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「文化芸術」 『能』を通して考える~日本の精神文化と守ること伝えること

投稿日:2007/08/24更新日:2019/04/09

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「能とは、心で感じて、心で見る演劇」。--あすか会議2007「文化芸術」セッションには、日本の伝統芸能である『能』に、深く関わる3名のパネリストが登壇。能の本質を紐解きながら、日本人の原点、文化的・精神的支柱に迫った。

能を知ることで、日本人の精神的支柱が見えてくる

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私は大学時代に能のサークルに所属していたのですが、「能をやっている」と話すと、「何それ?」と聞かれることの多いのが、とても残念でした。しかし、自身が見聞きして来た1980年代以降の文化などについては、ある程度までは説明できても、例えば外国からいらした方に、「日本の伝統文化について教えてほしい」などと言われると、戸惑ってしまうというのが実態ではないでしょうか。私自身、まだまだ知らないことばかりで、日本人として、もっと自国の文化について理解し、また考えたいと考えています。グローバル化の波は避けられません。ただ、海外に出て行く以上は、自分たち自身の根となる文化を踏まえてから出て行くべきであり、今日のセッションは、その第1歩としていただければと考えています。

今日のセッションの目的は三つです。

1)能・古典芸能について知ってほしい。感じてほしい。

2)(古典芸能の持つ世界観や教えを)自分たちの身近なところに引き寄せて考えてほしい。

3)それぞれの立場から、(日本の良き伝統を)次世代にどのように伝えていくか、考えてほしい。

セッションのタイトルにもあるように、「能」についてのお話を端緒に、日本人としてのアイデンティティを見つめなおし、その精神性を守り伝える意義に踏み込んでいかれたらと思います。

まずは、パネリストお三方の自己紹介から。

佐藤:東京オリンピックが開かれ、新幹線の開通した1964年に旧・文部省に入省し、2000年まで務めました。その後3年7カ月にわたり、ユネスコ(UNESCO、国際連合教育科学文化機関)代表部特命全権大使をし、この2007年4月からは、東京国立博物館館長の任に着いています。

文部省に入省時の上司が、元・日本芸術院院長の犬丸直氏で、「家でビールを飲ませてやるから私の謡を習え」と、早々に誘われました。そこで謡を習ったのをきっかけに、能の世界に魅了されました。翌1965年からは省まで出稽古に来てくださっていた観世流・関根祥六氏に師事し、やがてお宅稽古にも通うようになりました。

老齢になってから「シマッタ!」と気づくのではなく、若いうちから、こうした伝統芸能の世界と出会うことができ、趣味として持てたことを幸せに思いますし、皆さんにもそうあって欲しいと考えています。

現在、政策研究大学院大学の理事・非常勤講師としてグローバリゼーションや文化政策について話をしているのですが、今日は(趣味としている)能の話ということで、どこまでの内容をお話しできるか分かりませんが、いろいろと議論できればと思います。

佐伯:同志社大学大学院社会学研究科の教授をしています。祖母が観世流の能楽師で、幼い頃から能を観て育ちました。女性のプロ能楽師というのはとても少なく、祖母は非常に稀有な、そして草分け的存在です。山口県萩市の祖母の家には能舞台までありました。こう言うと皆さん、驚かれるのですが、地方は広い土地を手に入れるのが、それほど難しくないですし、能舞台というのは、とてもシンプルな構造なのです。

(ファシリテーターの)吉田さんとは、先ほど話に上ったサークルの先輩・後輩の間柄です。佐藤さんと同じく私も趣味として謡や仕舞いを練習しているのですが、今日は笛の実演をと求められましたので、少しだけ吹かせていただきます。この笛という楽器は、暖めてあげないと音が出ない。とても繊細なものなので、先ほどから笛のことばかり気にしていて、失礼をいたしました。

-実演-

今、吹いたのは「調べ」と呼ぶ旋律で、能の舞台が始まる前に流れるものです。パネルディスカッションのイントロということで、この調べを選びました。

佐伯さんのご専門は比較文化論ですので、本日はその視点からも能や伝統芸能の位置づけを語っていただきます。最後は、観世流 シテ方、岡庭祥大さんです。

岡庭:父が能楽師で、私自身も3歳から稽古を始めました。中学1年生から7年間、通いの内弟子、いわゆる見習いとして関根祥六先生に師事し、その後、住み込みの内弟子として9年間、さらに修行をしました。独立し、現在に至ります。

