タクシー王子、暗黒を走り抜け戦略を知る —日本交通・川鍋一朗氏【前編】 

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川鍋 一朗/カワナベ イチロウ

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日本交通株式会社 代表取締役社長

1970年生まれ。1993年慶應義塾大学経済学部卒業。1997年ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院MBA取得。同年9月マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク・ジャパン入社を経て2000年1月日本交通に入社。2005年8月代表取締役社長就任。2007年末に自ら1ヶ月ほどタクシー乗務員を体験。三代目として『黒タク』『陣痛タクシー』『キッズタクシー』『ケアタクシー』『観光タクシー』導入や『日本交通タクシー配車』『全国タクシー配車』アプリ開発など改革を進め、日本交通グループとして約3800台の国内最大手のハイヤー・タクシー会社を牽引。2013年6月に全国ハイヤー・タクシー協会の副会長、2014年5月東京ハイヤー・タクシー協会の会長に就任。

東京最大手タクシー会社の3代目御曹司。だが、入社した時に会社は1900億円の負債を抱え瀕死の状態にあった。「暗黒の5年」「リハビリの5年」を経て、経営者として大きく成長。攻めに転じ、2年後、海外を狙う。「圧倒的なユニークネス」と「多くの者の共感を呼び揺り動かすビジョン」という一見、相矛盾する要素を兼ね備え、圧倒的な価値を生み出す“バリュークリエイター”の実像と戦略思考に迫る連載第5回前編。(企画: 荒木博行、文: 水野博泰)

その光景を、10年前に誰が想像しただろうか。

若社長が爽やかな笑顔で軽快に踊る。そして、年配の運転手たちがぎこちないながらも懸命に、若い社員が楽しそうにノリノリでダンスを踊る——。2013年10月に動画共有サイトYouTubeで公開された「恋するフォーチュンクッキー日本交通Ver.」には、社長を中心にして社員がまとまった明るい職場が映し出されていた。タクシー会社のおじさんたちが踊る姿が面白いと、公開半年で200万回以上も視聴される人気動画となった。

そこには、2000年代前半、1900億円もの負債を抱え、解体・倒産か、外資ファンドに売却かという瀬戸際にまで追い詰められていた頃の陰鬱で刺々しい空気は少しもない。

川鍋一朗、43歳。タクシー大手・日本交通の3代目社長として、巨額の負債を抱えた同社を大胆な施策と実行力で再建させたニューリーダーとして知られる。リストラとリハビリに明け暮れた長い暗黒時代を経て、今、攻めの戦略を次々に繰り出し、世界をも射程にとらえ始めている。川鍋の戦略論に迫るため、前編では最初の10年に経営者としての川鍋の中でどんな変化が生じたのかをトレースしていく。

負債1900億円からの発車

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日本交通(本社・東京都北区、資本金1億円、非上場)は、1928(昭和3)年創業の老舗ハイヤー・タクシー会社である。創業者・川鍋秋蔵が銀座・木挽町で始めたハイヤー事業が85年の歴史の始まり。1945年には政府指導により、東京のタクシー会社は大和自動車交通、日本交通、帝都自動車交通、国際自動車の4社(業界で言うところの“大日本帝国”)に統合されることになり、以来、東京4大タクシー会社の一角を占めている。2013年5月時点でグループの社員数は7122人、保有車両台数はハイヤー1179台、タクシー3659台、売上高655億円の業界トップ企業である。

“恋チュン”を軽やかに踊る川鍋一朗は、創業家3代目社長。祖父が「タクシー王」の異名を取ったのにあやかって「タクシー王子」と呼ばれる。生まれながらにして日本交通の社長になることを運命づけられ、そのために生きてきた。生まれ育ったのは東京・麻布の一等地にある豪邸。慶応は幼稚舎から大学までストレートに上がった。大学で体育会系スキー部の主将を務め、米ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院でMBAを取得したが、これは、年功序列の理不尽な世界と、論理がすべての世界を両方見ておきたいという川鍋自身の長期戦略に基づくものだった。MBA取得後には、祖父が会社を興した30歳になるまでは修業期間と決め、戦略コンサルのマッキンゼー日本支社に入社した。

長身でイケメンの御曹司、人も羨む恵まれた境遇だが、マッキンゼー時代に川鍋は自分自身の限界を感じていたという。「会議についていけず、何もしゃべれない。黙っていたら『発言しないなら、いなくていい』と上司に怒られた。(中略)コンサルタントは向いていなかったと、つくづく思う」(2013年7月20日号週刊東洋経済)。実績で評価される世界で、バリューを出し切れない自分自身に対する苛立ち。川鍋にとっては、おそらく初めての挫折体験だったのではなかったか。

マッキンゼーは約3年で辞め、2000年、川鍋30歳の時に日本交通に入社する。

入社して初めて、会社が火の車だということを知った。バブル期に手を出した不動産投資などの多くがバブル崩壊とともに焦げ付き、不良債権化していたのだ。グループ全体で約1900億円。途方もない負債額を知って血の気が引いた。

川鍋曰く、「暗黒の5年」の始まりだった。

リストラとコスト削減に明け暮れた「暗黒の5年」

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当然、経営責任はバブル期を通して社長を務めた父・達朗にあったが、それに少しも気づかなかったという川鍋も甘い。だが、その怒りは父や自分にではなく、役員たちにぶちまけられた。「アスパレーション(向上心)はあるのか!」、「モチベーションを上げろ!」。声を張り上げ、自分よりはるかに年上の古参相手に横文字混じりでぶったものだから、「情」の部分に埋めがたい亀裂が走った。その後、いくら正しい「理」を唱えても全く通じなくなり、総スカンを食らう。

