じつは、デフレはMBAにとっても大問題 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

MBAスクールでの講演依頼

「…そうですか、では、うちの主任の嶋野でどうぞよろしくお願いいたします」

電話を置いたマネジャーは、やれやれ、という表情でため息をついた。そして、こういうときは、必ず猫なで声で僕に近づいてくる。

「あれ、そこにいるのはウチのエースの末席さんじゃないか」

まるでコントかと思うくらいの定番的な展開に、嫌な予感を覚えつつも、マネジャーの次のせりふを予測して、自分から言ってみる。

「じつは…、なんでしょうか?」
「いやー、話が早い。じつは、講義依頼の催促があってね、ぜひ出張講演してほしいんだ。例の…」
「あ、千代田リーグの他流試合の件ですね」

千代田リーグとは、東京千代田区にあるMBAスクール4校の俗称で、アメリカの東部の蔦のからまるような伝統校*1にちなんで呼び慣らわされるようになった。同名のサッカー同好会にも所属している末席は内心、この名前がいつも紛らわしいと思っているのだが、顔には出さない。
「でもそれ、主任が出るのでは?」
「そうなんだけどさ、まあ、ほら」
「代わりに出ろ、と?」
「いやー、ありがとう、快諾してくれて」

末席が正式に受諾する前に、今度はマネジャーが末席の返事を先回りして言った。言い方は丁寧であるのだが、つまり末席には断るという選択肢が「あらかじめ、ない」のだ。オプションを提案しているようでいて、じつはそうではないということは、MBA流の交渉術を読むまでもなく、世の中にはよくあることだ。

講演は一週間後なのだが、基本的に主任は、よそのスクールに行くことをあまり好まない。依頼側は当然、集客のことを考えるので、看板研究員である主任に講義をお願いする。ご近所づきあい上のリスクもあり、マネジャーはそのオファーを無碍にはできない。というわけで、この手の話は僕のところに辿りつく。末席にとっては、外に行くのは嫌いではない質なので、多少プライドが傷つくことに目をつぶれば、基本的には嫌な話ではない。この世の中、需要と供給のプロセスはシンプルではなかったりするが、落ち着くところには落ち着くものだ*2。…と、まあ、少なくとも僕はそう納得しようとしている。

「くれぐれも、主任が急に体調が悪くなったので、との、おことわりをいれといてね」

一週間後の主任のスケジュール・ボードに「急病」と几帳面に書き入れたマネジャーは、すでに猫なで声ではなくなっていた。

*1: Ivy League. 現在は8校だが、当初は4校(コロンビア、プリンストン、ラトガース、イェール)
*2: cf.「すべての商品は貨幣に恋をする。しかし、その恋路は滑らかではない」(『資本論』カール・マルクス/著)

他学での講義

「ではでは、本日はお手柔らかによろしくお願いいたします」

末席は講義を開始した。いつもながら、アウェーな空気をひしひしと感じる。この独特の雰囲気は、母校愛ゆえのライバル心からくるのだろうか。イタリアのフットボールリーグのセリエAでは発炎筒が焚かれ、時にはレーザー光線でGKの目を狙うということもあるそうだし*3。「いまどきには珍しく、ここにいるみんなは熱い思いを持っているな、うちのスクールだって負けちゃいないが」と感心しながら周りを見回してみると、それにしては空席の数が多い気もする。もしかしたらこのアウェー感は、たんにお目当ての講師が来ないことに関する失望と怒りだという可能性もあるのではないか。因果関係とはなかなか特定がしにくいものだ*4。末席は気を引き締める。
「みなさんは、スクールでデフレ現象を習いましたか?」

受講者は、一様に小さくクビを横に振る。なかには、MBAに何の関係があるの、という顔をする人もいる。アウェー感を強く醸し出している人の中には、顔に出すだけでなく、声にも出してしまっている人もいる。