能の表現は、無駄を極力そぎ落とした表現

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さて、まずは、能とは何かということを簡単にレビューしましょう。600年の歴史を、ざっと1、2分で見ていきます(会場笑)。

能は、猿楽や田楽などの大衆芸能を土台に、14世紀から15世紀にかけて、室町時代に観阿弥・世阿弥の親子によって大成されました。その頃、ヨーロッパではルネサンスが起こり、中国では元から明に至る、そんな時代背景です。

能の伝える世界観というと、これは私見ではありますが、一つには「無常観」が取り上げられます。能が明確に形作られた当時の、源平の争乱や飢饉を色濃く反映し、また末法思想など、仏教の影響も見られます。もう一つは、能には悲劇的な話も多いのですが、そこで描かれる「悲しみ」(悲哀)の感情が特徴的に思えます。人間の心の真実に触れるような表現です。そして、観る者の想像力に訴える「夢幻能」。これは世阿弥が始めた様式ですが、現実の世界とあの世とを登場人物が行き来する構成で、200曲ほどの演目があります。

曲種は、「神・男・女・狂・鬼」の大きく5種類に大別されます。神は平和や幸福、豊作を願うもの。男は源平の争乱などにおける苦しみや修羅道を描くもの。女は美しい装束で女性が優雅に舞う姿。狂は、子供を亡くした母親の半狂乱の姿など女性の苦しみを美しく描き出すもの。そして鬼は、良きにせよ悪きにせよ強烈なパワーをもつ存在を描くもの。

能を構成する役割は、いわゆる主役としての「シテ方」、脇役である「ワキ方」、そして楽器を演奏する「囃し方」があり、観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流の5流派に分かれます。楽器は笛、小鼓、大鼓、太鼓の4種類。鼓は材料となる皮の乾かし方の度合いで高い音や低い音を作り出しています。また、能を演じる場所は能楽堂」と呼ばれ、舞台正面の鏡板と呼ぶところには、松が描かれます。このほか、特徴的なものとして能面を「オモテ」と呼び、装束は国の重要文化財として指定されるようなものも多く残っています。

日本の伝統芸能における、能の位置づけについては佐伯さんからお話いただけますか。

佐伯:一般には、「人形浄瑠璃」「歌舞伎」「能」をもって、日本の3大国劇と称されています。私の考えでは、そのなかでも特に、世界に類を見ない表現をするのが「能」です。例えば、人形を動かす舞台劇はタイでも見られますし、歌舞伎の隈取の類するものは中国の古典劇にもあります。けれど、能を想起させるものは他国では見たことがありません。

人形浄瑠璃や歌舞伎は、(これは良い意味ですが)世俗的な性格を持っています。非常に写実的で、現代で言えば、テレビドラマや吉本新喜劇といったところでしょうか。

他方、能は極めて抽象的です。成り立ちから言えば、大衆芸能的な要素を持っているのですが、動作が派手ではなく写実的なところがない。それゆえ敷居の高さにつながってしまっているところもあるのですが・・・。

能の表現は、無駄を極力そぎ落とした表現。子を亡くした狂気や、別れた恋人と再会した喜び、そうした喜怒哀楽の一番のエッセンスがダイレクトに伝わってきます。必要なものだけが描き出されます。人間の心の本質をつかみとる、この洗練した表現は、世界の芸能の何にも見てとることはできません。これこそが日本の文化の真髄ではないかとおもいます。

能はまた、人間の世界だけでは解決できない問題や、葛藤といったものも映します。最近、江原(啓之)さんや細木(数子)さんといった方々がスピリチュアルな世界観を喧伝されていますが、能にも、こうした世界観が多く表現されています。「松風」という演目などが有名ですが、神様や動植物の精、妖怪、不思議な魔物などが現れ、例えば私たちが先祖の霊や遠く離れた恋人に会いたいとき、姿を現してくれる世界。その意味から、月並みな表現ではありますが、能というのは現代人の心の有り様にも通じる「古くて新しいもの」でもあると思います。

