じつは、デフレは大学生にとっても大問題 

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朝からすべりまくる末席

マネジャーは、朝からニヤニヤしながら暦を眺めている。「今年もそろそろ、マミーの季節だな」

マネジャーは、見かけはけっこうダンディなのだが、いい年してマミーもないだろう、男子がみんなマザコンだというのは生まれ持っての病だとしても、これじゃあかなりの重症だ、と末席は思った。*1

そこに、顔中をガーゼでぐるぐる巻きにした不審者が、IDカードを堂々とかざして闖入してくる。まるでミイラ男(mummy)のような姿をしているが、どうやら死体ではないようだ。ガーゼの隙間の奥には、意外にもつぶらな瞳がのぞいていて、こちらを至って冷静に見ている。

「いやー、大変だよ、この季節は」。どうやら、主任の嶋野は、過度の花粉症のようで、この季節の外出が大変らしい。
「主任のその姿を見ると、ようやく春がきたんだな、と実感します」。マネジャーは、季節を愛でる俳人のように嘆息した。
「なるほど、桜の下には死体が埋まっているとよく言いますからね」*2。末席は、上手いことを言おうとしたのだが、途中ですでにスベっていることにも気がついていた。
「・・・。この空気の責任を、どう取ってくれるのかね?」。主任とマネジャーは、ユニゾンで末席に迫った。
「えっと、まずは空気清浄機で花粉を除去しようかと・・・」。二人は表情を変えない。末席は、またしても墓穴を掘ったようだ。
「やっぱり、花粉よりも、私がこの場から除去されたほうがいいかもですね、じゃあ主任、このあとの東都大学での講演には、私が出ますよ、花粉症もそこまで重症だと大変でしょうし」
「悪いね、なにせ今日はミイラ男か末席くんしか選択肢がないものだから」。マネジャーは、そういい終えると、ビリー・ジーンのメロディを口ずさんだ。

スリラーならわかるが、なぜビリー・ジーンなのだろう、そう不思議に思いながら、末席は研究所を後にした。*3

*1: cf.『東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~』(リリー・フランキー/著、2005年)
*2: 『桜の樹の下には』(梶井基次郎/著、1928年)
*3: ”Thriller”(by Michael Jackson,1982)

またまた嶋野の代行で・・・

東都大学は、東京・千代田区にある伝統校で、その学生課長が末席を出迎えた。

「ようこそお越しくださいました。あれ、嶋野さんは・・・」
「じつは、今、包帯でグルグル巻きになっておりまして・・・」。過度の症状とはいえ、さすがに花粉症を登壇回避の理由に挙げる勇気はないが、でもウソは言っていない。末席は良心の呵責をそう回避しようとした。*4
驚いた課長は、事の重大さを慮るように言った。「そんなことが・・・。ご無事であればなによりですが・・・」

「私も心配なのですが、まずはこちらの件をこそ嶋野は心配していましたので。代役として私では不足かと思いますが、本日はなにとぞご容赦くださいませ」。末席は上手く切り抜けられたことを確認しつつ、本題に入った。

課長のオファーはシンプルで、卒業予定の学生に、就職環境の厳しさをわかってもらいつつ、それを踏まえて、より熱心な就職活動に取り組んでもらうようなマインドになってもらうのが目的だ。

「東都大学という名門であれば、課長もそんなに心配をする必要もないのでは」。末席は、おべっかを言いながら自身の講演の期待値を下げるという呪文を唱えた。

「いえいえ、どこの大学であっても、甘い気持ちでいると今は厳しいですよ。なんといっても景気が良くないですからね」。おべっかは受け取りながら、しっかり仕事はしてもらうぞ、というように課長は応じる。

「わかりました、課長、そのあたりはしっかりと伝わるようにします。ただ、今の学生はかわいそうですね、5~6年前くらい前は売り手市場と言われて、すごく環境が良かったので」

「私も毎年、状況を見ていて、つくづくそう思います、学生は就職環境の運を天に任せなければいけないのかと・・・」

そう嘆息する課長を目の前にして、末席は講演のトーンを決めた。
*4: マイケル・サンデル氏が言及する、カント的態度を参照。嘘をつくことはいけないことだが、真実を言うことが最善ではないとき、相手を思いやって、嘘ではないがあえて誤解を与える言い方をすることは悪いことではない、という態度

就職できないのは僕の自己責任じゃないの??

末席は記念講堂に足を踏み入れた。さる富豪からプレゼントされたというこの講堂は、円形に張り出した舞台が特徴で、赤茶色の寄木で張られた空間が荘厳な雰囲気を醸し出している。4年生全生徒を招集した講演であったが、人で溢れかえっているかと思いきや、1000人を収容する講堂に出席者は100人足らずというところか。いやいや、じつはこのくらいの規模でもインタラクティブなやりとりを想定すれば多いほうなんだ、1000人を捌けるマイケル・サンデルのほうが異常なんだ。末席はなぜかそう自分に言い聞かせつつ話し始めた。*5