こういう反応は、じつはのちのちの盛り上がりのための格好のガソリンにもなる。…はず、と末席はそう信じた。
「習っていない人が多そうですね。でも、じつは、デフレはMBAにとっても大問題なのです!」
聴衆が一様にびっくりしたことに気をよくした末席は、調子よく続けた。

「デフレは大問題だという認識が広まってきたと思いますが、デフレの何が大問題かということに関しては、意外にもそれほど理解されていないかもしれないのです」
「その問題をひとことで言うと、デフレ下では景気(経済成長)がよくなりようがないということです」
「デフレで景気がよくなりようがないと、需要(マクロ経済学で言う総需要)が縮小してしまい、企業はその縮小するマーケットに向けて、とんでもない削り合いに巻き込まれるわけです。そうです、経営戦略の授業をとっている人はもうおわかりですね、『レッドオーシャンの深刻化』が起こります」*5
「また、ブルーオーシャン的に新しいビジネスを作ったとしても、不況だと基本的にお金がまわりませんよね、すぐダメになったり、まあまあの景気のときならローンチできたものでもそれができなくなる、といったことが起きてきます。私はそれを『ブルーオーシャンの蒸発』と呼んでいます」*6
「そして、デフレは貨幣錯覚を引き起こします。貨幣錯覚とは、『実質』と『名目』のギャップから生まれる、直感的な理解を妨げる感覚です」*7

「たとえば、みなさんのお給料が、400万円から399万円になったとしたら、どう思うでしょうか。お給料が下がったと思うでしょうか」
「当然、下がっていますよね。400万円で買えるものと、399万円で買えるものであれば、400万円で買えるものほうが多いですので、それは本当にそうだと思います」
「ですが、デフレが進んで、インフレ率が-1%だとします。そうすると、じつは、実質的に396万円で、昨年の400万円と同じものが買えるのですから、3万円分、給料が上がったともいえるわけです」
「3万円分給料が上がったという見方を『実質』、1万円分給料が下がったということを『名目』といいます」
「じゃあ、どっちが正しいんだ、と思われるかもしれませんね。正しいかどうかで言えばどちらも正しいのです。ただ、適用する際に、これならこっちで見ます、というのはあります」
「購買力でみれば給料は上がっているのに、額面で見れば下がっている。そのときに人間は購買力も下がっているものと勘違いしがちです。じゃあ、その勘違いを正して、合理的に考えればいいじゃないか、そう考えるかもしれません」*8

「でも、デフレだっていう数字が出るのは、統計を確認してからになるので、後になってからしかわからないとしたらどうでしょうか!経済研究所に勤める僕だって貨幣錯覚からは自由とは言えないのです」*9

「ましてや、一般の人は、そんなインフレ率をいちいち加味して判断するでしょうか?多くの人は(たぶん99%以上の人は)そんなことはしないと思います」
「というわけで、個人は渋ちんになり、消費は伸びないわけです。仮に名目で給料が微減しつつ実質で購買力が伸びているとしても、消費が増えることはあまり期待できないわけですね。これで、総需要が小さくなるイメージがつかんでもらえるのではないでしょうか」
「そのことは、企業活動も圧迫してくることは明白でしょう、企業にとってはモノを売りにくいのですから。しかし、大変なことはもっともっとあります」
「それは、お給料を出す側としての痛手です。デフレ下の場合、昨年と同じお給料に据え置いたとしても、じつは実質的にはお給料を多く払っていることになるからです。労働者のお給料を下げることに関しては、法的、モチベーション的に非常に代償の大きい行為たりうるので、貨幣錯覚はなかなか難しい問題になります」*10

「さらに、投資活動がしにくくなります。工場や原材料を買っても、金額ベースで見ると寝かせておくだけでどんどん価値が下がっていくからです。これはいやですよね、投資はできるだけしないで、現金で持って、来年・再来年までまったほうがいいや、となってしまいます」*11
「これがまた景気を悪くするスパイラルをまわします。これを予期デフレと言います。そして、不況の大元凶となるわけです」*12

