じつは、経営のプロにも、デフレはそれほど知られていない 

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今日も嶋野主任の気まぐれに・・・

窓越しに外を眺めると、皇居の上空を飛ぶ鳥が、風に大きく煽られている。

「今日はずいぶん強風だな。あれ・・・、もしかして・・・、しまった!」

マネジャーは思わず、ちっ、と舌打ちをした。

末席はそれを遠目に見ながら、今どき、本当に舌打ちする人っているんだな、と物珍しげにしていると、マネジャーが血相を変えてこちらに向かってくる。

「末席君、このあとの予定は何か入ってる?」
「ええ、所長とミーティングで、MBOの予定ですが」
「じゃあ、空いてるわけだな」
「あの、ですから、次期クオーターのMB・・・」
「大丈夫、大丈夫。MBOなら、所長と僕でやっておくから」

自分のMBOなのに、他人がやっておくなんてことがありうるのか。なんつー、強引な。驚いた末席は、ビックリした拍子に、目標管理シートをマネジャーに渡してしまった。*1
「これを読んでもらって、所長がこの数字に、まあ20%くらい上乗せすれば完了だろう」

たしかに、すべてはシートに記入済みで、それ以外のものが特段に入る余地はない。実際、双方が目標数値調整でちょっともったいぶったあとに、「合意に至ったね、頑張ろうね」という“お約束”の儀式に多くの時間は費やされる。マネジャーが言っていることは、じつは、時間的な効率性を考えても合理的かもしれない。だが、しかし・・・。末席は、テーマパークの裏側を見てしまった子どものような、複雑な心境になった。

「ちょっと!せめて10%以内まで粘ってください。それはそれとして、マネジャー、なにか緊急のことでもあったんですか?」
「じつは、クライアントであるT社のCFOが来社されるんだけど、主任がどこにも・・・」
「えっ、今日はなんか朝からソワソワしてるなと思ったら、まさか・・・!」

嶋野主任はいつも、ラジオで「今日の波情報」をチェックしている。そして、鎌倉にあり、懇意にしているクライアントのP社には、主任専用のボードがキープしてあるという。末席は以前から、嶋野が「P社のボードは折れないようになっているんだ、環境にやさしいんだよ」と自慢していたことをありありと思い出した。*2
「スピード狂の主任のことだ、今頃はたぶん、湘南の海の上かもな・・・」。マネジャーは渋面をつくりつつ呻いた。

「そんな、いい波を捕まえるのがエコノミストの務めとはいっても・・・」。末席は大喜利のような嫌味を言ってみるが、マネジャーがくれたのは座布団ではなく、主任作成のペーパーだった。*3

「うまいね、末席くん、じゃあ、これ3枚あげるよ。あとはよろしく」

*1: MBOの概念は、ドラッカーの「Management By Objectives and Self-Control」という言葉にまでさかのぼり、自己統制のためにMBOというものが必要になるという主旨のことが語られている。cf. " The Practice of Management "(by Peter F. Drucker,1954)
*2: cf. "Let My People Go Surfing: The Education of a Reluctant Businessman"(by Yvon Chouinard,2005)『社員をサーフィンに行かせよう』(イヴォン・シュイナード/著、2007年)
*3: TV番組『笑点』(日本テレビ系)の大喜利のルールでは、うまいことをいった人には座布団が与えられる

じつは…、頭を抱えるCFO

「はじめまして。末席と申します。主任は本日、急な呼び出しを受けてしまいまして」

CFOとその同行者は、心配そうな表情を浮かべて、残念そうにしている。まさか、湘南の風に呼ばれて、とは口が裂けても言えない。

「主任からは、主旨をよく承っておりますので、本日は私、末席が代役を務めさせていただきます、申し訳ありません」
「緊急ということであれば、致し方ない。売れっ子ともなれば、今日の天候のように、風雲急を告げる案件もありましょう。では、さっそくお願いします」

末席はCFOの言葉に途中、ヒヤリとしたが、どうやら問題なく本題に入れそうだと安堵した。

「弊社の今後の事業計画について、嶋野さんからお聞きかと思います。末席さんは、どうお考えですか」
「T社さんはアパレル企業として、国内で根強いファンを獲得していますよね、僕の妹も御社のブランドの大ファンでよく着ていますよ、というか、誕生日プレゼントのときによくねだられています・・・」

「これはこれは、妹さんは御目が高いようですね。末席さんも、まいどありがとうございます」

末席のアドリブが功を奏して、滑り出しは和やかに始まった。議題は、新ラインの展開に関する意見交換で、末席はすぐさま、嶋野のペーパーを出した。自信満々でテーブルに出したのはいいが、じつは末席は時間不足でほとんど目を通していない。

