本当に同じ重み? -「どっちもどっち」論法 

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問題です

以下の会話の問題点は何でしょうか。

父: 「おいおい、何を姉妹ケンカしているんだ」
妹: 「お姉ちゃんがいきなり私のことぶったから、ちょっとカッとなってお姉ちゃんの髪を引っ張ったの。それだけよ」
姉: 「いきなりじゃないわよ。○美(妹)が私のケータイメールを勝手に見たのよ。いくら姉妹でもプライバシーってものがあるでしょ。ケータイメールを無断で見るなんて信じられない。だからカッとなって」
父: 「だからって、ぶつやつがあるか」
姉: 「じゃあ、どうしろって言うの」
父: 「まずは口で注意すべきだろう」
姉: 「○美は口で言って聞くような子じゃないでしょ」
父: 「だからと言って暴力はダメだろ。暴力はちょっとしたはずみで怪我になることもあるんだから。○美もだ。今回は、どっちもどっちだな。二人ともちゃんと反省しなさい」

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解答です

今回の落とし穴は、「どっちもどっち」論法です。「お互いさま」論法とも言えるでしょう。正式な用語ではないですが、私はそう呼んでいます。本来、両者の非にかなりのアンバランスがあるにもかかわらず、お互いに責められるべき点があったということを根拠に、両成敗としてしまう落とし穴です。

これは特にミクロな人間関係のレベルで起こりがちです。従業員同士のいざこざや、近隣住民とのトラブルなど。本来なら、「こちらの方が悪い」となりそうなところでも、「どっちもどっちでしょ」でかたがつけられてしまったケースは、皆さんもご経験があるのではないでしょうか。

本来であれば、

・どちらにそもそもの原因があるか(どちらが先か)
・どちらがより大きなダメージを与えたか

といった要素を見極めたうえで、ペナルティに軽重をつけるべきと思えるのですが、なかなかそうはなりません。なぜでしょうか?

一つの理由として、日本人の、「関係性重視」の気質があるのかもしれません。これは、事の善悪やその軽重以上に、その後の人間関係をより重視するという傾向です。あまり明確に白黒をつけるとその後の人間関係が難しくなるので、「どっちもどっち」としておくことで、その後の人間関係をスムーズなものにしようという知恵とも言えます。

「ある案件で一方の非が大きくても、そのうち別の案件で相殺されるだろう」という見込みや予想があると、その傾向はより加速されます。ひょっとすると、問題で取り上げた父親は、「そのうち、姉の方が原因でケンカになることもあるだろう」と考えてその場を収めたのかもしれません。

もう一つ「どっちもどっち」論法が用いられる理由として、「事なかれ主義」も考えられます。面倒な議論を引き起こして時間をとられるくらいなら、見て見ぬふりとはいかないまでも、軽く流しておいた方が得という発想です。

「どっちもどっち」論法は、生活の知恵としての効用は否定しませんが、それも状況によりけりです。仮に「非」が測定できるものとして、それが40対60ならまだしも、1対99の状況で両成敗とされたら、「1」の側の人間に大きなわだかまりが残る可能性は非常に高いと言えます。ペナルティを与えるべき時にペナルティが与えられないことは、「得」をした側にとっても、長期的に見れば、必ずしもプラスに働くとは言えません。今回のケースでは、妹の方は図に乗って、友達にも同じことをしてしまうかもしれません。長期的に見て必ずしもプラスにならないのは、裁定をした側も同様です。

やはり、安易な「どっちもどっち」に逃げるのではなく、「非」にアンバランスがあるときには、しっかりとその非を咎めることが、長期的に見て、良いコミュニティを作ると思います。目途としては短期(数日から数週間程度)で1対2、あるいは1対3以上のアンバランス、長期(数カ月)では2対3、あるいは3対4以上のアンバランスでしょうか。そのバランス感や測定は非常に難しいですが、ぜひ皆さんなりに基準を設けて、咎めるところは咎める勇気を持ちたいものです。

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