「グローバル」 日本人が世界で戦うために必要なもの 

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「海外に出て働くことがグローバルリーダーになることではない。世界規模でみて競争力のあるプロになることが重要なのだ」。あすか会議2007「グローバル」セッションでは、国や文化、言葉の違いを超えて活躍する3人が、それぞれにグローバルリーダーの要諦を語った。

夫の海外勤務を契機に英国でMBAを習得

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本日のファシリテーターを務める昆政彦です。GE、ファーストリテイリングなどを経て、現在は住友スリーエムの執行役員をしています。グロービスでは2002年から教鞭をとっています。本日は、日米の企業文化を様々な形で経験してきた視点を活かしながら、三方のお話を引き出していきたいと思っています。まずは自己紹介から。

水野:コラーキャピタルという英国のPEファンドに務めています。1990年に立ち上げられた、グローバルに展開するファンドで、円換算で1兆円規模の資金を投資、運用しています。著名なところでは、ルーセント・テクノロジーのベル研究所を保有するほか、今年4月にはロイヤル・ダッチ・シェル所有の研究所も、同社とのジョイント・ベンチャーを立ち上げ折半で持っています。社員数は現在120名。ロンドン、ニューヨークを拠点に、私はアジア、米国シリコンバレーを担当しています。12名いる経営会議のメンバー(パートナー)の1人です。

コラーキャピタルに移る前は、大学卒業後の15年を日本の信託銀行で勤務しました。コラーキャピタルには、5年前、(信託銀行の)ニューヨーク支社にいるときに転職しました。

水野さんはノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院のMBAを取得されています。続けて宮森さん、自己紹介をお願いします。

宮森:宮森です。日本ゼネラル・エレクトリック取締役広報・渉外統括本部長を務めています。国内外に関わらず、ビジネスをしていくうえで自分の名前を覚えてもらうことは非常に重要ですが、その点で私はとても得をしています。イタリア語のI LOVE YOUにあたる、ミ・アモーレ(Meu Amore)。この音の響きが、苗字の宮森に似ているということを説明すると、皆、喜んで覚えてくれます。

在籍しているゼネラル・エレクトリック(以下、GE)は、ご存じのとおり、発明家のトーマス・エジソンが立ち上げた米国の会社です。世界100カ国以上に展開し、収益の半分は米国外から得ています。従業員数は全世界で30万人を超えます。現在、経営権を握るのはジェフ・イメルト会長兼CEOですが、残念ながら日本ではまだ、前職ジャック・ウェルチの方が著名であり、広報を担当する者としてイメルトの存在感を高める方策を日々、検討しているところです。

GEの広報をしていて難しさを感じるのは、コングロマリットであるがゆえに、「会社の名は有名だが、実際に何をしているのかという事業概要が見えづらい」との印象をメディアの方がお持ちであるという点です。GEには、インフラストラクチャー、コマーシャル・ファイナンス、インダストリアル、ヘルスケア、NBCユニバーサル、GEマネーの、大別して6つの事業部門があります。インフラストラクチャーと呼ぶのは水や電力の供給事業。近い将来、水は石油のような価値を持ち始めるといわれており、これに先んじて海水を淡水化するプラントや汚水処理の設備を保有しています。また、原子力、風力発電、ガスタービンなど、世界的なインフラとしての電力供給システムも保有し、この部門の売上が急速に伸びています。このほか、法人金融部門(ファイナンス)、消費者金融部門(GEマネー)、GEの興りとなった冷蔵庫の事業などを包含するインダストリアル、そして米国3大ネットワークの一つであるNBCと映画などのエンターテインメント事業を展開するユニバーサルを束ねたNBCユニバーサルなど、世界でもこれだけの幅広い事業を持つコングロマリットは珍しいのではないかと思っています。

現在、中国やインド、中東など新興国の伸びが大きいため、目立たない存在となっている感は否めませんが、GEにとって日本は今もって大切な市場です。イギリスに次いで第3位となる8000億円の売り上げを創出し、大きな利益貢献もしています。

