方が多かったのではないでしょうか。元・伊藤忠会長の瀬島龍三氏はシベリア抑留の経験、ダイエー創業者の中内功氏も、戦時を回顧し、「自分は、中内軍曹として終戦を迎えた。突撃の声のもとに、勇敢な仲間たちは皆、死んでいった。私は卑怯未練にして、生き残った。その無念の思いが、私を流通革命に駆り立てる」と言われました。これは、魂の言葉であると思います。中内氏については晩節云々と言われますが、私は晩年の業績だけで、その人物の歩みをすべて否定するべきではないと考えます。また、セゾングループを興した堤清二氏も、学生運動の最中に結核を患われた。また、京セラの稲盛和夫氏も、若き日に結核を患われていますね。こう見ると、昭和の名経営者と言われる人たちは皆、生きるか死ぬかの体験を持っていたのです。

しかし、ここで皆さんの無言の声が聞こえてきますね。たしかに、この平和な時代に、戦争や投獄の経験を持てと言われても困るでしょう(会場笑)。しかし、だからこそ、我々は、この平和な時代にどう処するのかを、深く考えなければならない。それが、我々世代にとっての勝負になるのだと思うのです。

さて、では、「生きるか死ぬか」の体験が持たなくとも、これらの名経営者がその体験の中で掴んだものを掴めるのか。
私は、あえて「ある」と申しあげたい。ただし、それを掴むためには、絶対に身につけなければならないものがある。
それは、「死生観」です。この平和な時代を生きる我々に求められているのは、深い「死生観」を抱くことです。これは、人間が生きるために昔から非常に大切にされてきたものであるにも関わらず、我々が、その大切さを忘れ、疎かにしてきたものでもあります。
私は、この日本においては、義務教育の段階から「死生観」について深く学べる教育をするべきと思っています。逆に言えば、子供の時代に、「死生観」をしっかりと掴むならば、その子供は、必ず素晴らしい人生を歩むと思っています。

では、「死生観」とは何か。そのことを、端的に説明しましょう。例えば、部下が仕事において正念場に直面する。そのとき、我々は、しばしば、「必死になってやれ」とか「必死に頑張れ」という言葉をかけることがありますね。たしかに、人間、死ぬ気になれば、想像を超えた力を発揮する。しかし、この「必死」とは、不思議な言葉。なぜなら、「必死」と書いて、「必ず死ぬ」と読む。そうであるならば、我々、誰もが、いま、この瞬間に「必死」ではないか。そのことに気がついたとき、我々は、本当の「死生観」を掴めるのでしょう。

誰であろうと、人間であるかぎり、我々は必ず死ぬ。ただ、我々は、日常、その真実を見つめないようにしている。「すべての文化は、死を忘れるためにある」という言葉がありますが、だからこそ、ラテン語でも「Memento mori(死を忘れるな)」という警句が語られる。
人間は、必ず死ぬ。そして、人生は、一回しかない。そして人間は、いつ死ぬか分からない。
だからこそ「一期一会」という言葉がある。日本語の素晴らしいところは、こうした言葉が、単なる「おもてなしの作法」として語られてきたのではないというところです。それは、日常を生きるための、深い「死生観」として語られてきた。例えば、戦国時代であれば、誰かと誰かがひとたび出会った後、次はお互い命がないということも日常のようにして起こっていたわけです。まさに、そんな時代に、「一期一会」という思想が生まれてきたわけです。

しかし、よく考えてみれば、現代を生きる我々もまた、実は「一期一会」ですね。このサミットの最後に、「来年も、ぜひお会いしましょう」と言ってみたところで、お互いに生きて会えるということは、誰も保証していない。我々が勝手に、「きっとまた会える」と思っているだけなのです。その幻想を支えてくれるのが「平均寿命」という言葉でしょう。「平均寿命から考えても、自分は、あと何十年かは生きられそうだ」と勝手に思い込んでいる。しかし、どこにも、その絶対の保証があるわけではない。その人生の真実を直視し、与えられたこの一瞬を生き切る覚悟を定めた瞬間に、本当の意味での「楽天性」、あるいは「楽観主義」が生まれてくるのですね。先ほど挙げた、生きる死ぬの体験をした名経営者の方々は、誰もが、こう思っている。「生きて戻ってこれただけでも有り難い。いずれ天から与えられたこの命、大切に使おう。与えられたこの人生、精一杯に生きよう」。そう思い定めることが原点となって、「楽天性」が生まれてくるのですね。

