田坂広志氏 −「深みのある人生を送るために」(後編) 

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答えのない問いを問い続ける

会場:私はカナダのトロントに在住しています。今日ここで学んだことを、カナダの人々にいろいろ伝えたいと思っていています。どのように現場で伝えていったらいいでしょうか。

田坂:有り難うございます。そのお気持ちは本当に有り難いことと思います。ただ、一つ大切なことを申し上げるならば、「思想」というものは、「思想」として語って伝わることはないのですね。「思想」というものがもし説得力を持って伝わるとすれば、それを語る人間が、その思想を「実践」しているときだけです。ですから、どれほど大切なことを語っても、もしそれが、単なる「知識」としての言葉として聞こえるならば、その言葉は、あまり説得力を持ちません。

その意味において、仮に私の著書や講演にどれほど感動して頂いたとしても、それを単に語るだけでは、決して相手の方に伝わらないと思います。そもそも言葉を語るとき、我々が心に刻んでおくべき心得があります。それは、「何を語るか、よりも大切なことがある。誰が語るかである」という心得です。この言葉は、私自身も謙虚に受け止めるべき重い言葉ですが、それは真実だと思います。例えば、私がどれほどサルトルやマルクスの素晴らしい言葉に感動して、それを語っても、やはり私に人間としての力量がなければ伝わりません。従って、大切なことは、ご自身が、語ろうとする思想を、どう実践されているかということなのですね。

もちろん、質問者の方が仕事をされている現場を詳しく存じ上げているわけではないので、一般論としてしか申し上げられないのですが、まず最初に始められるべきは、ご自身の職場で、「仕事の報酬とは何か、なぜ我々は働くのか」ということを、周りの方々と深く議論してみることだと思います。それも、抽象的な議論ではなくて、それを具体的に実践するという意味での議論です。

もし私の言葉にささやかながら説得力が生まれるとすれば、私はボランタリー経済も語りますが、同時に、職場の仲間に、志も語ります。「なぜ我々は働いているのか」「何をめざして働いているのか」と。それは単に生活を支えるためだけではない。我々は、このささやかな人生を通じて、何を実現しようとしているのか。それを語ります。それを、ときに「夢」と呼び、ときに「志」と呼ぶ。言葉は何であっても良いのですが、そういうことを、まず目の前の現場で、職場で始められてはいかがでしょうか。

会場:我々は「検索する」行為が日常で当たり前になったことによって、答えはすぐ見つかるものだと感じてしまうような気がします。若い時に「仕事の報酬は仕事だ」と上司から言われたことがあり、答えに辿り着くプロセス自体が楽しくて、それに価値があるということは、薄々分かっているんですが、それでもやはり、仕事のスピードが速いから焦りもあり、すぐ答えを求めたがる欲求が、自分の中から捨てられない。その欲求とどう向きあえばいいでしょうか。

田坂:まず、二つの言葉の意味を、明確に使い分けて理解するべきでしょう。「知性」とは何か、そして「知能」とは何か。この二つの言葉は、実は、まったく対極にある人間の能力なのですね。

「知能」とは、知能検査というものに象徴されるように、「答えのある問題」を与えられたとき、その問題にいかに早く正確に答えられるかという能力のことです。たしかに我々は、「答えのある問題」を与えられたとき、その答えに辿り着くときに喜びを感じるのは事実なのですが、実は、我々の人生においては、「答えのある問題」のほうが少ないのですね。「答えのある問題」だけでマネジメントができるならは、それほど楽なことはない。一冊のマニュアルをしっかりと覚えれば、マネジメントできるということですから。

例えば、一人の部下に対して、彼をあともう一年、自分の下で働いてもうらおうか。もしくは、別の部署に移り、新たな勉強をしてもらおうかと考える。そのどちらが、その部下にとって良いのか、その問いには、明確な答えがないのですね。彼にとって、本当はどちらが幸せなのだろうか。彼の能力は、どちらの部署で花開くのだろうか、と真剣に考え始めたならば、実は、夜も寝られなくなるような話なのですね。人生とは、こういう「答えのない問い」に満ち溢れている。