ユネスコ大使として世界の文化遺産を見て来られた立場から、佐藤さんは能の位置づけについて、どのように考えていますか。

佐藤:「Property(資産・財産)からHeritage(遺産)へ」という言葉があります。美術品などについて、その財産的価値をいかに保護するか、運用するか、という考え方から、1970年頃より、それを遺産としていかに保護するか、活用するか、という考え方に変わりました。1972年には世界遺産条約(世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約)がユネスコ総会で採択され、有形世界遺産の保護が始まりました。日本は条約締約が20年も遅れたので指定件数が少ないのですが、それにも増して(指定件数の少なさには)価値観の相違が如実に表れています。

ユーロセントリック(Euro-centric)な考え方からすると、世界遺産は「石の文化」中心で考えられているため、日本の文化について理解を得られるまでに時間がかかったのです。最初(1993年)の法隆寺、姫路城も指定まで大変な時間を要しました。また今回の石見銀山も苦戦の末、ようやくの指定です。産業遺産について考えるとき、ヨーロッパ的な発想では、「それが産業革命にどれだけ寄与したか」ということが論点となりますが、私たちの発想では江戸時代に、あれだけの環境配慮を施しながら鉱山技術の発達を見せたことそのものが貴重と思う。そういうこと(文化遺産を評価する際にも価値観の相違が表出すること)も(日本に世界遺産として指定されているものが少ない)背景の一つとしては挙げられます。

最近になってようやく、文化遺産というのは有形のものだけではなく、無形のものも併せてトータルに保護していかなければバランスが取れないという論調が高まり、2003年に「無形遺産条約」(無形文化遺産の保護に関する条約」が採択され、2006年に発効しました。これも当初はヨーロッパ勢の抵抗が大きく、実現に時間を要しました。そのため2001年来、(無形遺産条約の)前段として用意された「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」として、先んじて「能」「歌舞伎」「人形浄瑠璃」を登録してきました。

今のお話でヨーロッパが「石の文化」とすると、日本は何と言えるのでしょうか。

佐藤:ひとことで言えば「木の文化」でしょうね。ただ、それはあくまで象徴的に「木」と言ってるだけで、建材が木であるという以上の、もっと柔軟性な・・・

形のないものを大切にするような?

佐藤:いえ。礼儀作法など「形あるところに心が宿る」という考え方もありますから、形を軽視するわけではないんです。形はとても大切なものです。ただ、同じ形がずっと残るという「石の文化」のような考え方とは発想を異にするところがあります。

個々が主張しながら、全体としては調和して動く

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そろそろ能についての、具体的な話も進めていきましょう。岡庭さんは3歳で初舞台、その後、内弟子に入られたという自己紹介がありました。好奇心から是非お聞きしたいのですが、内弟子というのは、どのような生活を送るものなのでしょうか。(会場笑)

岡庭:朝7時の玄関掃除に始まり、11時に師匠に「おやすみなさい」を言うまで(といっても実際には12時、1時になるのが普通ですが・・・)、料理をする以外、できることは全部する感じです。

(通いの弟子と比して)内弟子に入ることで何を得られるのですか。

岡庭:当時は理解できていませんでしたが、「リセットできること」「ゼロになれること」だと思います。内弟子になるということは、一切の自由がないということです。会社勤めであれば週末や祝日などに休みがあるところ、内弟子の休みは盆と正月の2泊3日だけです。給料は月5000円で、そもそも外に出られませんから買い物することもない。衣食住のすべてを師匠と共にし、それを9年間続けたことで、精神的な強さを得たと思います。(自分自身を何らか隔離しない限り)普段の生活で、そこまで自分を追い込むことは不可能ですから。

「つらい」とは思いませんでしたか。

岡庭:思いませんでした。「つらい」と思うと、その時点で辞めたくなってしまいます。私は内弟子に入る際、「途中で辞めようと考えてしまったら、そのときは死のう」という覚悟をしました。ですから、余計なことを考えず、とにかく無心に、がむしゃらに食らいついていきました。

能の舞台というのは、能楽堂や出演者のスケジュールなど勘案し、1年か2年前には演目や役割が決まると聞いています。それほど先の舞台に向けて、どのように役作りをしてくのですか。

岡庭:演目が決まると、それが1年後であれ2年後であれ、決まった瞬間から、舞台(役)と背中合わせの生活になります。何をしていても舞台を常に意識し、どんどん役に入り込んでいく。大変にストイックな世界です。内弟子をして身に付いたのは、そうしたところで必要となる(集中力や持続力といった)精神力ですね。