堀:非常に深みのあるお話でした。それは僕がずっと考えていた「自分は何のために生まれてきたか」という問いかけや、使命感といった言葉にもつながってくると思います。今、僕らは実は幸運な時代を生きているのかもしれません。たとえば龍馬が生きた時代は激変に満ちていましたよね。それはエネルギーに溢れていたという意味で素晴らしい時代だったんじゃないかと思えるのですが、僕らもそれと同じような時代のなかにいるのかも知れないと思うのです。危機感が醸成されていて、今、自分に何ができるのかを考えることが大変重要に思えてきます。

それでふと思い至ったのが、「命もいらぬ。金もいらぬ。位もいらぬ。名もいらぬ。こういう人間が一番やっかいだが、世の中を変えていく」という西郷隆盛の言葉です。命も金も権力も名声もいらないのであれば、何のために生きているかが課題になる。それが分かればものすごい力が生まれ、腹が据わるということにもなっていくんじゃないかと思います。そのあたり、冨山さんはいかがでしょうか。CDIから産業再生機構へ入る段階で給料も1/3減ったと伺いました。それでも再生機構入りを決めた背景には、何らかの覚悟や使命感があったと思うのですが。

「自分の子供に対し、なるべく短い応えで説明できる決断、生き方をしたい」(冨山)

冨山:そうですね。結局、人間は最後には死んでしまうわけで、持てる時間は限られます。私の場合には、42歳のときに再生機構入りの話をいただき、ある種の天命を感じたのでしょうね。あのとき断っていたら、残りの人生のなかで「なぜ断ったんだろう」と自問自答しながら残りの数十年を生きる羽目になっていたかもしれない。まさに負のエネルギーが溜まった状態で何十年も過ごさなければならないということを考えたら、給料が下がるぐらいはいいかなと感じた部分はあったように思います。

これは後から考えたことですが、30年か40年経って、まだ自分が運良く生きていられるとして、自分の子供に対し、なるべく短い応えで説明できる決断、生き方をしたいな、と。死ねばあの世にお金をもってはいけません。数十年たつと、自分の子供にもある程度の分別が付いている。そこで自分自身がした決断について質問されたとき、あそこで断っていたら説明が長くなっていたと思います。男女の不貞の言い訳にしても、政治家の答弁にしても、同じようなものでしょう?(会場笑)

もう一つは、再生機構に最初に来た案件が三井鉱山だったということも大きかった。三井鉱山という会社はかつて総資本対総労働で大騒動があり、死人が出たこともある会社です。さらにさかのぼれば大陸から強制徴用でたくさんの人を連れてきて、多くの方が亡くなっているという歴史もある。怨念亡霊140年の歴史を積み重ねた会社の再生案件だったんです。最初は正直、「なんでこんな案件が来ちゃうんだよ」って思いましたし、実際に苦労した案件でした。でも、結果的には一番良くなった。最終的には、リーダーの仕事というのは、人間と関わる仕事ですから、人をしていかにその人にないものをさしめるかということを考える結果にもつながりましたね。

たとえば三井鉱山は従業員一万人ですから、再生機構として入れば一人対一万人の関係になります。一万人の日々の行動なんていうものは絶対に監視できない。なら具体的な権力作用として、私一人がどこまで一万人に作用を及ぼし得るかが勝負になってくるわけです。リストラについても2000人には理不尽なものであっても、残りの8000人にとっては必要だからやっていくわけですね。それをやっていくうち、ある種のエクスタシーが生まれてきました。それは業績が数字上、良くなったといった類のものではなく、ある局面でそこいる人間の目の色が変わったということです。企業を再生させる段階で、必ずそういう局面が発生する。彼らの目の色が変わる前と後とで、私たちと彼らの関係も変わりました。それまでは敵視すべきものだったのが、その瞬間から同志に変わる。そういう局面で感じる快感、エクスタシーというのは結構深いものがありましたね。これは権力でもお金でも名誉でもない。たぶん教育の世界にもそれに似た快感があるのだと思いますが、これが、その後再生機構にいた4年間を支えてくれていた部分があります。

堀:なるほど。田坂さんはこの点についてはどのようにお考えになりますか。

『経営者は、最後はどうしても、「祈り」という世界に行き着きつく』(田坂)

田坂:大変深い思いの込められた体験談なので、この体験談とつながる話をしたいと思います。
先ほども申し上げたように、リーダーの資質について語る場合、最後に行き着くのは「死生観」の問題だと、私は思っています。なぜなら、リーダーの仕事は、ある意味で、「他人の人生を預かる」ことだからです。それはすなわち、「他人の命を預かる」ことだからです。冨山さんのお話もそうでしたが、1000人〜2000人の社員の人生を預かるわけですね。それが仮に、多くの社員が路頭に迷う形になろうが、皆で頑張ろうと励ましあう形になろうが、いずれにしても、自分の決断が多くの人間の人生に影響を与えるわけです。この瞬間、我々は「答えの無い問い」の前に立ち尽くすのです。