「また、お金を借りるときに、デフレ分は金利に上乗せされることになります(実質金利)。たとえゼロ金利下であっても、名目金利は1~3%はあるでしょうから、インフレ率-2%だとすると、実質金利は3~5%ということになり、企業活動を圧迫します。また、政策金利(名目金利です)はそれ以上下げられないため、実質金利は高止まりしたままになり、景気がよくない状態を長引かせてしまいます。これが、『流動性の罠』のざっくりとした説明です」*13

「さらにいえば、キャッシュフロー計算が難しくなります。金利想定にインフレ率想定もして、しかも不況であれば継続性リスクも不確実性を増します。これではもう、MBAレベルのファイナンスをもってしては、想定しにくいことこの上ないわけです」*14*15
「ですので、ここまで見てきただけでも、デフレは大変だ、というのはわかっていただけるのではないでしょうか」

「MBAホルダーのマネジャーからみれば、いい財務諸表の数字は作りにくいわ、HRMには神経をつかうわ、実質金利は重いわ、キャッシュフローが想定しにくいわで、もうイヤになる毎日だと思いますが、それは、大部分がデフレ由来の可能性が大なのです!」

教室は、しばらくシーンと静まり返ったままであった。

 

*3: 2009年10月28日に行われたナポリvs.ACミラン戦。ナポリはこれにより1万5000ユーロのペナルティを受ける
*4: cf."Statistics and Causal Inference"(Paul W. Holland,1986)
*5: cf『ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する』(W・チャン・キム、レネ・モボルニュ/著)
*6: *5と同
*7: "The Money Illusion"(Irving Fisher,1928)
*8: 経済学には、予期を含め、完全に合理的な人間を想定する学派もある。Cf.合理的期待形成学派etc.
*9: ただ例外的にBEI(ブレーク・イーブン・インフレ率)を確認するという方法がある
*10: 賃金の下方硬直性。cf.『マクロ経済学(1、2)』(グレゴリー・マンキュー/著)
*11: たとえばドメスティックな優良企業がデフレ下において合理的にふるまうとバランスシートはキャッシュリッチになるという議論がある。Cf.『グロービスMBA集中講義 ファイナンス教室』(グロービス/著)
*12: Y(産出)=I(投資)+C(消費)とすれば、Yの成長にとっては、Iの影響がより大きいといわれている
*13: cf.“It’s Baaack! Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap”(Paul Krugman,1998)
*14: MBAレベルのファイナンスに関しては、『コーポレートファイナンス』(リチャード・ブリーリー、スチュワート・マイヤーズ、フランクリン・アレン/著)、『ファイナンシャル・マネジメント』(ロバート・C・ヒギンズ/著)などが代表的
*15: というわけで、これらの現象に対処するためには、複雑系、行動経済学などのMBAでは習わない理論ベースの理解が必要だという認識が、ここ十数年の日本のデフレや、2008年の金融危機などを機に広まりつつある。cf.『禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン』(ベノワ・B・マンデルブロ、リチャード・L・ハドソン/著 2008年)、『経済物理学の発見』(高安秀樹/著 2004年)、『アルファを求める男たち』(ピーター・バーンスタイン/著 2009年)

質疑応答

まじめそうな男性が手を挙げ、マイクを手にした。少し緊張気味のようだ。

「僕はMBAホルダーなのですが、実感値と整合して把握できるものも多かったです。ただ、それらの大部分がデフレに関係していると聞くと、正直、違和感があるのですが」

待ってました!とばかりに、末席はにこやかに答えた。「マクロ環境は、個体の振る舞いに大きな影響を与えます。デフレに関してもそうで、たとえば水泳をするときに、普通のプールか、流水プールかの違いがあるわけです。逆流の中を泳ぐと、かなり体力を消耗しますよね。当然、同じ距離を泳ぎきるのに時間も大幅にかかるでしょう。かたや、となりのプールは普通のプールで、とても泳ぎやすい。このプールを国に置き換えると、タイムに歴然とした差が生まれますよね」