私個人について話を移しますと、GEへの入社は2006年12月で、それまでは長く日本ヒューレット・パッカードに務めていました。マーケティング、コミュニケーション、広報などを担当し、本日同席さえていただいている(リヴァンプの)浜田(宏)さんが、大ライバル会社(デル・コンピュータ)の社長でした。

ヒューレット・パッカードは、とても良い会社で、ライフステージに合わせた様々な機会を提供してくれました。例えば、私が海外に出たのは自分自身の希望ではなく、夫の英国転勤がきっかけでした。退職してMBAを取ろうと考えていましたが、当時の上司が「休職にしなさい」と言ってくれました。自費留学で海外に行く休職制度を利用することができたのです。さらに、MBA取得後も夫の駐在期間が残っていることに配慮して、英ヒューレット・パッカード社への転籍の便宜も図ってくださり、そこで欧州、アジア地域をとりまとめてのEメールマーケティングの立ち上げプロジェクトのリーダーもやらせてもらいました。ヒューレット・パッカードという会社にいたおかげで、様々な文化、人と触れる機会を得ましたし、グローバル企業に働くベネフィットも存分に享受してきたと思っています。

円高不況を期に“国際派サラリーマン”の道に

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浜田:お二人の格調高いプレゼンテーションと比べると、何やら気恥ずかしいのですが、簡単な自分史を自分で作ってみました。

(学生時代の写真を見せながら)ああいう、どうしようもない学生でした。教師の家庭に育ち、周囲にいわゆるサラリーマンがいなかったので、「国際派のサラリーマンって格好いいなぁ」と漠然とした憧れを抱いていました。アタッシェケースを片手にスーツ姿でジェット機のタラップを降りてくるイメージ(笑)。そうした憧れを小学校時代から抱き続け、そうは言いながら学生時代はダイビングに興じたりしていたわけです。そして、大学卒業時、「やっぱり男はグローバルだぜ」と、わけのわからないことを思い、海運会社への就職を選択しました。海外勤務が多く、しかも、どこに転勤しても海のそばには違いない。それならダイビングもできる、という非常に短絡的な発想です。

しかし、そんな中、1985年ごろに円高不況に突入し、鉄鋼、造船、海運などは完全に爆死状態となりました。私が就職した会社も、経営者が再生を放棄してしまい、「若い社員は早く去った方がいい」などと、公言する状態。大規模なリストラも始まり、「一部上場とか、80年の歴史などというものは、何の力にもならない。大競争時代が始まるのだ」「会社に頼るのではなく、外で勝負して、一人で生きられる男になろう」と、思わされました。ただ、残念ながら当時の私は、バカだったんですね(会場笑)。頭は悪いし、知恵もない。ただ、体力はあって、「やる」と決めたら死に物狂いでやる男ではあった。そこで、たまたま良縁のあった会社に1987年に転職しました。それで3年間、一所懸命に働いてお金を貯めて、勉強もして、アリゾナにあるサンダーバード国際経営大学院にMBA留学したのです。

そこで初めて、本当に初めて、財務諸表というものを見ました。砂地が水を吸い取るように、などというと格好いいが、30歳を過ぎて初めて真人間になれたと思った。留学中は、日本人同士で群れることはせず、様々な国の学生と関わるよう意識していました。ニュージーランドやパナマの出身者と一緒に住んで、エアコンの調節一つをとっても、パナマ人が「寒い」と言えば、私が「暑い」といって争うような楽しい生活。ジャパンクラブという、学内では最も大きな同好会の会長も務め、アジア文化の紹介などもしました。

卒業後は米国内で職を探し、シリコンバレーの中堅コンサルティング会社に就職しました。幸か不幸か当時の日本はバブル経済が崩壊して魅力的な職がなかったこと、それ以上に、せっかく全てを捨てて(社費留学などで会社に縛られることなく)米国に来たのだから、残ったほうが面白い、と考えたのです。

