小学時代のふるさと東海村 ~「原子の火」と大自然 共に育つ(こころの玉手箱【1】) 

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「2011年春に日経新聞で取材を受けた「こころの玉手箱」シリーズについて、このたびブログ掲載の許諾を得たので、まとめてアップすることにしました。」

この4月12日、都心から常磐自動車道を通って福島県双葉郡に向かった。緑の大地、青い空、遠方には阿武隈高地。自然は美しく、ところどころに桜の花が咲き誇っていた。

陸前浜街道・国道6号を北上、細い道を分け入り海岸にも下りてみた。風がとても強かった。津波で壊滅的打撃を受けた「がれきの原っぱ」に立ちすくみ、手をあわせて亡くなられた方の冥福を祈った。

海岸のすぐ隣にある林の向こう側は停止している東京電力・福島第2原子力発電所。今は立ち入り禁止のこの海岸を10キロメートルほどさらに北に行くと事故を起こした第1発電所がある。

生まれてから小学校6年の12月まで、3年間の米国生活を除いて、日本の原子力開発を支えてきた茨城県の東海村で過ごした。父が、かつての「原研」、「動燃」に勤めていたからだ(統合により日本原子力研究開発機構)。1つ上の兄はウィーンの国際原子力機構(IAEA)に出向中で、震災後、福島県で放射線調査をするために4月中旬まで一時帰国していた。父方の祖父は戦後、「石炭から火力、そして原子力へ」の政策立案に深くかかわった。

東海村の小学校は、雑木林を切り開いて造った新設校。授業が終わると、林を駆け下り、田んぼを抜け、団地の家に帰る。すぐに長靴に履き替え、外に飛び出す毎日。ドジョウやザリガニを追いかけ、カブトムシ、クワガタや蛇も捕まえた。雑木林にあった防空壕の探検も楽しかった。仲のいい友達4人組で東海村の北側にある久慈川に行き、ボートが沈んで、おぼれかけたこともある。

生徒の半分は地元の農家の子供で、残りが言葉の違う原子力関係の新参者。「チエちゃん」に初恋をしたのは5年生のときだった。ほっぺたが真っ赤な農家の娘だった。

東海村はのどかな田園風景と先端技術が見事に融合していた。景勝地として知られる村松海岸にはなだらかな砂丘とクロマツ林があり、野鳥も多い。そこからは、父が働くモダンな原子力関連の研究棟が間近に見えた。全国から集まる若い研究者の知性や希望に満ちていた。

東日本大震災により先行き不透明になった日本の原子力事業。東海村から生まれた「原子の火」の行く末を、この目で確認しないわけにはいかなかった。

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