少年Dの話 ―リーダーシップはどこで宿るのか? 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

4111

物事を始めるための小さくて現実的な第一歩。そのチャンスを、私は決して逃さない。たとえマスタードの種のように小さな一粒のはじまりでも、芽を出し、根を張ることがいくらでもある ―― ナイチンゲール

先日、「ある少年」の話を聞いた。それ以来、どうやって人間にリーダーシップが宿るのか考えている。

この少年(Dくん)は、茨城県鹿島市に生まれ育った。お父さんは結婚式場や宴会場で働く料理人。家では無口でひたむきに働き続ける人だった。お母さんは主婦で、山登りとバトミントンが好きだった。

Dくんは長男として生まれた。後に弟・妹が生まれた。

Dくんは、スポーツが好きだった。特にボールを投げるのが好きだった。4年生でソフトボールのチームに入った。走るのはそこそこ速かった。

魚が好きだった。特にシロナガスクジラに憧れた。小学校6年の時に、「僕はクジラになりたい」という文章を書いた。人前で話すのが苦手だった。話をできずに、授業中に泣いたこともあった。

D君は近所の公立中学校に進んだ。野球部に入った。周囲はぐんぐん上手くなっていく。Dくんは取り残された。しかも弟は運動神経抜群で、小学校時代から市の大会で活躍するほどだった。Dくんを上回っていた。しかしDくんは、特に弟に嫉妬することはなかった。自分をレギュラーにしなかった監督に怒りを感じることもなかった。温厚で内向的な性格だった。強い成功体験もなく、激しい挫折体験もなかった。

県立高校に入った。野球を続けた。レギュラーに定着した。続けて良かったとDくんは思った。ささやかな成功体験が生まれた。

当初は成績が良かった。しかし野球部の活動と勉強との両立は難しかった。成績は降下した。卒業した時は、240人中200番だった。

当然大学に進学できるわけもなく、彼は専門学校に進んだ。スポーツ選手をケアする仕事が良いと思った。東京スポーツレクリエーション専門学校に入学した。東京で初めての一人暮らしをした。

スポーツを愛したDくんだったが、結局スポーツのトレーナーにはならなかった。非常なハードワークで、稼ぎも良くない。自分には続けられないだろうと思った。

しかし、人間の身体は面白いと思った。小学生の頃はなぜかクジラの身体に魅了されたが、今度は人間の身体だった。学ぶことが楽しかった。

就職の時期が来た。選択肢は、接骨院か、スポーツ施設か、スポーツ器具のメーカーか、または介護やリハビリの仕事か…。彼は人生で初めて、真剣に悩んだ。結果、「ちょっと興味があった」リハビリの道を選んだ。病院に就職した。志望動機はスカスカだったが、採用された。応募者がDくんしかいなかったと、後で知った。

ここまで、リーダーシップ体験的な話は一切ない。大きな成功体験も、特にない。

彼は病院で、理学療法士の助手として働いた。面白いと思った。ケガをした人が、リハビリをして、退院していく。脳梗塞や脳内出血を起こした人が、集中的なリハビリを経て、日常生活に復帰していく。

しかし、問題があった。退院していった人たちが、また自宅で転倒し、病院に戻ってくる。転倒を予防しないとダメだと思った。自分も理学療法士(リハビリの専門家)の資格を取ろうと思った。3年間勉強して資格を取った。

埼玉県の病院に就職した。4年間働いた。いろいろな施設を回った。整形外科。老人保健施設。施設の立ち上げを2回経験したことは、彼の大きな財産となった。医療保険、介護保険がカバーする「外」に、リハを必要としている人たちがいるという実態を知った。彼の物静かな語り口と、穏やかな性格は、老人たちに愛された。

そして、2011年3月11日が来た。震災が起きた。

鹿島も被害を受けた。実家の瓦が崩れた。動揺する両親。それを見ていてDくんは考えた。「うちの両親でもこれだけショックを受けている。福島、宮城、岩手の人たちは、もっと大変な思いをしているのだろう」