この会社では、グローバル企業が、どのようにして現地法人を定着させるべきか。例えば米国企業が日本に進出する際、いかにして組織文化を融合していくかという、コンサルテーションやトレーニングなどを手がけました。そのクライアントの一つとして出会ったのが、デル・コンピュータの幹部だったのです。当時、同社は日本でのビジネスが上手くいかずに苦戦を強いられていました。ビジネスモデルや組織文化が移植できないどころか、満足にコミュニケーションもとれない酷いあり様で、カリフォルニア、テキサス、日本を飛び回り、悪戦苦闘するうち、何とか浮上してきた。そこで「社員にならないか」という申し出があり、1995年に移籍しました。

営業部隊の立ち上げや、人事部、アフターサポートの作り込みなど、様々な役割を果たし、「さすがに、そろそろやることがなくなったな」と思っていたら、社長に呼ばれ、「ここに移って来い」と言われました。「お前は、もう自分の秘書と仕事はできないんだからな。この部屋に入るんだ。分かったな」と言われ、何を言っているんだ、「I don’t understand」と言ったら、「まだ分からないのか、本当にお前は頭が悪いな。ここは社長室だ」と(会場笑)。

社長になってからは、ダイレクトマーケティングのモデルを構築し、とにかく、ひたすら売りました。毎日のように、海外拠点数十カ国とテレビ会議を行い、ベストプラクティスを共有。ビジネスモデルを精査しました。(デルのダイレクトマーケティングモデルは)誰か一人が作り出したものではなく、世界の数万の社員が汗水を垂らし、議論して、改良に改良を重ねたものなのです。幸い、業績は大きく伸長しました。同時に、私にとってはマイケル・デルという稀代の天才と共に働けたのは幸せなことでした。大学の寮で、たった10万円から始めたビジネスが、M&Aなどは一切せずに20年間で4兆円規模になった。これは、経済市場最速の成長といわれています。

さて、社長に就任してから6年、業績は伸び、同時に自分自身としては、ある種、「やりきった」という感がありました。同時に、世の中の流れに目を向けると、産業再生機構がダイエーやカネボウなど、かつての大企業の変革に入るなど、第二創業のうねりが強く感じられる。自分自身のこれまでの経験が、どこまで通用するかは分かりませんでしたが、全てリセットしてでも事業再生の世界に入っていきたいと思いました。それで、昔から知己のあった澤田(貴司・氏)、玉塚(元一・氏)が立ち上げたリヴァンプに、3人目の代表パートナーとして参画したのです。現在は、グローバルとは全く離れたところで、中堅・中小企業の再生や新規事業などのお手伝いなどをしています。

仕事を捨て、貯金を投じてまで、日本を飛び出し、海外に向かわれたわけですが、何がそこまで浜田さんを駆り立てたのですか。

浜田:ずっと、“くたびれたサラリーマン”には、なりたくないなと思っていました。平日は酔っ払って管を巻いて、休日は家でゴロゴロしているような。でも、大企業というぬるま湯に浸かり続けると、そういうことを深く、考えなくなってしまう。小学生のとき思い描いていた“国際派のサラリーマン”像から、自分自身の姿がどんどん外れていって、「どこの国でも一人で生きて行かれる男にならなければ」という思いが、沸々と頭をもたげ、それと時を同じくして会社が傾き始めました。周囲が崩れたので、目覚めることができたのです。そうでなかったら今ごろは、自分が最も忌み嫌っていた“くたびれたサラリーマン”になって、二日酔いで寝ていたかもしれません。

コントロールできないと感じることがストレスになる

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水野さんの場合は、何がきっかけになったのですか。

水野:私は、「海外で活躍したい」というビジョンがあったわけではないんです。英会話の勉強も一切、したことはなかったし、きっかけはもっと、受動的なものでした。

信託銀行では最初、営業を担当したのですが、これがなぜか、うまくいってしまった。そうこうするうちに、「将来の営業の中心人物に」などと言われるようになってしまい、「営業がやりたくて入ったわけではない」「何とか抜け出したい」と思うようになりました。けれど、上司が放してくれない。そんなある日、海外トレイニーの社内公募の知らせを目にしたんです。応募の宛先は、人事部長親展。「これなら、上司に断ることなく、外に出られる」と、応募しました。「海外に行きたい」というより、「もう少しプロフェッショナルな仕事をしたい」という動機だったのです。たまたま、その手段が海外にあった、というだけで。