なぜなら、それは本当に「答え」が無いからです。そもそも、「社員は、ただ雇用を守れはよいのか」と問われるならば、そこにも根本的な疑問が生まれます。それは、「社員にとって、本当の幸せとは何か」という問いでもあるからです。ときに厳しい人生になったとしても、後から振り返るならば、それで良かったということもあるかもしれない。そうした「答えの無い問い」の前で我々に問われるのは、深い「死生観」であり、「人生観」であり、「歴史観」なのですね。

「人生観」と「歴史観」は、一人の人間の人生と、人類という種の歴史という意味で、私は、ほぼ同一の思想で捉えていますが、人生観においては、そもそも、「幸せな人生とは、いかなる人生か」という問いに答えることが、最も大切と思っています。この問いについては、拙著『未来を拓く君たちへ』(PHP文庫)で一つの思想を語りましたが、いずれにしても、この問いに自分なりの答えを持ち、覚悟を定めなければ、本当の意味での「部下や社員のマネジメント」はできません。

もし、ある経営者の、この問いに対する答えが、「部下や社員が、つつがなく、できるだけ困難も苦労もない人生を送れれば幸せだ」というものなら、その経営者の経営は、そうした「人生観」に基づいた経営になるし、その企業には、そういう「人生観」に共感する社員が集まるでしょう。それは、それで、企業としては、それなりの業績も出せるかもしれない。
しかし、私は、むしろ、困難や苦労を避けるのではなく、それらを肯定的に受け止める「人生観」でマネジメントを行いたいと考えてきました。だから、『意思決定 12の心得』(PHP文庫)において語ったように、苦境のとき、部下に対して、「おめでとう、これで大変な修羅場が体験できるな」と語ったりするのでしょう。私のマネジメントの根底にあるのは、「人生に起こること、すべてに意味がある」という思想であり、さらに言えば、「人生に起こること、すべて良きこと」という思想なのですね。

例えば、ここに集まられた皆さんの多くが、大量解雇とまではいかなくとも、「君は、当社から離れて、少し別な道を歩んでみては・・・」という話をされたことがあるのではないでしょうか。その瞬間、人間であるかぎり悩みますね。「彼は、この会社でずっと雇用してあげるほうが良いのではないか」と。そのとき、我々が、人生というものに対する深い思想を持っていなければ、決して腹が据わりません。考え抜いた結果、社員に去ってもらうという結論になったとき、「去っていく社員にとっても、この選択がいちばん良い結果になって欲しい」と、心の奥で願いますね。だから経営者は、最後はどうしても、「祈り」という世界に行き着きます。宗教家ならずとも、必ず、祈るような思いを持つ。例えば、彼もしくは彼女が退職していくとき、「頑張れよ」と言いながら、心のなかで「良き人生を歩んで欲しい」と祈るのですね。それが、リーダーや経営者の道を歩む人間の心の奥深くに、必ず湧きあがってくる思いではないでしょうか。

先ほど、「人生観」と「歴史観」が同じであると申し上げたのには、理由があります。今日この会場にいらっしゃる政治家の方々に、特に申し上げたいのですが、政治家の方が守ろうとされているのは、社員でなく国民の幸福ですね。小泉改革の時代に語られた「痛みに耐えて」という言葉の奥にあったのは、「これが、必ず国民の幸せにつながる」という信念だったはずです。これから、この国には様々な辛いことが起こるが、その先には必ず、多くの国民にとっての幸せがある。だから、いつか、「ああ、あの辛い時代があって良かった」と語り合える時代を切り拓こう、そんな時代を築こうという信念があったのではないでしょうか。だからこそ、あの改革を進めて来られたのではないでしょうか。

「権力をいかに手に入れて、使うかという、マキャベリスティックなテクニックがとても大切」(冨山)

冨山:おっしゃるとおりと思います。私自身、リーダーシップ論においては、資質や哲学の部分が中核になると思っていますが、ここであえて議論のレベルを引き下げて、能力の部分についても少し、お話をしてみたいと思います。今日の議論はスタート時点で究極的な部分から入っていったものですから、今ここでも、人生観や歴史観という答えになっていったのだと思いますが、しかし同時に、実はその手前にもいくつかのハードルがあると考えています。