そして「知性」とは、まさに、この「答えのない問い」に処する力。「答えのない問い」を問う力、問い続ける力のことなのですね。生涯問うてもその答えなど得られぬと分かっていて、それでもなお、問い続ける力のことなのですね。これを私は敢えて、「魂の力」と呼びたいと思います。その意味において、現代の社会は、その「魂の力」が弱まっているのです。ですから、「答えのない問い」を問うことをしない。「答えのある問い」は、それに答えられると、心の中の小さな満たされ、喜ぶのですが、少し深くマネジメントの世界、ビジネスの世界に入っていくと、「答えのない問い」がほとんどです。そこで、我々は壁に突き当たってしまう。ですから、この瞬間に、まず腹を据えることですね。「答えのない問い」に正対し、生涯問い続けてみようと腹を据えることです。「人間の成長とは何か」「幸せとは何か」「人の出会いとは何か」「人生において与えられる困難や苦労とは何か」。そうした「答えのない問い」に、深く目を向けて考え続けることです。その「魂の力」を持たないかぎり、我々の人生は、「深みある人生」にはならないのですね。

これは実は、質問された方が、すでに気がつかれていることなのですが、質問された方の心の中に、「田坂さんに聞くと、何か答えてもらえそうだ」という気持ちが働いていますね。だから、「敵は我にあり」なのです。もとより、何かのささやかなヒントになる話はさせて頂きたいと思いますが、いずれ、「答え」はご自身で掴むしかない。いかに私が説得力ある、何かの「答えらしきもの」を語っても、ご自身が体験の中で掴んだ「答え」でなければ、その思想は、力を持ちません。

人生においては、先達が語っていたことと、結局同じ結論に達するということが、しばしば起こります。しかし、それでよい。自分の人生の体験と失敗を通じて、その結論に達したということ。そのことにこそ、価値があるのですね。そのときに、「ああ、先輩の言っていたことを、素直に聞いていれば良かった」と悔いてみても、意味はない。言葉にすれば同じ真実かもしれないが、自分の人生の体験を通じて、その真実に辿り着く。そのことの重さ、意味、価値に気がつくべきです。そして、その意味において、我々は、「答えのない問い」を問い続ける力を深めていかなければならないのでしょう。

一人の中に多様な人格を持つマルチパーソナリティの時代

会場:私は二つの仕事を掛け持ちしております。一つはインターネットのWebマーケティングのコンサルティング。これは数字が目に見えて、結果として表れてくる世界で、一緒に働く職場の仲間も、論理的で男性が多い社会です。もう一つは、結婚・恋愛の相談を受けるカウンセリング。そちらは女性がほとんどで、結果が目には見えない。何かを感じ取って、そもそもこれで良かったのかどうなのか、その判断がなかなか難しい。ただその中で、いま言ったような数字で目に見える世界と、目に見えない感情の世界、ついついその二つを、どちらかに答えを求めてしまう。でも実際は、永遠に答えが出ない。その矛盾を感じながら、日々仕事をしています。この答えを求めているわけではないのですが、何かご経験の中から一つでもお言葉を頂戴できればと思います。

田坂:私が最初に申し上げたいのは、ご質問者の方は、素晴らしい立場にいらっしゃるということですね。なぜなら、これは小生の著書、『未来を予見する5つの法則』の中に書いたことですが、これからの時代は、「マルチパーソナリティの時代」になっていくからです。

これまで、我々は、一つのペルソナ(仮面)で生きてきました。例えば、ある企業に就職し、定年退職までの何十年、一つの職場、一つの職業で仕事をするという方が、数多くいました。その結果、それがメーカーのエンジニアの世界であれば、そのメーカーの文化、エンジニアの職場の雰囲気ので、無意識に、ずっと「一つのペルソナ」で生きていくことになるわけです。もしそれが、「男性社会」的な職場なら、私も、その「男性社会的な雰囲気」に合わせ、それでずっと生きていくことになります。それが、これまでの社会の在り方でした。