ここで実際に、プロがどのように舞うのか、ビデオで舞台を見ていただきます。演目は「松風」で、主人公の女性が在原行平を想う、その気持ちを、松を抱く、そのシンプルな動きだけで深く表わす様子に注目してみてください。

-ビデオ上映-

この「松風」は大変な名曲で、600年前に原型ができて、以来、謡の言葉も、動きも、能面の使い方も、ほとんど変わっていません。それから、実際にご覧いただくと分かるように、オペラやクラシック音楽のように誰か指揮者がいるというわけではなく、また、舞台監督もいない状態で、物語が進展します。プロが集まり、誰の指示もないなかで、皆で協調しながら一つの舞台を作りあげるのです。そこから日本の一つの姿を象徴的に捉えられるのではないでしょうか。

佐藤:皆で測って調和的に動くというのは、能の大きな特徴の一つです。もちろん、最低限のルールはあります。シテ方(主人公)が中心で、他の演者はシテの動きに合わせます。また囃子方は太鼓が、いわばリズムリーダーとなります。また謡は8拍で、これを半分に割って、(洋楽でいうところの)16ビートの枠組み内で進行します。ただし、楽譜があるわけではありませんので、それもシテ次第。シテ方の動きに協調しながら作り上げます。

ただ、だからといってワキ方や囃子方は、シテ方に合わせるだけかというと、そんなことは全くなく、それぞれの立場の人々が精一杯の自己主張をしながら、しかし全体としては調和している。これこそが、日本人の特徴を如実に表していると私は思うのです。戦中・戦後来、日本人についての論議で必ず表出するのが「日本人は個がない」という見方です。これに対して、「全体として活動している姿が、そのように見えるだけである。彼らは協調の精神が強く、個はその中でうまく(自らの存在感を出しながら)行動している」と説明した(海外の)研究者がいましたが、まさにそのとおりで、能はそれを見事に体現してみせています。

佐伯:コミュニケーションの観点から能を捉えるのは、非常に面白いですね。先ほどご説明があったように、能には演出家がいるわけでも、囃子に指揮者がいるわけでもありません。そのとき、どう合わせるかというと、相互に「気配」を感じあっているのです。例えば囃子では、横にいる太鼓のテンポが上がってきていることを感じると、小鼓や笛は、それに併せ、先の展開を予測しながら付いていきます。

他人が何を考えているか、何をしようとしているかという気配を感じる。つまりは、他人の心持ちや行動を察する気持ち、勘のようなものが必要になるし、(言葉での説明など抜きにコミュニケーションは成立するということを)実感することもできます。

ただ、ここで難しいなと思うのは、それがあくまで日本人ならではのコミュニケーションスタイルであるということですね。例えば海外に出て、この固有の文化を持たない人たちと、いざコミュニケーションをという段になったとき、(この特徴の裏側にある)言葉で合理的な説明をするのが下手であるという側面が出てきてしまう。そして、「なぜ、分からないんだ」「阿吽の呼吸はないのか」と苛立ちます。

言葉を使って伝える能力も磨き、また、能で実現されているような、人を察する力、勘のようなものでコミュニケーションを円滑にする能力も同時に大切にしていかなければならないと思います。

私が危惧しているのは、(欧米型の文化やコミュニケーションスタイルを倣う反動として)昨今の子供たちは、そうした動物的な勘が損なわれているのではないか、ということです。簡単に他人を殺したり、いじめたりという事件が起きるのは、人の心情や在り方を察したり、想像したりということが欠落している証左ではないでしょうか。

それからもう一つ、先の岡庭さんの話で感銘を受けたのは、(内弟子に入る際の)「覚悟」を持って進む姿勢です。最近の学生と、ひとまとめにしてしまってはいけないとは思いますが、「ほかにとりたててやりたいことがないから」という理由から大学院に進学してくる学生が、あまりに多い。伝統芸能の世界などに見られる、「道」に進む際のメンタリティのようなものを忘れつつあるのではないかと、不安になります。