CFOがペーパーを確認すると、みるみる顔色を失っていく。T社のもう一人の同席者が横から覗き込んで、タイトルラインを読み上げた。

「『結論:じつは、新ラインの展開は慎重になるべき』・・・だって?」

彼の名刺は、屋台骨を支えている同社フラッグシップ部門の副部長となっているが、ここに同席していることを考えれば、どうやら新事業のトップを担当する予定になっているのだろう。表情がみるみる硬くなっている。

CFOはいぶかしんだ。
「キャッシュは十分あるんだがね・・・。なぜなんだろう・・・」

次期新事業担当トップも、納得がいかない様子だ。

「ただでさえキャッシュリッチだからって、妙なファンドに狙われているっていうのにな」
「え、どういうことですか?」。末席は真意をCFOに聞き返した。
「弊社に参画している経営コンサルが掴んで来た情報なんですが、うちがファンドに狙われているらしいんですよ。利益の内部留保を活用しない経営者は怠慢だしけしからん、会社は株主のものだってのを、日本の経営者はまだまだわかっていないので、教育しないといけないですとか、いろいろとモノ申しているようです・・・」
「それって、なにげに風雲急じゃないですか!」
まったく、主任はサーフィンに行ってる場合か!そう呆れながらも、末席は引き続き解説を求めた。
「それで、そのコンサルタントの方は何て言ってるんですか?」
「コンサルタントも、効率的経営の理念に照らし合わせれば、ファンドの言い分は正しいというんです。だから、うちが有望な事業に投資すれば、経営陣の怠慢を責める理由はなくなるから、その線でどうだろう、と。彼らのお目当ては、弊社のバランスシート上にある潤沢なキャッシュだろうから、と。それで、セカンドオピニオンを御社の嶋野主任にお願いしていたんです」
「そして、うちの嶋野の結論は、慎重になるべきということで、困惑されていると」
「そういうことです」
T社の二人は肩を落としていった。

ハゲタカファンドの言い分は正しいのか

「なるほど、ハゲタカファンドが言うことも、御社参画の経営コンサルタントは一理あると言ってるわけですね」

ファンドを「ハゲタカ」って思いっきり言ってしまっているな、この末席という人は。CFOはそう内心思いながら、末席の言葉を受けて言った。*4
「経営効率的に言えば、キャッシュを遊ばせておくのは不合理だとは、私も思うのですが・・・」*5

「でも逆に、なぜ、御社はハゲタカさんが効率的でないというキャッシュリッチ状態になってしまったんでしょうかね?」。末席は、何か言いたげなCFOの発言を促した。
「それは、しょうがない部分もあるんです。うちのブランドは、日本の女性たちの嗜好をきめ細やかに汲み取ることに強みがあります。ちょっとしたデザインの工夫ですとか、日本人向けならではのサイズ調整の妙は、グローバルでデザイン展開している海外のブランでは対応不可能なんですよ。というわけで、弊社はドメスティックブランドの一角を占めているわけですが、同時に、マーケットの拡大余地が自ずと限られてくるのです。CEOは、多角化であさっての事業を加えるつもりはありません・・・。いや、明確な新需要が見えてれば、もちろんそれに向かいたいとうちのCEOも思っているんですよ。でも、今はそんな経済環境じゃないですよね。それで、本業が順調であればあるほど、キャッシュが積み上がっていくという状況で、それをファンド側が不効率だ、怠慢だと言ってくるわけです」

「なるほど、わかりました。じつは私は、デフレ局面では、キャッシュリッチ状態は全然悪いことではないと思っています!」

T社の二人は、ビックリして末席を正視しなおした。

*4: 「ハゲタカ」はバイアウト・ファンド(Buy-Out Fund)のなかでも苛烈なものの日本語的俗称(英語ではVULTURE FUND)。ちなみに、ハゲタカは生物分類としては存在せず、死肉を主な餌とする一群の種の総称はハゲワシ。禿鷲(ハゲワシ)の誤読が語源との説もある
*5: cf."Principles of Corporate Finance(Global ed of 10th revised ed)"(by Richard A. Brealey/Stewart C. Myers/Franklin Allen,2010)、『コーポレート ファイナンス(第8版) 下』(リチャード・ブリーリー、スチュワート・マイヤーズ、フランクリン・アレン/著、2007年)

MBAの教科書には載っていないデフレ下の戦略

気を良くした末席は、ここぞとばかりに一気に畳み掛ける。

「インフレ局面では、MBAの教科書どおり、キャッシュリッチすぎると、資本コストの金利分がロスになるので、『怠け者資産』と言われても仕方がないでしょう」*6

「ただ、デフレ下では、本業が好調なドメスティック企業は、合理的に振舞うとキャッシュリッチになるのが当然なのです。これは残念ながら、デフレを想定していないMBAの教科書には出てこないのですが・・・」*7

「実際、キャッシュがあるからという理由で中途半端な設備投資をすると、デフレ下では痛い目に遭います。減価償却で価値が失われていくのに加え、デフレでのプライスの低下がのしかかってきます」*8