当時26歳。外国人と英語を話すのも、それが初めてのことで、そのときは、まさか自分が今あるような人生を歩むことになるとは想像もしていませんでした。

振り返って感じるのは、仮に最初に入社したのが世界的に競争力のある分野の会社だったら転職はしなかったのではないか、ということです。というのも、私が転職を決めた理由は、「海外で仕事をしたかった」からではなく、「メジャーリーグで仕事をしたかった」からなのです。プロフェッショナルとして自身の仕事を突き詰めようとすると、金融の世界では、(米国の)ウォールストリートか、(英国の)シティに目を向けざるを得ない。逆に例えば、製造業でキャリアを積んでいたら、日本にずっと居続けたかもしれません。

お三方の話を聞いて思うのは、大きな決意を抱いて入念な準備の上で満を持して海外に出ていくよりは、波に乗るようにして、すっと出て行ってしまったほうが成功の確率は高いのではないかということです。宮森さんのケースで言えば、それは旦那さまの転勤であり、浜野さんのケースで言えば、外部環境の変化だった。ただ、そうは言っても、これまでとは全く異なる環境に出て行けば、何らかの壁にはぶつかると思います。

宮森:私の場合、最初の壁は英語でした。30歳代半ばにして、初めて英国に住み、イギリス英語が全く理解できないことに苦しみました。少しでも何か話そうものなら、Don’t speak American Englishと言われる。最初の3カ月はほぼ毎日、泣いていました。しかも、私の学校はマネジメント経験者向けのExecutive MBAで、皆、知識や経験も大変に豊富だった。

ただ、30歳にもなって、いつまでも泣いているわけにもいきませんから、必死で勉強しました。朝はクイーンのWe are the championなどの曲を聴きながら自分を鼓舞し、学校からの帰宅後はBBCなどイギリス英語のラジオをつけっぱなしにして、使えそうな表現をピックアップ。そのうえで翌日の授業の勉強。十分な睡眠を取れない日が続きますが、「絶対に負けない」と自分を励まし続け、1年後、ようやく笑えるようになりました。格闘の末に知ったのは、世界にはいろいろな英語があるということ。私たちが中学校、高校で習う英語だけが英語だと思ったら、それは間違いということです。

旦那様の転勤に伴い英国に行かれたとのこと。ただ暮らすこともできたと思いますが、何がMBA取得に駆り立てたのですか。

宮森:夫の海外赴任は、それが初めてではなく、彼がタイのバンコク勤務の際には3年間、別居もしました。私は、自分自身の人生を終えるとき、この世界で何らかの貢献をした、と思って逝きたいと考えています。プロフェッショナルとして仕事は続けたいと思っていましたので働かないという選択肢はありませんでした。また今後、グローバルプレイヤーとして働き続けるためには、MBAが必須だと考えました。

気持ちで負けないということは、大切ですね。以前、浜田さんの講演をお聞きして、その心の強さに圧倒されたのですが、何か特別な努力をしたのでしょうか。

浜田:それは、褒めすぎです。私は全然、強くないです。強くないから鍛えなければと思うし、意外かもしれませんが、心配症でもあるのです。本当に強かったら、もっと自然体で、肩肘張らず、「戦う」なんてフレーズを思い浮かべることすらなく生きられたと思う。ただ、「悔しい」という気持ちは、子供の頃から持っていました。

外資系企業というのは、とにかく日々、競争の連続で、テクノサウルス対アロサウルスというような肉食獣の戦いです。3カ月周期で給料が変わり、辞める人がいる。会社によっては、3カ月周期で成績下位5%がクビを切られるような世界です。好き嫌いや派閥でクビが飛ぶようなことはなく、とにかく実力重視のフェアな戦い。そういう中に20年間、自分の身を置くことで、自然と鍛えられたところはありました。