その一つが権力に関することです。自分の経験を振り返り、CDIで創業メンバーとしてやっていた時代と、政府の巨大な機構のなかに入ってやっていた時代とでは、大きな相違がありました。創業社長なら権力も正当性も当然のように持っていて、しかもその維持にそれほど心を致す必要はありません。ところが巨大な政府の組織というのは専制国家でもないかぎり、誰も絶対権限を持ってはいません。そのなかでは権力をいかに手に入れて、かつ維持し、使うかという、マキャベリスティックなテクニックが実はとても大切になると思います。

突き詰めて申し上げるなら、権力を最終的に担保するのは、どの時代であっても恐らくお金と暴力でしょう。なぜならお金と暴力に人間は一番弱いからです。人間の本質的な弱さが権力の源泉ということですね。小泉さんのやり方を見ていてもそれは感じました。けれどもお金と暴力を使うということは、実はすごく危ないことでもある。お金と暴力というのは使うと必ず自分に返ってきますから。負の情念が溜まるんです。再生機構では国から預かった10兆円の政府保証枠を活用して、41社におよぶ企業のトップを選んでいますから、これはもう絶対権力者でした。でもそこには、権力というものを握って使うということの難しさがあった。恐らくそれを行使した人は皆、この難しさを嫌というほど味わっています。日本の風土として、権力やパワーを汚く言う空気がありますが、そこのところは冷静にきちんと見つめておく必要があると思います。

もっと言えば、日本の経済界でリーダークラスの人にしても、政治家にしても、国際舞台で繰り広げられる権力と権力の汚いぶつかり合いに弱いという面があると思います。国際舞台ではどんな汚いことをしてでも、まずは権力を握って相手を倒さないことには話がはじまらない。日本人はやはりそこが弱い。そこから目をそむけないで欲しい。幕末の偉人たちも実際にはとてもダーティーで、目的のために手段を選ばない部分があった。そこから目をそらしてしまうと議論がふわっとしたものになってしまうと思いましたので、あえて提起させていただきました。

堀:まったく同感です。なにを達成するにおいても、それが汚いことかどうかは分かりませんが、ルールの範囲内でやるべきことは全てやっていかなければならない。そのうえで、権力はあくまでも手段。それが目的化してしまうことの危険性もあるでしょう。

田坂:その点についても、私の考え方を述べさせて頂きたいと思います。これは非常に重要なことですが、優れた経営者に、もう一つ共通項があります。
それは、「この人は二重人格ではないか」と思える場面に出会うということです。いや二重人格では少ない。多重人格と言ってもいいかもしれません。

皆さんの周りにもいらっしゃるのではないでしょうか。 「この人は仏様か」と思えるほど慈愛に満ちた姿を見せる一方で、数日後に、「この人は鬼だ」という表情を見せる経営者がいらっしゃるのではないでしょうか。

せっかくの話なので、さらにリアリティのある話にしましょう。我々の心には、必ずどこかに「権力に対する欲求」があります。それは企業の経営でも国家の政治でも同じです。経営も政治も、その本質は、基本的には「権力の執行」です。そして、それが権力であるかぎり、それを使うとき、必ず、ある種のエロスが働くのですね。問題は、その権力に処するとき、我々がどのような人間であるべきか、ということです。実は、そこで、経営者や政治家には、「多重人格」が求められるのですね。

最近の「ゲーム理論」においても、明確に語られていることですが、「報復の戦略」というのが、多くの場合、最適の戦略になる。「相手の攻撃に合わせた水準で、反撃をしていく」という戦略です。経営や政治であるかぎり、やはり相手と戦わざるを得ない状況が出てきます。そんなとき、「いやいや人間は慈愛が大切です」とは言っていられない。その現実の問題があるわけです。
ただ、人間の心というものは怖いもので、ひとたび戦いに巻き込まれると、相手が参ったと言っているにも関わらず攻撃を続けてしまうときがあります。そのとき、多重人格の「もうひとりの自分」を持っていることが、非常に重要になってくるのですね。厳しく対処しなければならないときは、厳しく対処するが、決して、感情に流されたり、小さなエゴに動かされたり、状況に巻き込まれたりしない。そのために、自分のなかに様々な自分を育て、状況に応じてそれに対処する自分を切り替えていく。そうした「セルフマネジメント」・・・、私は、「エゴマネジメント」と呼んでいますが、それが非常に大切と思います。

堀:ありがとうございます。ではここで、僕らグロービスが掲げている精神でもある「リーダーシップの育成」という点でもお話を伺ってみたいと思います。どうすれば自らを育成しつつ、多くのリーダーを育成していけるのか。それぞれお聞かせ願えないでしょうか。

「負け戦を経ても壊れないようなメンタリティは欠かせない」(冨山)