「逆に、現金で持っていれば、翌年には同じ設備が低いプライスで手に入ります。来年に先延ばしできるなら、そのほうがいいですよね」*9

「また、デフレ下では景気が良くないため、継続性の不確実性も増します。そうすると、現金即決であれば、50%引きで設備を譲りますよ、という案件も出てきたりします。そうすると、それだけで50%のリターンを得られたのと同じ効果があるのです。キャッシュを潤沢に持っていればこそのオプションですし、実際の現場を持ったことがある人であれば、これは実感できるのではないでしょうか」*10

「うーん、たとえば、苦しいライバル企業のラインを、安く買えて、相手もひとまず助かる、ということか・・・」。CFOは、唸り声で合いの手を入れた。

「そうなんです、僕だったら、ハゲタカなんて、そうやって追い返しますね、キャッシュリッチで何が悪いんだって。そっちの魂胆は、デフレのせいで上がらない株価のわりに、僕たちが汗水たらして稼いだキャッシュが貯まっているから、啜り取ろうと屁理屈をつけてるだけでしょ、ってね!」

末席の強気の発言に、俄かに三人の連帯感が高まり、テーブルは高揚感に支配された。

「もっと細かくいえば、バランスシートの左側、つまりアセットのほうでは、従来の教科書のようなワーキングキャピタル(流動資産)か固定資産かの二分法で捕らえるのではなく、キャッシュかそれ以外かの区別が重要性を増してきます。ワーキングキャピタルは、原材料や在庫とキャッシュなどで構成されますよね。キャッシュ以外は許容される範囲で薄く持つべきですが、キャッシュは厚くていいわけです」*11

「なるほど、デフレ下では、資産をシンプルにキャッシュかそれ以外かで分けるほうが大事なわけか」。次期新事業担当は、自分の今後のことを忘れて、感嘆の合いの手を入れた。

「でも、だからって、このまま手をこまねいていていいんでしょうか?」。CFOは、次期新事業担当を慮るように言った。

「このままでよいとは、積極的には言えないかもしれませんが、デフレ下ではそう振舞ったほうが得だ、という状況になりやすいのです。つまり、デフレ脱却の波を捕らえられるまでは慎重に、ということが、今日の嶋野主任のメッセージなのですね」

「休むも戦略、か」。CFOは、眉間に皺を寄せつつ、虚空を睨んだ。*12

「もちろん、日本の景気のためを考えれば、このままではいけません。企業は新事業を展開し続けるべきなんです。ただ、デフレのままだと、つまり総需要が回復しないままでそのように行動すると、その企業にとっては損をしやすいですし、場合によっては討ち死にしてしまう。それはイヤですよね」*13

「でも、ハゲタカは、このまま黙っていないかもしれません、現在5%弱を保有している彼らは、このまま買い進んでくるかもしれない」

「嶋野リポートでは、彼らの資金量は200億円弱と推定されていますね。それを全部使ったとしても、現在の株価では30%も買えませんから大丈夫だと思いますが、念のため、配当金の割り増しと、あわせて、将来の新事業の資金調達用名目での新株予約権の設定上限を引き上げるように取締役会に提案してください」*14

次期新事業担当は我に返って、末席に質問を投げかける。
「じゃあ、いつになったら、デフレじゃなくなるんですか!自分は、新事業展開に大きな自信を持っているんです。やりたいのにやれない状況だなんて、うんざりなんですが・・・」

「さーて、いつまででしょうね。それは、私にはお答えする資格がなくて、じつは日本政府が答えるべき問いなのです。どうしたらデフレ脱却が見えるか、に関しては、またこんど、末席をご指名していただいたときに御説明させてください」

ちゃっかりしてるなこの人は。次期新規事業担当者は、小さく笑った。

「いまはまだ、マクロ環境の動向の波を観察すべき、か。嶋野主任はそこまで考えて、我々が冷静になるように、あえて今日は不在にされたのかもしれんなぁ。さすがだ」

一人ごちるCFOを正面に、それは買い被りすぎだよ、と末席は心の中でツッコミを入れた。

*6*5と同
*7*8*9*10cf.『グロービスMBA集中講義 ファイナンス教室』(グロービス/著、2010年)
*11資金繰りの大切さを示すものとして、「キャッシュ・イズ・キング(cash is king)」という表現があるが、デフレ下では、その上をいくため「キャッシュは皇帝(cash is emperor)」といえるかもしれない
*12cf.「孫子」虚実篇(B.C.500?)
*13合成の誤謬 cf."Economics"(by Paul A. Samuelson/William D. Nordhaus ,1948)、『経済学』(P.A.サムエルソン、W.D.ノードハウス/著、1974年)
*14ユシロ化学工業、ソトーの対スティール・パートナーズ買収対抗策(2003年)、東京放送の対楽天買収対抗策(2005年)などを参照

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