とりわけ、デルで社長を務めた6年間は、朝まで一度も目覚めることなく眠れた日は1日もありませんでした。3時とか4時とかに、エクセルのチャートが頭の中に、ざーっと浮かんで、はっと目が覚める。そういう精神状態に耐えるために、自分を常にハイテンション、ハイエナジーに保つよう、努力していました。

とりわけ米国企業は、そうした傾向が強いですね。強いプレッシャーがかかるなか、ストレスをうまく料理できる人が勝ち残る。浜田さんは、どのようにストレスと対峙していましたか。

浜田:社長時代に支えとなったのは妻と子供でした。1年の3分の1は海外という生活でしたが、それ以外では、どれほど遅くなっても自宅で夕食を食べるようにしました。接待、会食などは、よほどのことがない限りはゼロと公言して、だから人脈は全然、増えなかった。けれど、そこは自分を律し、ストレス解消を優先しました。

もう一つ、デルで受けた研修で印象に残っているものがあるので共有させてください。全世界の副社長の選抜チームを集めての研修だったのですが、主催はNFLのコーチなども請け負っている会社で、「エグゼクティブというのは、コーポレイトアスリートなんだ」「アスリートには、アスリートなりの訓練の仕方がある」というのです。これには目から鱗が落ちました。

彼らが言うには、「Time is Moneyではなく、Energy is Money」であり、「人生はマラソンだ、などと言う人がいるが、そんな考え方をするとストレスで負ける。人生はスプリント競技の連続だ」と。
そして、肉体的なエネルギーを高めるための実に具体的なトレーニングをするんです。「本当にストレスに勝とうと思ったら、60分間に10分は気を抜け」「1日に1.5リットルは水を飲め」「本を読むでも、ヨガをするでも、音楽を聴くでも、何でも良いから眠る前には何か決まった儀式をせよ。それによって、別世界に行け」などなど。

これは本当に役立ちました。そうやって、まず肉体のエネルギーを上げる。肉体をコントロールする。確かに、風邪をひいているときに、「よっしゃー!行くぞー!」って気持ちには、なかなかなれないですよね。肉体のエネルギーが上がって初めて、感情のエネルギーが上がるんです。感情のエネルギーレベルが上がると、今度はメンタルのレベルが上がってくる。そうすると、多少、嫌なことがあっても吹っ切れる。これを突き詰めると、最後にはスピリチュアルなレベルまで行くようなのですが、さすがに私はそこまでは到達しませんでした。

ただ、ここで学んだ考え方や方法は今も実践しています。まず、肉体がしっかりとしていないと、ストレスには対応できません。

水野さんは何か、壁にぶつかりましたか。

水野:それは幾つもあります。英語が通じないということに始まり、投資案件のステージごとのトラブルや苦労、後輩をどうマネージするか、など、ストレス要因は多々ある。

ただ、ストレス発散の手法というのは別に、持ってはいません。敢えて言えば、ストレスをストレスと思わないようにしている、というぐらいでしょうか。

人が何をストレスと感じるかというと、「自分ではコントロールできない」と感じたとき、ストレスになるんです。従って、例えばイギリス人と衝突しても、「日本人には理解できない・・・」といった解釈はせずに、あくまで自分個人の問題と思う。どんな問題も、自分でコントロールできたはずだ、できるはずだ、と、個人のコントロール下に置くことで、ストレスと感じないようにしています。

assertiveとaggressiveは異なる

何事もポジティブに転換していくことが、グローバルプレイヤーに不可欠な要件ですね。転じて、日本人の強さや武器とは、どのようなものか、ご意見を伺えればと思います。

宮森:英ヒューレット・パッカード勤務時に、欧州13カ国、アジア5カ国で同時にEメールマーケティングを立ち上げるプロジェクトのリーダーを務めました。その時に自分では思ってもいなかったことで評価されました。それは、日本人は人の話を聞く力がある、ということです。人の話を、しっかりと聞いたうえで、どこが落としどころとなるかを見抜く洞察力がある。これは日本人の持って生まれた特質だと思います。