冨山:とても難しい質問です。私は再生機構で41人のトップを選びましたが、一般的には、会社のトップを選ぶなんて場面は、一生のうち、そう何度もあることではないですよね。で、41人もトップを選んでいると分かってくるのですが、とにかく惨憺たる感じになります。なかなかうまくいかないんです。

ですから、客観的に数値のようなものを提示して「この人はリーダーに向いているか否か」という話をするのは難しいですね。ただ、それでもあえていくつかの要素を集約しつつ、田坂さんを真似て一つだけを言うなら、それは「意思」という言葉になると思います。

本人が、リーダーになるつもりでやっているのかどうか。意思がなければリーダーになっても意味がないわけで、「なりたい奴にさせたほうが良い」というのが基本かもしれません。ただ、リーダーになりたいという意思をある日突然持ってもダメで、できれば子どもの頃から、そうでなくてもある程度物心がつく年頃からリーダーになるつもりでいないと、難しいかなと思います。それは、道というのは意思があるところに生まれるものだからです。意思がある人は成長過程において必ずリスクをとって何かをやってみる、努力する、そして失敗もするし、今の時代なりの修羅場も見る。殺されてしまうほどのことはなくても、修羅場にはなります。

この「意思」に対し、「育てる」という考え方が入ったときには、私自身の体験では二つの要素が必要になると思います。ひとつは最低限の戦闘能力。それがないと戦場に入った瞬間に殺されてしまいますから。ここにいらっしゃる皆さんは、恐らくその最低限の戦闘力をもともと持っておられたか、運が良かったかで生き残っているのだと思います。でも世の中を見渡すと、意外と多くの人がその手前で殺されてしまっているんですよね。ゲームの世界は結局、殺し合いが本質的なひとつの特性でもありますから、グロービスにおもねるわけではないですが、そこに対する教育は、やはりひとつ、欠かせないと思います。

もうひとつはメンタリティー。スキルを持って戦場に出たからといって、すぐに勝てるわけではなく、しばらくは負け戦が続きます。それは実践的に成長する局面でもありますが、外形的には負け戦になっていると私は思います。先ほど「九死に一生を得た」というような運の強い経営者のお話がありましたが、あれも大局的に見れば負け戦でしょう。そうやって、実社会に出て叩きのめされ、殺されそうになったとき、恐らく誰もが今日のお話にもあったような哲学的自問自答に追い込まれる。皆さんもその経験はあると思います。そして、そこで自分が壊れてしまうとゲームは終わってしまいます。そういう人を何人も見てきました。だから、負け戦を経ても壊れないような何らかのメンタリティは欠かせないと思っています。これは、すごく孤独なゲームですから、教育という点で考えれば全体のコーディネーションが重要になるのではないでしょうか。アメリカのビジネススクールが完全とは思いませんが、彼らにシステムとして比較的、進んでいる部分があるとすれば、そういった点にあるのではないか。もちろん日本は日本なりのモデルを考えればいいわけですから、そこはぜひ堀さんに作っていただくということで(笑)。

堀:ありがとうございます。ポテンシャルのあるリーダーはグロービスで学ぶべしということですね(笑)。田坂さんはいかがでしょうか。

「上からの目線で次の世代を成長させようとしても、真に優れたリーダーは育たない」(田坂)

田坂:これまでの話を受けて、さらにもうひとつ深いレベルで、私の考えを申し上げたいと思います。そもそも、「リーダーの育成」ということについては、経営者の方は、自分のなかに全く矛盾した二つの感覚を持つことが、大切と思います。

それは、どういうことかと言うと、私自身、一人の経営者、マネジャー、リーダーとして、「リーダーの教育」ということを考え、真摯に取り組む一方で、実は、「リーダーは教育できない」という感覚が強くあるからです。
これは、先ほどからの議論を否定する意味ではありません。たしかに、ある種のリーダーは、育成することもできるし、そもそも経営者の役割は「人間の成長を信じる」ところにある。ただ、ここで話しているのは、「次世代のリーダー」ですね。すなわち、この日本という国を本当に素晴らしい国へと導くようなリーダーを、いかにして輩出するかという視点ですね。もしそうであるならば、私が申し上げたいのは、そこには「リーダー育成のマニュアル」は無い、ということです。我々は、その事実を直視しながら、祈るような思いで次の世代に素晴らしいリーダーが育ってくることを願うほかない。もし、そこで、我々にできることがあるとすれば、「次の世代のリーダーの成長を支える」ことだけなのでしょう。