同じように考えた人は、全国で無数にいたと思う。しかしDくんは、小さな行動を取り始めた。

ツイッターで検索をかけた。被災地の情報を調べた。そこから全てが始まった。

千葉県に、リハビリ専門の医師がいることが分かった。ツイッターでメッセージを送りあった。情報交換をした。その医師は、5月のGWに被災地に入る予定だった。しかし行けなくなった。代わりに、自分が行こうとDくんは思った。

5月2日、宮城県の災害支援室を訪れた。理学療法士の自分に、何か役に立てることがあるはずだと考えた。支援室のリーダーの医師に、沿岸部の状況を聞いた。

「わからない」と言われた。情報がない。情報を取りにいくことが、重要な貢献だと理解した。

ネットカフェに泊った。介護施設を検索した。翌朝、電話をかけた。偶然、1件目に電話した岩沼市のデイサービスにつながった。現地を訪問し、介助の方法や福祉用具の使い方を助言した。ささやかな貢献だった。

名取市閖上の被災現場を見た。こんな光景が数百キロも続いていると想像し、圧倒的な無力感を感じた。

D君はその状況を、ツイッターで流した。個人で動いていた医療従事者たちとつながった。つながった相手は、被災地を支援したいと願う人達のコミュニティを持っていた。その会に参加し、被災地の状況を話した。人前で話すことは相変わらず得意ではなかったが、懸命に話した。

結果的に、医師が1人、年上の理学療法士が1人、そしてDくんの3名が中心となり、被災地支援のための団体を作った。団体名は「face to face 東日本大震災リハネットワーク」。自分は表に立つような人間ではないと、Dくんは思っていた。しかし行きがかり上、彼は当初代表者に。そしてその後には副代表になった。実に1200名以上のボランティアの専門家(理学療法士や医師など)を、被災地に送った。

Dくんたちは手分けして、石巻の仮設住宅を訪問していた。全1500戸の地区を担当した。その中に、一人の70代の男性がいた。長年農業をやってきた。亭主関白な人だった。特に病気はなかったが、歩きづらそうにしていた。コタツから出なくなった。仮設住宅から出なくなった。体力が落ちて行った。転倒して骨折した。寝たきりになった。ますます筋力は落ちた。肺炎になった。結局2012年9月に亡くなった。

そのプロセスをDくんは見ていた。止めることはできなかった。なぜ止められなかったのかと、Dくんは考えた。

結論が出た。

自分が石巻に住んでいないからだ。

埼玉から通うのでは、限界がある。石巻市の中でも、現地の理学療法士がカバーできていない空白地帯がある。そのことを知りながら、行動を起こさないということはできなかった。

今、Dくん…橋本大吾氏は、「社会起業家」と言われている。ETICで学び、グロービス経営大学院でビジネスプランを描いた。石巻でリハビリや介護予防のデイサービスを立ち上げ、登米に2店舗目を立ち上げた。Forbesの表紙も飾った。クラウドファンディングで資金を集めつつ、地域の住民の力を活かした介護予防を展開している。先日は、90歳のおばあちゃんが「卒業」し、筋力をつけて農業に戻る様子が、ソーシャルメディアの界隈に衝撃を与えた。

彼の人生を見ていると、いわゆる「起業家」的な攻撃的なところが一切見られない。今も大吾氏は、無口で、物静かな理学療法士だ。

震災が彼の人生を変えたが、彼の人柄は変わらない。結果的にリーダーになったが、別にリーダーになりたかったわけでもない。語り口にはカリスマ性のかけらもない。ぼつり、ぼつりと話す。それを聞いた僕が、その内容をまとめたら、こんな不思議なストーリーになった。

リーダーシップとは何だろう。人はどうやって、リーダーになるのだろう。

◆ご参考:
Dくんが現在エントリーしているクラウドファンディング(目標金額=300万円)
~石巻・登米地域から誰もが健康的に生活を継続できる環境を作ります!~
体を作り・仲間を作り・役割(居場所)を作って地域を元気に!

名言

PAGE
TOP