型を守って初めて、個性の領域に入れる

能の舞台は日本という国の特徴を凝縮した世界と言えるかもしれませんね。では、次の世代に私たちは、そこから何を、どうやって守り伝えればよいのでしょうか。

佐伯:「美しさ」というのは何か、と考えたとき、先ほど(ビデオで)見た舞台は、皆さんの多くが美しいと感じられたのではないかと思います。翻って、今、政府が「美しい国」などと標榜する、この世の中の姿。「どこが美しいんだ、醜いものばかりではないか」と、私には感じられてなりません。

松風は、抽象的で物語を知らないと入りづらいところはあるでしょうが、言うなればこれはラブロマンスです。物語自体は、きれいごとだけでは全くなくて、在原行平という人は、松風の姉妹両方と仲良くしており、泥沼の関係だったりする。けれど、その物語を舞台として昇華するなかで、そうした複雑な想い全てを包含しながらも女性が男性を想うとはどういうことなのか、ということを美的に表現している。

そういう美しさこそが、これからグローバルに出て行くにあたって胸を張って誇れるものと思うのですが、いかがでしょう。

行動様式に落とし込んだところにも、守り伝えるものがありますよね。

佐伯:舞台で表現される、目に映る美しさと同時に、芸を支えるメンタリティの部分にも、もちろん着眼すべきと思います。例えば師匠が言われることを守る姿。

能には「型」というものがあって、場面ごとに、こういう型をするということが基本的には決まっています。それを、素人であろうが、玄人であろうが、ひたすらに模倣する。在原行平のことを、どれだけ好きでも、(自分なりの)「好きだ」という動作をしてはいけない。まず、型に従い(そこに心を入れ込み)ます。こざかしい創意工夫というものを、いきなりしてはいけない。非常にストイックなところのある世界なのです。

今の教育に目を向けると、守り従うべきもの、例えば礼儀作法などを教える前に、「オリジナリティを出しなさい」とか「個性を大切に」とか、そういったことを言ってしまう。口幅ったいことを言うようで申し訳ないのですが、私は、それでは単に自分勝手な人間が生まれるだけだと思います。まず、先人の伝えた知恵に対して謙虚に学ぶべきです。守り伝えられたからには、なんらかの意味があるはずなんです。ここで、この型をするから美しい。ほかの型ではなく、これをするからこそ美しい。そうしたものを体得したうえで初めて、創意工夫を重ねる意味があると思うのです。

「学ぶことは真似ること」と、よく言われますが、その精神は能の世界にも伝わっているし、それ以外のジャンルにもあります。個人がゼロから作り上げられる知恵には限界がありますが、先人が積み重ねた知恵に学べば、偉大な蓄積に対し、「そのうえで、さらに何ができるか」という発想に立てる。(能をはじめとする、先人が守り伝えたものを知ることで)人間の限界と可能性を掴み取ることができるのです。

関根祥六氏は、60歳を過ぎてから、「ようやく工夫ができるようになってきた」と言われたそうです。それを聞いた若手の能楽師は、「関根先生が、あの年齢にして、ようやく工夫できると言われるのであれば、私たちは工夫などしてはいけない」と思ったそうです。年齢を重ねるほど、知恵が深くなり、工夫ができるようになっていく。それが素晴らしい。

今、日本のソフトパワーはアニメーションなどに流れていますが、アニメや漫画を作り出している力の源泉は「若さ」なんですね。他方、能は年齢を重ねるほど良くなっていく。能の演目で最も高度と言われるのは、老女を主人公とした内容です。現代社会では高齢化というと、すなわちパワー不足と捉えられがちですが、能の中では、おじいさん、おばあさんが堂々と活躍している。年をとっても、こんなにパワフルだぞ、なんてことを教えてくれる。それも伝え、守っていくべきところでしょうね。

佐藤:教育について、まずは型から、というご意見には全くもって同感です。「ゆとり教育」という言葉に惑わされているようなところがあるように思います。「基礎を徹底的に鍛える」と「自分で創意工夫する」という、(本来であれば、順番を踏んで実現すべき)二兎を追っている。最初の基礎の部分が捨象されていることが残念です。創意工夫というのは、あくまで基礎を固めたうえのものであること、忘れないでいきたい。