ここで「成長を支える」というのは、決して「教育する」という意味ではない。その本当の意味は、「成長の場を創る」ということです。そこにいるだけで、成長への意欲が高まり、成長が促されていくという場です。しかし、こうした「成長の場」を創るために求められることは、ただ一つです。
その企業なり、組織なり、人間集団の中心にいるリーダー自身が、成長することです。成長し続けることです。そして、成長したいと願い続けることです。もし、その場の中心に、生涯かけてどこまでも成長したいと願っているリーダーがいるならば、そこには黙っていても「成長の場」が生まれてきます。そして、その「成長の場」があれば、次の世代の心ある若い方々は、必ず何かを掴んでくれる。私は、リーダーとして本当に大切なものは、リーダーの「後姿」と「横顔」でしか伝えられないと思っています。口で言われ、耳で聞いたことは、我々自身、あまり覚えていない。皆さんも、ご自身の成長を振り返ったとき浮かんでくるのは、「あの先輩の後姿」や「あの経営者の横顔」ではないでしょうか。

だから、我々が自らに問うべきは、自分がそういった「成長の場」を創れているだろうかということです。上からの目線で次の世代を成長させようとしても、真に優れたリーダーは育ちません。もし、我々が、人間成長という意味での高き山を見上げ、自分自身が誰よりも高い山の頂に登ってみたいと願う。我々リーダーが、そうした願いや思いを持っているならば、必ず、その人間集団のなかから、次の世代の素晴らしいリーダーが生れてくるのだろうと思います。

堀:ありがとうございました。ではここで会場からのご質問を受けたいと思います。

会場:本日はありがとうございました。これは、私が経営とまったく無縁の学術界の人間だから思ったことかもしれませんが、今回のセッションでは、リーダーシップということと経営ということがほぼ同義に語られていたような気がします。これは言葉の遊びに過ぎないかもしれませんが、リーダーと経営者は必ずしも同じではありません。リチャード・ニクソンの著書『指導者とは』には、「指導者とは正しいことをやる人。経営者は正しく物事を進める人。つまり目的とプロセスの違いだ」という言葉がありました。正しいことを正しいプロセスでやることは可能ですからこの二つは矛盾しませんが、しかしながら緊張関係というのは置きうるわけですよね。正しいことをやろうとしたらプロセスがぐちゃぐちゃになってしまうとか、プロセスを全うしようと思ったら目標を曲げないといけないとか。こういう緊張関係をどういう風に考えたら良いかという点で、ご意見をお聞かせ願えないでしょうか。

「日本的リーダーシップ論は、欧米のリーダーシップ論に比べて、極めて成熟した思想」(田坂)

冨山:今の定義でいえば、再生機構にいたときのリーダーは小泉さんで、サブリーダーが竹中さん、経営者が私という形ですね。小泉さん竹中さんとの間に緊張関係が起きたことは、皆無ではないにせよそれほどはありませんでした。当時の自民全体とは緊張関係がいっぱい起きていましたが(会場笑)。

結局のところ、矛盾がおきたときに正反合をaufheben(高次元統合)するのがリーダーシップであると私は考えます。その意味ではダイエーはまさにそのパターンでしたし、日本航空ではそれができていないということだと思います。ゴールとプロセスのぶつかり合いや解けない矛盾のなかで、最終的にどうやって落ち着かせるかという段階になったとき、最悪なのはその正反合から逃げることです。そこと向き合うのは一番、大きな権力を持った人の責任である。逆に、今の日本は偉い人が逃げまくっているからこんな状況になってしまっているとも言えます。正反合をやれば何らかの理不尽が起きるし、必ず「口にしたことと違うだろう」と言われ、怨嗟が巻き起こります。それを最終的に背負えるのが最高権力者なんだろうと、あのときの私は思っていました。

当時、再生機構の株主は政府であり、政府の最高権力者は小泉さんでした。ですからご質問にあった最後の集約というのは、結局のところ、私というより、最高権力者であった小泉さんの仕事です。恐らく最高権力者がaufhebenをしていく局面で、結局はその人の歴史観や人生観、あるいは哲学が関わっていくんだろうと思います。その後姿が見えているようなリーダーと仕事をしているときは、こちらもある意味で腹が括れますね。それが匂うか否かというのは大変クリティカルな問題で、リーダーはそれが匂っていなければダメだと思います。「殺されてもいいから俺はやるんだ」という本気度が匂い立っていない限り、「この人と一緒にやっていると危ないのではないか」と思ってしまいますから。