多くの人が、「欧州」と一口に言いますが、欧州10数カ国から人が集まると、それぞれが全く異なるモノの考え方をし、個々に勝手な主張をするのです。そして、一度、主張を始めると、引くべきところで引くことができない。そうしたことを目の当たりにしたことで、多くの意見を聞き、一つにまとめ上げる日本人の力を、もっと誇りにしても良いのではないか、と考えるようになりました。

海外では人の話を聞くことや忍耐力がマイナスの評価を受けることもありますが、使い方次第ではプラスにできるのですよね。他方、話すこと、については、どうでしょう。以前、浜田さんがお書きになったものの中に、アメリカ人は他人の話を遮り、自分の意見をかぶせながら会話をしていく。自分の意見を言うタイミングを計るのが難しい、といった話がありました。「よく聞く」ということと、「しっかりと自分の意見を言う」ということを、どのようにバランスを取ればよいのでしょうか。

浜田:これは、最後までうまくはなりませんでした。と、過去形で話すと、元・グローバルプレイヤーという感じですが(会場笑)、根本的にコミュニケーション手法が違うので、最後はガッツしかないですね。他人の話が終わらないうちに、どんどん自分の意見をかぶせて、それを物凄いスピードで続けるうちに相互に理解するのが、彼らのやり方。そこでカットインするためには、語学力以上にガッツで、それまで積み上げた価値観を超える以外にありません。私が、なぜ、うまくならなかったかというと、「人の話を遮るのは失礼だ」という何年にも渡って積み重ねた、日本人としての価値観を壊すことが、できなかったから。もう一つは、声を張ること。日本人は声が小さいので、「Hey!Hey!」と、まずは声を張る。大きな声で喋る。いずれにせよ、答えは「ガッツ」。

水野さんは、26歳で海外に出て、初めて英語で話した、とのことですが、どのようにして語学力をつけて来られたのですか。

水野:信託銀行入社時の英語の試験は150人中140位。つまり、全くできないところからのスタートでした。トレイニーとして最初、ロンドンに赴任した際も、事前準備などは何もしていませんでしたから少しも話せなかった。少しも話せないにも関わらず、イギリス人からは「お前の英語はアメリカアクセントだ」とか言われて、頭に来ましたが(会場笑)。

(語学力向上のために)私がしたのは、独り言を全て英語で言う、ということ。実際にやってみると分かると思うのですが、朝、起きて、会社に行くまでの動作を英語で言うことすら、日本の英語教育(を受けただけ)ではできません。ハンカチを落としたら、「I dropped a handkerchief」。これを1日、ひたすらやり続ける。ズボンがシワシワになる、それを言おうとすると分からない。そういう分からないことを一つずつ潰すところからやっていきました。

ちなみに先ほどの「話に入っていくのが難しい」という話題ですが、非ネイティブで英語の下手な人でも会話に入っていくのが、うまい人はいますね。でも、教育の問題なのか、文化の問題なのか、私もそこは苦手にしています。ただ、自分が話しているときにはカットインさせないという強い方針を持ち、そこは譲らないようにしています。私が話しているときに人が話し始めたら、「Let me finish」と言って睨みつける。これは絶対に許さない。そんなふうにして折り合いをつけています。

水野さんは、英語が苦手というところから始められて、それでも世界に名だたるファンドで最年少パートナーになられた。コミュニケーションは英語と、スキルや知識の乗数と思いますが、水野さんが武器として磨かれたスキルと知識は何でしょうか。

水野:業種にもよるとは思いますが、PEに限って言えば必要とされる専門性はグローバルで共通です。そこで最低限、欧米人と同等の専門知識を身につけていなければ話になりません。これにプラスαとして私が心がけているのは、日本人である、アジア人である、ということを、うまく付加価値に転化することですね。例えば、フィナンシャルタイムズなどに日本のニュースが出たら、それについて、いかにも日本人でなければ、という見解を話せるようにする。「ヒロ(水野氏のこと)は英語は下手だが、この分野については彼に聞くのがベスト」と思ってもらう。その積み重ねです。