しかし、人材流動化が進み、一人の人間が生涯を通じて、いくつもの企業、いくつもの職場で働くようになる。余暇時間も増え、仕事以外に趣味を持ち、NPOなどの活動に参加する人も増える。また、インターネット革命の結果、我々は容易に、様々なコミュニティに参加し、様々な活動に取り組むことができるようになった。その結果、我々は、無意識に、いくつもの人格、パーソナリティを使い分けて生きていくようになります。言葉を換えれば、我々は「何人もの自分」を生きられる時代になったのです。

これまでの時代は、自分の中に色々な人格の自分がいながら、同じ会社、同じ職場で一つのペルソナを被り、一つの人格を演じるようになると、それ以外の人格は、その大半を抑圧していました。そのペルソナ以外の他の人格が表に出てくるのは、家に帰って子どもを抱くときに「子煩悩な父親」としての姿が出てきたり、高校の同窓会で「昔の楽しいあいつ」になるということもありますが、せいぜいそれくらいでした。

しかし、これからの時代は、かなり違ってきます。皆さんの中には「マルチハット」(MultiHut)の方が沢山いらっしゃるのではないですか。最近では、「職業は?」と聞かれて、名刺を何枚も出す方がいらっしゃいます。「昼は、あるメーカーに勤めていますが、週末はNPOで活動しています。そして、趣味でカメラをやっていますので、夜は、自分の写真ギャラリー・サイトを創っています」などといった方が増えています。これが「マルチハット」(いくつもの帽子を被る人)と呼ばれる人ですね。

実は、これは、弁証法の法則「螺旋的発展」が起こっているのですね。古く懐かしいものが、新たな価値を伴って復活してくる、という法則です。私はしばらく前に、『Voice』という雑誌に論文を書きました。「ダヴィンチ社会」についての論文です。かつては、レオナルド・ダヴィンチのように、いくつもの分野に才能を発揮する人は結構いたのですね。それが、分業化と専門化の時代において、消えていった。しかし、懐かしい「ダヴィンチ社会」が、もう一度戻ってきたのです。もちろん、ダヴィンチほどの天才ではないにしても、様々な分野で才能を開花させ、発揮する人が増えているのです。我々は、自分の中に眠っている様々な才能を開花させ、様々な人格を生きることのできる時代を迎えているのです。

ですから、質問者の方は、コンサルティングの世界で、一つの才能と人格が開花されていくと同時に、カウンセリングの世界でもまた、別の才能と人格が開花していくのかと思います。ですから私は、それを、「素晴らしい立場」にいらっしゃると申し上げたのです。

そして、この「自分の中のいくつもの人格」の存在を理解することができるならば、現代においてよく使われる一つの大切な言葉が、なぜ、実践できないのか、その理由も理解できるでしょう。それは、「多様な価値観の尊重」や「多元主義」という言葉です。すなわち、現代においては、国連に行っても、世界中の国際会議に行っても、どこに行っても、「これからは多様性が大切だ」と語り、「多様な価値観の共生が大切だ」と語っています。そのことに反対する識者は、まずいません。では、なぜ、現実に「多様な価値観の共生」が起こらないのはなぜか。
それは、我々の一人ひとりの中に、「多様な価値観の共生」が起こっていないからです。

自分の心の中で、「これは本当の自分」「これは偽物の自分」というように区別を持ちこみ、好きではない人格については、それを抑圧し、受け容れなければ、個人の中において「多様な価値観の共生」は実現できません。そして、個人において実演できなければ、社会においても、それは実現できない。本当に「多様性を受け容れる社会」を実現したいのであれば、実は、我々一人ひとりの個人が、自分の中の「多様性」を受け容れていかなければならない。東洋思想は、昔から、自分の中に多様な自分がいるということを、教えています。東洋思想では、「自分の中に悪魔がいる」といった形で、単純な二分法で人間を見ないのです。