「東都大学のみなさん、こんにちは。麹町経済研究所の末席と申します。エリートのみなさんにはあまり関係ないかもしれませんが、本日はかなり厳しい現実の話をします」

このような切り出しで警戒感を持たない人は、じつは男子に多い、というのは個人的経験から感じていたことだが、今日もやはりご多分に漏れずという状況だった。*6

「経済環境が良くないせいで、就職活動に不安がある、という人は手を挙げてもらえますでしょうか」

ほぼ、8割方、手が挙がっている。

「ほとんどの人が、不安を持っているわけですね。だからこそ、いまここにいらっしゃるのかもしれませんしね。では、景気が悪いのはもうしょうがない、と思っている人は?」

これも、ほぼ8割の人が手を挙げている。

「自分は運が悪い、というわけですね。でも、これをチャンスにして、自分を磨けばいい、という人もいるかもしれませんね」

うなずく人もちらほらいる。見るからに真面目そうな学生で、好感が持てるタイプだ。

「たしかに、経済状況は非常に不透明で、そんな状況では企業もなかなか新卒採用を増やしたくないかもしれない、それは、法人であっても人情なわけです」

やはり今日の末席の洒落は切れが悪いようだ。心やさしい女子が数名、お義理でも笑ってくれただけでもよしとしないと。

「それでも、やはり、就職活動で上手く行かなければ、自分の努力が足りなかったことが原因だ、と思うでしょうか」

この問いには、女子のほとんどが手を挙げた。男子は挙げていない人も多いというのに。*7

「ただ、やはり、できれば5年早く生まれていれば、もうちょっとマシだったのに、と思うでしょうか?」

これは、全員が手を挙げた。彼らが高校生のときは、けっこう景気感も悪くなかったのを思い出しているのか、悔しそうな顔をしている人もいる。

「それはそうでしょうね。みなさんはアンラッキーでした。もし、これが自然現象による天災であれば、あきらめるしかないでしょうね」

厳しい現実を再認識して、中には肩を落とす人、下を向く人もちらほらと見える。

「ですが、じつは、これが人為的な行為の結果だとしたら、みなさんはどう思うでしょうか!」

その瞬間、うつむいていた人も含めて、全員が顔を上げて末席の目を注視した。

「まず、これをご覧ください。経済学部の人は御存知かもしれませんね、これはフィリップス曲線と言って、インフレ率と失業率の関係を表したものです」*8

*5: ”Justice with Michael Sandel”(http://www.justiceharvard.org/)
*6: cf.”The Sexual Paradox:Men,Women,and the Real Gender Gap ”(by Susan Pinker,2008)
*7: *6と同
*8: “Phillips curve"(William Phillips,1958)

 

17101

「インフレ局面では雇用してもらいやすく、デフレ局面では、ものすごく雇用してもらいにくくなる、という関係をザックリと感じてもらえれば幸いです。失業率と有効求人倍率は連動していますので、有効求人倍率と読み替えてもらっても大丈夫です。むしろそのほうがフィットするという説もあるくらいですので」*9

「なぜ、そうなるのか。それは、名目賃金、つまり額面が同じ場合は、インフレだと実質賃金の値下げになるので、企業負担が軽くなりやすいのではないか、という仮説があります」

「そして、デフレ状態に近づけば近づくほど、右側に急速にグラフがシフトしているのがわかるでしょう。これは、デフレになると、実質賃金の増加による企業の負担増に加えて、デフレ由来の景気の悪化による先行きの不透明感がどっかりと乗っているのではないかという仮説があります」

「では、それらの仮説は正しいのか。実際に測定したプロットでみてみましょう、はい、1、2、3!」
*9: 失業率は15歳以上の働く意欲がある人のうち、職がなく求職活動をしている人の割合。有効求人倍率はハローワークで仕事を探す人1人に対し、企業から何件の求人があるかを示す(詳しくはhttp://www.stat.go.jp/data/roudou/qa-1.htm)。日本の失業率の計りかたが、諸外国よりも甘く、良い数値が出やすい

17102

広い空間に100名足らずの状況でありながら、講堂はどよめきの渦に巻き込まれていった。

「そして、もうひとつ。もし、デフレを回避する政策が可能だとすれば、何が言えるでしょうか?」

いかにも聡明そうな女子学生が、信じられないというような表情で答えた。

「この就職難は、人為的である可能性があるってこと?あるいは、少なくとも政策的に5年前くらいの水準には戻すことができるかもしれない・・・。でも、そんなことって・・・。だって、新聞でもテレビでも、みんな景気が悪いのはしょうがない、就職できないのは自己責任なんだって言ってるじゃないの・・・」

「たしかに、新聞やテレビの言うとおりかもしれない。だけど、じつはそうじゃなくて、人災かもしれない」。末席がそう寂しそうに言うと、またしてもどよめきが起こった。

「そんな・・・。人為的に景気を悪化させて、仕事を奪ってって、そんな人がいるとは思えない・・・。だれが幸せになるっていうんだよ・・・」。怒りを抑えきれない、というふうに男子学生は言葉を吐き捨てた。

「経済学的に言えば、少しだけ幸せになるひとはいます。それは、現在、相応のキャッシュポジションを持っている人か、今後も定期的に収入が見込める公務員や年金生活者です」

「そして、なぜ日本がそのような政策をとり続けるのか、という疑問を投げかける研究者は多いということは、事実です」*10

「末席さんは、デフレが政策で回避できるって、本当に思っているんですか?!」。先ほどの男子学生は必死の形相だ。

「さーて、それはどうでしょうね。おっと、そのあたりは、東都大学が誇る教授陣にまずはお聞きになってくださいね、ではまた!」

「こらー、よーし、就職できなかったら、麹町経営大学院に入って、この件でお前をとっちめてやるー」という東都の学生に追っかけられながら、末席は、ハーメルンの笛吹き男はこのような気分だったのだろうか、と自問自答していた。

*10海外の経済学者のほとんどと、いわゆるリフレ派とも呼ばれる日本の経済学者

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