「えっ、じゃあ、たとえば日本だけデフレで、他国はそうでないとすると、なんかこう、ものすごい不利というか…」。質問者は困ったような、複雑な表情を浮かべる。

「そうですね、それで他国の企業と比べてタイムが出てないじゃないか、やっぱり泳ぎ方のフォームが悪いんじゃないか、いやいや健康管理がなってないんじゃないか、と原因を探っていってしまいますよね。人間って原因がわからないとものすごく不安になるので、身近に犯人を作りたがることもあるわけです。でも、泳ぎ方を変えても、健康管理に細心の注意を払っても、タイムは一向に伸びないわけです」

今度は、威勢のよさそうな聴講生が、声を荒げながら言った。

「自分は水泳をやっています。インターハイにも出ました。という理由で手を挙げたわけでもないのですが、デフレだけが原因ってわけでもないのでは。それだと、デフレだともうどうしようもないという結論になってしまう。他にも原因がたくさんあって、複合的なものというのならまだわかりますが」

それにも、すかさず末席は答える。

「それはそうかもしれませんね。でも、デフレというだけで、もうかなり致命的なんです。競泳をしていた人には当然過ぎて申し上げるのもアレなのですが、タイム差0.1秒単位とかのギリギリの状況で勝ち負けを競う場合、少しの水温の違いや水流の乱れにさえ神経をすり減らす世界ですよね。それで水流が違うとなると、はっきり言って、もう勝負にはならないですよね。企業の勝負は実際、そのくらいシビアな世界だと思います。また、企業の場合はさらに、勝ったところはどんどん有利になってきて、その差が拡大していきますよね、この影響は大きいと思います」

「じゃあ、デフレだともう何も出来ないということ?するなっていうこと?」

大きな声が、さらに荒々しくなってきている。

「うーん、出来ないというよりは、何もしないことが最良の戦略になってしまう、という状況になりやすいといえます。たとえば設備投資もしにくいですし、在庫も持ちづらい。逆に現金で持って寝ていれば、将来的に購買力がどんどん増すのですから、失敗しやすい環境下で行動している企業より、相対的に大きな力を持つ可能性が高いのです。それは、出来ないとかするなというよりは、損得の問題です」

「でも、働かざるもの何とやらじゃないけれど、ずっとそれだと許されないんじゃ…」
「ええ、それだと当然、景気はどんどん停滞しますよね。でも、みんな、節約を楽しんでいるじゃないですか。服ってこんなに安くなるんだ、100円ショップでこんなものまで買えるんだって」*16
気の弱そうな聴講生が、勇気を振り絞って反論に立った。これは、彼にとって、よほどのことだったのだろう。

「あのー、それって、そこに行きたくて行ってる人ばかりじゃないと思うんですけど。僕もその一人です」

「じつは、僕もなんですよ!奇遇ですね!」

あっけにとられた彼らは、異口同音に言った。

「でも、デフレを何とかする方法はないんでしょ?受け入れるしか?選択肢はあらかじめ、ないってこと?」

末席はもったいぶりつつ、得意げに言った。

「さて、どうでしょうね?それに関しては麹町経営大学院でお答えしましょう、ぜひいらしてください、ではまた!」

なんだ、最後はスクールの宣伝かよ!という怒号の中、そそくさと末席は会場を後にし、講演はお開きとなった。

「末席も、なかなか、やるじゃないか」。同行したマネジャーは、下を向いて笑いをこらえていた。

*16: たとえば、デフレが続けば、100円ショップが価格改定をしない場合は、実質で値上げを続けているような効果がある。100円ショップがデフレ商売と言われる理由はここにもある
*次回は、末席が、遊び呆ける嶋野のピンチヒッターとして、クライアントを訪問。重役に、デフレ下での戦略について話します。末席は代役を立派に務められるのか…。お楽しみに!

名言

PAGE
TOP