堀:なるほど。ちなみに英語ではリーダーとマネジャーが根本的に違いますから、リーダーを指導者、マネジャーを経営者と訳すのは少し違うかもしれませんね。

田坂:リーダーとマネジャーという言葉の使い分けは、極めて欧米的な考え方ですね。それに対して、私はここまで、極めて東洋的な観点から話をさせて頂いていきました。すなわち、私が述べてきたのは、東洋的リーダー像であり、日本的リーダー像についてなのですね。

欧米の考え方は基本的に、すべてが「機械論」なのですね。まず「目的」があり、それをどうやって「達成」するかという発想です。すなわち、「目的」と「プロセス」を分けてしまうのですね。しかし、東洋的な思想では、基本的に、「目的」と「プロセス」が渾然一体となっている。
例えば、「求道」という言葉一つをとっても、日本においては、「求道、これ道なり」という考え方が語られます。すなわち、道を求めて歩み続け、歩み続け、その道を得ることなく終わろうとする人物に対して語られる言葉ですね。「あなたが道を求めて歩んできた姿そのものが、すでに道を得ているではないか」と。私は、こういう深い思想をこそ、これから世界に伝えていくべきだと思っています。日本の深い精神、思想、文化に根ざした新しいリーダー論が出てきてしかるべき時代だと思うのです。

では、日本的リーダー像とは、いかなるものか。それは、決して、愚かな民を導くという意味での指導者ではない。それは、かつて親鸞が、浄土真宗の信徒に対して「ご同行」(どうぎょう)と呼びかけたように、人間成長という山の頂きに向かって、多くの人々とともに一筋の道を登っていく人物像でしょう。だから、同じ道を行く人、ご同行なのでしょう。
そして、日本には、リーダーシップについて、もう一つ名言があります。「千人の頭(かしら)となる人物は、千人に頭(こうべ)を垂れることができなければならぬ」という言葉です。こうした日本的リーダーシップ論は、欧米のリーダーシップ論に比べて、極めて成熟した思想であるといえます。
そして、こうした日本的リーダー像は、一国における最高の政治的指導者にも求められるべきでしょう。本当に優れた政治とは、その政治によって、色々な良い政策が実現されるだけでなく、何よりも、国民の意識や自覚が高まり、自立心が芽生え、多くの国民が精神的に成長し、成熟していく政治だと思うのです。その意味で、いま、人類社会は、リーダーシップそのものの在り方を、根本から見直すべき時期に来ているのですね。

もとより、世界の現実を見つめるならば、現実的なタクティクスとして西洋的なリーダー像をめざすときもあると思いますが、我々が遥か彼方に見つめ、登っていこうとしている頂だけは、決して見失うべきではないと思います。
ここで述べた日本的リーダーシップや東洋的リーダーシップが世界に広がっていくのは、遠い先のことかもしれません。しかし、私は、そうした成熟したリーダーシップ像が、いつの日か、世界全体の共通認識になっていくと思っています。

堀:グロービスでは陽明学を学ぶ機会も設けているんです。そこで例えば知行合一ということについて皆で考えます。陽明学は龍馬や西郷が学んだ学問でもありますから入り込みやすいし、宗教ではないから学びやすいという面もあるんです。そういったものを学んでいくなかで、皆が東洋的な思想に基づいた成長を遂げていくこともできるんじゃないかと思っています。

最後にお二人には「私たちの世代にできること」を伺ってみたいと思います。今後、少なくとも10年は人口減少が続き、財政も破綻に近づき、そのなかで構造改革も進まないという閉塞感がさらに蔓延していく。そこに対して私たち自身が何らかの働きかけをしない限りは恐らく日本は変わらない。誰かがやらなければいけないのなら、たとえ恨みを買うことになったとしても僕らの世代で社会を変革していきたい。そこに対し、一言ずついただいて、本日のセッションを終わりたいと思います。

「我々が、命を与えられ、生まれてきたからには、そこには、必ず、深い意味がある」(田坂)

冨山:私としては、企業にせよ社会にせよ、変えていかなければならないという状況に直面しているのであれば、その変えていく対象、つまり人間集団についてもう一度きちんと洞察したほうがいいと感じています。さきほどの田坂さんのお話と少し重なりますね。これは株主や完全債権者といった会社の圧倒的な支配者になってみないとよく分からないことですが、日本の平均的な日本人が集まる平均的な日本企業をお金のメカニズムで動かすというのは、実は大変効率が悪い。そこには恐らく、田坂さんのお話が背景にあるのだと思います。