ついたあだ名は「アメリカ帰りのエコノミスト」。字面はそれほどでもないが、当時の職場ではそうとう辛辣な意味合いが込められていたようだ。日本交通の現場を何一つ知らず、汗をかいたこともない、口先だけは達者な傍観者というニュアンスだ。

プライドを傷つけられた川鍋がキレた。本来なら歩み寄って修復を図るべきなのに、逆に背中を向けた。2000年7月に子会社「日交マイクル」を立ち上げて、営業を開始した。以前から構想を温めていたという会員制ミニバン・ハイヤー事業で、「マイクル」というのは「MyCrew」という意味だという。理屈として筋は悪くなかった。だがそれを現場に落とし込んでいくには実践力が足りない。しかも孤立無援。最初の数カ月で数千万円の赤字を出し、慌てて撤退することになる。

これは、さすがに骨身にこたえた。会社が傾きかけている非常事態だというのに、自分自身が社内に不協和音を生み出し、会社に損害を与えていた。自分は誰よりも日本交通を愛している、自分には日本交通しかないのに、俺は一体全体何をやっているのか——。自信も誇りも打ち砕かれた。この事件は川鍋の記憶に「トラウマ」として深く刻み込まれ、川鍋の考え方と行動を変える契機となった。

「みんな」という言葉が、川鍋の口から頻繁に発せられるようになった。「みんな」の力を貸してほしい、「みんな」はどう考えているのか、「みんな」で一緒にやろう——。特に若手社員とは日本交通の未来を変えよう、小さなことでもいいから何か新しいことにチャレンジしようと語り合った。

2001年に入ると、いよいよメーンバンクが再建計画を突きつけてきた。それは創業家に退場を求め、銀行主導で再建を図るという最後通牒だった。社長・達朗や役員は諦めかけたが、川鍋は銀行案を突き返した。創業家としての意地か、はたまた御曹司という立場への未練か・・・。いずれにしても、もはや半端なことは言っていられなくなった。

資産を売り、30社近くあった子会社を10社以下に減らし、社員のクビを切った。厳しいリストラの先頭に川鍋が立つ。写真に写る当時の川鍋は、目付きが鋭く、表情は強張っていて、今とはまるで別人。最近になってようやく、そんな自分を素直に振り返る余裕も出てきた。「リストラ、借金返済、コスト削減の日々。自分を支えていたのは義務感だけで、気持ちは全然エキサイトしてこない。ビジネスって本当につまらないと思っていた」と吐露する。

長く、暗いトンネルだった。だが、川鍋は耐え抜いた。自主再建への道筋がなんとか見えてきた2005年、8月30日の株主総会で川鍋は日本交通第3代社長に就任する。その翌日、咽頭がんを患い入院していた父・達朗が逝去した。享年67。息子の社長就任を見届けての往生だった。

誇りを取り戻すための「リハビリの5年」

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その翌年、川鍋は社是・社訓を一新した。社員やステークホルダーに向けて放った3代目社長として最初のメッセージである。一読しておやっと思うのは、社是の中に「誇りを持って働き、」というフレーズが2回も出てくること。社訓にも「プライド」という言葉が入っている。日本交通で働くドライバーの誇り、社員の誇り、その家族の誇り、そして川鍋自身の誇り。人を運び送る業に就くプロフェッショナルとしての誇りを取り戻そう。社会のために在る誇り高き仕事に自信を持とう——。日本交通で働く者の心に訴えかけた。

一方、社外向けの発信にも取り組んだ。川鍋一朗の名前を世に広く知らしめた『タクシー王子、東京を往く。日本交通・三代目若社長「新人ドライバー日誌」』(2008年5月、文藝春秋社刊)が出版された。2007年大晦日から2008年1月28日までの1カ月間、タクシードライバーとして乗務した記録である。タクシー乗務員の現場を自ら体験したいという川鍋の強い希望だったが、社内からは否定的な意見が続出したという。

「また点数稼ぎですか?黙って静かにしてて下さいよ」
「社長、あんまりふざけたメールを打たないでください。この仕事が好きで働いている人間に対して失礼きわまりないと思いませんか?」
「仲間の乗務員と話し合いましたが、社長がタクシー乗務を実体験することに全員が反対でした。『卒に将たるは易く、将に将たるは難し』という言葉がありますが、私たちは社長に卒に将たる器になってほしいとは誰も思っておりません」

辛辣である。だが、こうした批判も川鍋はそのまま受け止め、ありのままに本に書き記した。もう実力以上に背伸びして見せたり、格好をつけたりすることはやめた。現場に入り、お客様と直接向き合う。考えるよりも先に行動する。それが俺のやり方だ——。暗黒の5年を走り抜けた川鍋は、その頃には経営者としての覚悟を固めていた。

もちろん、油断ができる状況ではなかった。「借金はかなり減らしたが、まだ少し残っている。収益は上がったり下がったりと不安定で、まだまだリストラ頼み。2010年くらいまでは“リハビリの5年”だった」。川鍋はそう振り返っている。「暗黒の5年」と「リハビリの5年」を合わせた10年間を、川鍋は「戦略の土台」を固めるために費やすことになったのである。

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そして2010年、ある人物との出会いが川鍋にギアチェンジを促す転機となった。

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