そろそろ時間も迫っているようですので、最後に3つ、メッセージをお伝えしたく思います。

まず、先ほど言及された日本人の良さ、調和能力は、仲間うち(日本人同士)でも認識できていないことが多いんです。例えば皆さんが起業して組織を束ねるとき、或いは、社内でチームを組んで何か事業を始めるとき、この日本人の良さを引き出す役割を担っていただきたい。

それから、国際的に活躍しようとすると、日本人のアイデンティティを説明できなければ相手にしてもらえません。私自身、ユネスコで191の加盟国と対峙するなかで、それを痛感しました。今日のようなセッションもそうですが、さまざまな機会に意識して、(日本人の特質というものを)掘り下げてください。

最後に、能は最高の趣味になります。年を取るとともに、麻雀をやめ、ゴルフをやめ、カラオケをやめ、最後にこれだけが残りました。年齢相応に気長に続けられるものなので、お勧めしたい。(舞台正面の)鏡板の向こうにある切戸と呼ばれる控えで出番を待つ緊張感は、「脳」にも良い(会場笑)。どうぞ、ご精進ください。

最後に岡庭さんから凝縮した話を。

岡庭:今、世界が求めているのは「語学ができる日本人」ではありません。彼らが求めているのは、日本人が日本の文化を知っていること。語学や仕事はできて当たり前であり、そこに+αとなる文化的下地を身につけている人が求められているのです。

では文化とは何か。そのなかに古典芸能があり、さらにそのなかに能があるわけですが、能について、やれ600年前に興った、だの、やれ観阿弥世阿弥の親子が大成した、だのと言っても、外国の方には(その素晴らしさや本質は)届きません。ですから、こう説明してください。「能とは心で感じて、心で見る演劇だ」、と。例えるならば、それは、漫画やテレビに対する小説です。漫画には絵が描いてあり、映像であればCGなども駆使し、より写実的にリアルに作られています。ところが、小説には活字しかありません。しかし漫画や映像が、どれほどリアルさを追求したところで、それが見る者の想像力を掻き立て、目で見える以上の世界観を作り出すことができるでしょうか。小説には活字しかありませんが、だからこそ読み手は、どんどん自分の中で想像を膨らませて、豊かにその世界を感じ取ります。それが能の世界です。とっつきにくいけれど、入り込むに従い、どんどん広がる世界です。

まだ修行を重ねている段の若輩ではありますが、一つ、お伝えできればと思うのは、固定概念を打ち破る心の強さを持っていただきたいということです。

例えば、「大富豪になりたいけれど、なれないと思っている人?」と訊ねられて、「自分のことだ」と思われた人。あなたは、富豪にはなれないと、誰かから断言されたのでしょうか。そうではない。自分自身で決めつけているのですよね。それが固定概念です。

固定概念というのは凄く厄介なものです。例えば壁にぶちあたる。2回か3回、続けてぶちあたると、人間は学習能力がありますので、次のときには、ぶちあたる寸前で止まるようになります。けれど、次のときには、もしかしたら、もう壁はなくなっているかもしれない。なのに、学習能力があるために止まってしまう。でも、どうか、そうはならずに何度でも壁にぶつかってください。それが第1歩です。

失敗や挫折を知らずに、順風満帆に上がっていってしまうというのは恐ろしいことです。なぜなら、失敗を重ねることで自分の「己」を知ることができる。己を知るというのは、現在位置を知ることです。現在位置を知ることができれば目標を立てられる。しかし、現在位置が分からなければスタートすることすらできません。目標が定まったら次は、そこに向かって軌道修正しながら、しかし決して諦めないこと。

そして、「選択」と「決断」の違いを知ってください。「選択」というのは、AかBかと迷って、Aを、ただ選ぶこと。Aがダメだったとき、Bを選びなおせるということです。「決断」というのは、Aと決めた以上、Bは完全に捨て去ること。「Aだけでやっていこう、もう自分にはA(という道)しかない」。そう思って突き進むと、真剣味を帯びます。真剣に進めば失敗しても後悔はない。失敗しても、ただ、己の現在位置を知るだけです。また、そこから進み始めればいい。諦めず、軌道修正して、また目標に向かいましょう。これは、年齢は関係ありません。

最後に、謡を。一つは結婚式などで歌われる「高砂」、もう一つは、お葬式などで歌われる「卒都婆小町」です。楽しいことや哀しいことなど置きながら、心で聞いていただければと思います。

-実演-

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