たしかに、「多様な自分」を生きるということは、ある意味で苦しいことですね。しかし、それは、とても豊かな生き方ではないでしょうか。苦しいことも含めて、それを楽しまれたらよいかと思います。

会場:田坂さんがおっしゃった知能と知性について。知能は、勉強したり本を読んだりして身につくと思いますが、知性のほうは、どのようにして身につけたり磨くことができるのでしょうか。実際に田坂さんはどういうことをして、ご自身が持っている知性を磨いてきたのでしょうか。

田坂:まず、我々が理解すべきことがあります。人生においては、「それを目的として身につけられるもの」と、「結果として身につくもの」があります。例えば、自動車の運転は、それを目的として身につけることができます。しかし、知性とは、それを目的として身につけることはできないと思います。そして、「結果としてしか身につかないものを、目的にしてしまう」。それが「現代の病」と思います。質問者の方には恐縮ですが、「知性を、どのようにして身につけたらよいのか」という問題の立て方そのものが、何かの落とし穴に入っているのだと思うのです。

これは、非常に大切なことを申し上げているのです。例えば、「幸せ」という言葉もそうですね。どうしたら幸せになれるかと考えたときは、あまり幸せにはなっていません。例えば、何かのときに、「ああ、有り難いなあ」と思ったとき、それは、結果として「幸せな状態」ですね。これを少しシンプルに申し上げるならば、もし我々が「幸せな状態」になりたいのであれば、むしろ「感謝する」ということを覚えることが最も正しい方法なのかもしれません。

私に知性があるかどうかは、私自身、謙虚に考えるべきことですが、もし仮に、私に「答えのない問いを問い続ける力」という意味における知性があるとすれば、実は、私は「知性を磨きたい」と思ったことは、一度もありません。敢えて申し上げれば、心の中に「永遠の問い」を抱くことが大切であると思っています。「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉がありますが、私にも、生涯をかけて問うてみたい言葉があります。例えば、「私とは、何か」「他者を愛するとは何か」、そして、「なぜ、この宇宙は、137億年前に、生まれたのか」「その137億年の悠久の時間の流れの中で、なぜ、我々人類が生まれたのか」。そうした問いです。そうした「永遠の問い」と呼ぶべきものを、まさに自分自身の人生の最も深い問いとして、抱きながら歩むということが、大切なことと思います。

従って、これは、究極、「感性」の問題になってきます。例えば、素晴らしい夕日が沈むのを見るとき、人間というのは、不思議なほど、分かれてしまいます。「いい夕日ですね」と言った瞬間に、深い共感とともに、「ああ、そうですね」と応える人もいれば、何の感慨も持たず、「おお、そういえば真っ赤ですね」で終わる人もいます。これは、やはり、人間の「感性」の問題だと思うのです。
ただ、敢えて申し上げるならば、我々は、長くても100年の人生、一瞬の人生を駆け抜けていくのですね。では、なぜ自分は、この世界に命を与えられたのだろうかと考えるならば、それは、「答えの無い問い」、「永遠の問い」ですね。そして、それは、奇跡とも思える出来事です。この奇跡のごとき出来事に対する不思議さ。レイチェル・カーソンの言葉を借りれば、“TheSenseofWonder”。それを深く心に抱かれるならば、結果として、そこには、「知性」と呼ばれるものが生まれてくるのだろうと思うのです。

ぜひ、この「永遠の問い」を、心の中で大切にして頂きたい。それは、もし我々が、自分の人生を真摯に深く見つめるならば、おのずとそこに生みだされるものだと思います。ただ、私自身がその「永遠の問い」に直面したのは、実は、人生の中で、生きるか死ぬかの体験をしたときです。私は、自分の命は長くないという極限の状況に置かれたとき、おのずと深い問いが、心の奥から生まれてきたのです。そして、いつ自分の命が終わるとしても、この問いを、命尽きるその瞬間まで問い続けてみようという覚悟が、定まったのです。
そのことを、最後に申し上げたいと思います。

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