宮森:私も、「GEが日本でどうあるべきか、については、チカ(宮森氏のこと)に聞くのがベスト」と思ってもらえるよう努力しています。広報というのは、「社会の中で自社がどうあるべきか」という視点を強固に持つべき部署なので、日本の社会とGEの関係について、いつ聞かれても客観的な回答を出せるように準備しています。

もう一つ、私が心がけているのは「assertive」(自分の意見を明確にする)であること。これは、常に意識しない限り、欧米人のようにはできません。なぜなら、日本語というのは、最初に結論を言わない極めて特異な言語の一つだから。日本語と韓国語以外の、英語を始めとする西洋言語は、初めに結論を述べて、その後に、なぜならば、と、説明をする構造になっています。従って、彼らの思考法はこれに準じている。けれど、日本人は、そうした思考には慣れていません。慣れていないのに、assertiveになるというのは呼吸の仕方を変えるようなもの。つまり自律神経に反した動きをするということです。とても、辛いことですが、それができなければ彼らの期待に見合うメッセージは出せないし、安心もしてもらえない。私は今でもassertiveは苦手ですが、assertiveであって初めて、先ほど申し上げた日本人の「聞きまとめる力」が生きてくるので、辛さを楽しむように心がけています。

ここで一つ、気をつけていただきたいのは、aggressive(攻撃的な、喧嘩腰の)とassertiveは全く別なものであるということです。グローバル市場に出た日本人の多くは、語学力や文化の相違から、最初は押し黙ってしまいます。しかし、それからしばらくして、言いなりになることが辛くなると、急速に攻撃的なコミュニケーションをするようになっていく。その展開が、外国人には分かりづらく、驚き、「日本人は、よく分からない」という評価に結びついてしまいます。ですから、aggressiveを超えて、assertiveなコミュニケーションを心がけていただければと思います。

宮森さんはグローバル市場に出て、ほかにどんな場面でご自身の成長を感じましたか。

宮森:海外に出ていなければ今の自分はありません。このように皆さんの前に立ってお話するようなこともなかったと思います。

一番、良かったと思えるのは、アメリカの会社に在籍しながら、欧州で働いたことです。日・米・欧と複数の国の関係を同時に見たことで、多様な視点で物事を捉えられるようになりました。

日本だけに留まっていると、例えば「アメリカ対日本」だとか「イギリス対日本」という二軸での比較をしがちです。しかし、10数カ国の意見を調整するということは、三軸以上で物事を考えるということ。これにより、平面ではなく三次元の視点に立てるようになったように思っています。

多くの人が、「グローバル市場」という(日本以外の全ての国があたかも一つのものであるかのような)表現をしますが、実際には米国も中国もイギリスも全て異なる国であって、グローバル市場というのは、それらを束ねたものの総称でしかないのですよね。グローバルでビジネスを展開するというのは、個々の国の個性と一つずつ丁寧に向かい合うことであって、全ての国に通用する魔法のセオリーなんてものは存在し得ない。

まずキャリアの軸があって、行くべき場所はそこから決まる

ところで、日本企業は部門をまたがるジョブローテーションが定着しており、専門性を身に着けづらいところがあるように思います。では、ジェネラリストを極めてマネジメント層にすぐに入れるかというと、年功序列制によって機会を得るまでには時間がかかる。そこで苦しんでいるビジネスパーソンが多いのではないかと推察するのですが、日本企業においてグローバルに活躍するスキルを身につけるには何をすれば良いのでしょうか。