それを変質させろというのは、はっきり言って余計なお世話ですよね。皆がお金を好きになる必要はないわけですから。どのみち、それをやろうとしても百年かかる。カネボウの人間を経済的インセンティブで動かそうと考えるぐらいなら、全員入れ替えたほうが早いでしょう。恐らくそういう視点から見ても、日本はやはり東洋ですし、東洋の中でも日本なんです。言霊というのは“やまとことば”の世界だと思いますが、そんな日本の企業に語りかけるとき、絶対に使ってはいけないのがアルファベットと漢字熟語。やまとことばじゃないと効かない。これは本当にそうなんです。

そこがまさに相手に対する洞察ということなんですが、例えば同じ化粧品メーカーでも、カネボウの方々は典型的な日本人集団。でも、たとえばエスティローダーにいる人たちはまったく異なるんです。そこでのかかわり方、かかわられ方。社会を変革していくとか、社会に働きかけるというのは、結局は人間同士で働きかけを行うということですよね。そのとき、そこにいる人間集団がどのような倫理観、歴史、伝統を持っているかということへの洞察が弱いと、いくら欧米的革命の方法論を持ってきてもワークしません。今なされている多くの議論には、その部分の洞察や想像力が足りていないと私自身は感じています。

さらにその観点でちょっと極端なことを言わせてください。私自身の今の世の中に対する気分としては、閉塞感を切り開くという意味では、まだ機は熟していない感じがしています。危機感というか、少なくとも19世紀の半ばから後半にかけて社会に溜まっていたであろうエネルギーレベルに近いところには達していない。そういったエネルギーが充満していなくても予防的にどうこうしようというのなら、それはインテリとしては正しい議論でしょうけれど、それは私は、下手をすると大塩平八郎の乱になってしまうと思っていて・・・。そこで死にたくはないので(会場笑)、やはり、ある程度は時を待ったほうが良いと思っています。ですから皆さん、そのときに備えて、死なないようにしていてください(笑)。

堀:ありがとうございます。田坂さんはいかがですか?

田坂:我々が、まず腹を定めなければならないのは、我々は、次の世代に対して何を語るべきか、ということです。たしかに、これからの時代は、数多くの困難が待ち受けています。地球環境問題や世界経済危機はもとより、地域紛争やテロの頻発、パンデミック、貧富の格差拡大など、多くの困難な課題が待ち受けています。
そうした状況において、我々は、次の世代に対して、「君たちは、苦労の多い、大変な時代に生まれてきた」と語るべきなのでしょうか。
私は、そうではないと思うのです。我々が語るべきは、まったく逆のことではないか。もとより、これは我々が腹を据えて語らなければ決して伝わらない言葉だと思いますが、本当は、この言葉を、心を込めて、次の世代の人々に贈ってあげたい。
「おめでとう。大変な時代がやってくる。しかし、その大変な時代だからこそ、君たちは成長できる。人間として最高の成長を遂げていくことができる。おめでとう」。そのことを、心を込め、伝えてあげたいのです。

そうではないでしょうか。これから次の世代が直面するのは、我々の世代が残してしまった数々の「負の遺産」です。それを残しておきながら、次の世代の人々に対して、「君たちは、気の毒だ」などと、決して語るべきではない。次の世代が生まれてきたことの意味を、我々の世代が、誰よりも深く理解し、見つめるべきではないのか。

我々は、何のために生まれてきたのか。我々が、命を与えられ、生まれてきたからには、そこには、必ず、深い意味がある。大切な使命がある。そのことをこそ、見つめるべきでしょう。
そうした視点から見つめるならば、次の世代には、大きな使命があることがわかる。
だから、彼らに、こう語ってあげたい。
「たしかに、これから大変な時代がやってくる。けれども、これからの苦労と困難に満ちた時代を超え、人類は大きな成長と進化を遂げていくだろう。新たな時代を切り拓いていくだろう。そして、その新たな時代の扉を開くのは、君たちだ。だから、誇りを抱き、胸を張り、未来に向かって歩んで欲しい。そして、君たちは、その歩みを通じて、一人の人間として、大きく成長していくだろう。このたった一度かぎりの人生を、最高の人生として歩んでいくだろう。我々は、魂ひとつ持って、この世にやってきて、魂ひとつ持って、この世を去っていく。その魂の成長を求め、これからの困難な時代を、勇気を持って歩んでほしい」
私は、次の世代に、そんなメッセージを伝えられるようなリーダーでありたいと、思っています。

堀:いまの田坂さんのお話を聞き、なぜ僕がいまワクワクしているのかが分かりました。この時代は面白いじゃないですか、と。この大変な時代に、面白いことをやってやろうと考えてワクワクしているんですね、僕らは。

冷静に力を蓄えつつ、確実に社会を変革していきたいと思います。本日は本当にありがとうございました。それでは皆さん、本セッションの終了にあたり、盛大な拍手をお願いいたします。

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