浜田:語学力だとか、専門性だとか以前に、「自分が何になりたいか」「どういう人生を送りたいか」というキャリアの軸を作ることが先だと思いますね。どうなりたいか、何をやりたいか、が、はっきりとすれば、身につけるべきものは自ずと明確になります。そのうえで、今ある環境が、必要な専門性を身につけるには不十分と判断すれば、外に出ればいい。自分自身の軸と会社の軸が合っていれば、それほどハッピーなことはないし、逆に、名刺交換をする際の瞬間の喜びだけで大企業に居続けても決して幸せにはなれない。目的のないところに、スキルだけを重ねるのは非常に危険なことで、それはビジョンなきところに戦術を考えようとする企業経営と同じ。いつまでたってもブレークスルーしないのではないかと思います。

もちろん、人生は長いから、キャリアの軸なんて、すぐにできるものではありません。私自身だって迷いはあるし、同じ夢を追い続けて、20年も30年も軸がぶれないなんて、小説のような人生は早々ありません。変わっていくのは、むしろ当たり前のことで、でも、そのたびごとに、とことん突っ込んで考えることで、また新しい軸が見えてくるのではないでしょうか。

どんな人生を送るにせよ、一度、蚊帳の外に出て多様性に触れることは良い刺激となるように思います。「会社を辞めたからといって自分がなくなるわけではない」とか、「東京に縛られなくても、沖縄にでも行って自分で畑を耕して生きたっていい」とか、人生の選択肢をダイナミックに捉えられるようになる。雨が降ろうが、風が吹こうが、ポキッと折れない精神力がつく。自分が何を大切に生きたいかという、人生哲学の片鱗を見つけることができると思います。

水野さんは、どのように思われますか。

水野:私は日本の信託銀行で15年間を過ごしたことを、プラスに捉えています。海外の専門業種の人は、自身の領域に特化しすぎるあまり、エクイティ専門の人はデッドが分からず、デッド専門の人はエクイティが分からない。ところが日本の会社は、デッドからエクイティ、リースと、若い頃に満遍なく修行をさせてくれます。それによって、一つには自分自身の得意分野や、突き詰めたい領域を、実感をもって選びとれるようになると思います。また、私は若くしてパートナーという職責に就くことができましたが、これは日本企業でジョブローテーションをし、事業全体を俯瞰して見るのに十分な知識と経験を若いうちから得ていたことに負うところが多いと考えています。ですから、ここ(あすか会議)に来ている年代の方々は平均的には、日本企業でキャリアをスタートしたことを感謝すべきと思います。

皆さんの多くは、日本企業に10年近く務め、MBAも学んで、準備万端という地点に立っています。次は、ご自身が「これぞ」と思う分野で最高のプレイヤーとなっていただければと思います。誤解しないでほしいのは、海外に出て働くことがグローバルリーダーになることではない、ということ。世界規模でみて競争力のあるプロになることが重要なのであって、海外に出るか、日本に留まるかということは、自身の目指す方向性、業種などに応じて考えればいいことです。日本のプロ野球選手でいえば、桑田(真澄)選手はアメリカに行きましたが、清原(和博)選手は国内で戦っています。しかし、いずれもが、世界に通用するプレイヤーであることには代わりありません。

浜田:おっしゃるとおりで、「アメリカ人に勝つ」とか「イギリス人に勝つ」とか、国ごとの狭い話をしていても、もう仕方がないんですよね。野球選手でも、演劇家でも、国境を越えて活躍している人は周囲を元気にしてくれる。とてもシンプルに、しかし力強く。

日本は、グローバルで「活躍できる」人材を輩出すべきであって、それは「勝てる」人材だとか、「叩きのめす」人材ではないんです。自分自身にできることは僅かですが、私自身、これからは「あの浜田ができるなら自分もできる」と思われる人となっていきたい。そして、いずれは世界で活躍できる、みんなに勇気を与えられる、エネルギーレベルの高い人材を育てる事業など、やってみたいと思っています。

社会から貰ったものを、いずれは返し、皆がその連鎖に貢献すれば社会はどんどん良くなります。皆さんも、ここで学んだものを、ボランティアでもNPOでも何でもいい。ギブしてほしい。私もまだエゴが強いので、テイクの分量の方が多いけれど、最後は、ギブ、ギブ、ギブでいきたいと自分を励ましています。

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