「衣食住+職」足りて“精神の飢餓感”を起こせるか 

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先日、「仕事・キャリアを考える」セミナーをやりました。参加希望者を公募するタイプのもので、いろいろな業界、職種から集まっていただきました。私は普段、企業内研修を主に行っており、顧客企業の外で、こうしたオープン型のセミナーはほとんどやりません。ですが、受講者のいろいろな個人発表を聞くに、私もたくさんの気づきが得られました。何よりもよかったのが、みなさんの真剣に参加される熱でした。セミナーを終え会場を出るときに、今晩はほんとうに“よい会”だったなと思えました。 “よい会”というのは、つまり、参加者の1人1人が真摯に仕事・キャリアを考え、それを共有し合い、啓発し合い、未来への元気を湧かし合う場ができたという意味で、よい会でした。

何年も研修やセミナーをやり重ねてくると、どれだけのものが受講者側に沁みているか、響いているかがわかるものです。その沁み具合や響き具合が、今回は近年ではまれなほど強く感じられました。人は深い内省によって心の奥底から力を得ることがありますが、そのときの静かな高揚感が、会場全体にずしんと満ちたように思います。

帰りの電車の中で私は、なぜ今晩は特にそういう会ができたんだろうと考えを巡らせました。で、得た答え。───それはやはり「飢餓感」の違いなんだろうな、と。

精神の飢餓感が真剣さを呼び覚ます

今回のセミナーの主催は大手の人材紹介会社でした。そのため参加者の多くは、その人材紹介会社とつながっている人たちです。つまりは目下、転職を考えていたり、求職中であったり、自分のキャリアに対し何かしらの手を打たなければと意識が立っている人たちです。実際、セミナーが終わった後、何人も私のところへ個別にキャリアの相談に来られましたが、いずれも転職や起業、再就職、留学に関する内容でした。中には深い悩みの方、強い決断をせねばならない方の相談もありました。また、「うちの会社は中小なので、こういう社員教育はなかなかやってもらえません。きょうはほんとうに来てよかったです」と、そもそも普段から学びの機会に恵まれない方のお礼の言葉もありました。

悩んでいるからこそ、求める気持ちが強くなる。
飢えているからこそ、手にした機会を大事にする。

そんなことをあらためて感じ取った一夜でした。飢餓感は真剣さを呼び起こします。その観点からながめると、私が普段接している企業内研修の場の雰囲気は、悩みの中から求める気持ちや、学びの機会を大事にする真剣さが必ずしも強くないと感じてしまいます。もちろん意識がかなり高い人もいます。けれど、「全員必須の研修です」といって集められる中には、「業務が忙しいのに研修か」とか、「こんな研修、自分には意味ないよ」と最初から決めつける人がいたり、表面は真面目に受講していても内省をいっこうに深めないまま適当にやり過ごす人も多かったりします。

確かにそれは研修事業者側の能力不足があって、つまらない研修を提供しているという理由があります。そしてまた、向上意欲の萎えた人たちをどうにか学ばせるのも、研修事業者の腕の見せどころでもあります。しかしながら、「衣食住+職」がひとまず安定した人たちの根っこのところの「飢餓感」や「求める心」をどう呼び覚ましていくのか、これは一研修事業者だけではいかんともしがたい難題です。

テレビ番組などでよく、貧しい国の村の子どもたちが、ボロボロの教科書と鉛筆を持ちながら目をキラキラとさせながら勉強している映像を観ます。私たち日本人はもはやあの純粋な“学ぶことの喜び”から遠いところにいます。

「腹の飢え」がなくなった私たちが、それに代わって、もっと学びたいという「心の飢え」、何かもっと大きな価値を成就したいという「心の渇き」を内面に起こし続けることができるのか。これは、個人にとっても、組織・社会にとってもほんとうに大きな課題です。日本の再生ということで、アベノミクスがさまざまに議論されています。アベノミクスはあくまで外側からの施策です。真に日本が強くなるためには、国民一人一人の内的な成長意欲、つまり、単に生きるだけでなく、よりよく生きることを志向して「心の飢え・心の渇き」を自分のなかに湧き起こせるかどうかが決定的に重要です。歴史を振り返っても、国や文化・文明を興隆させてきた根本は、人びとのなかに湧き起こるエートス(精神的気風)でした。

いまさらながら故スティーブ・ジョブズ氏の言霊が私たちに覆いかぶさってきます。

───“Stay hungry, stay foolish.” (飢えていよ・一途な馬鹿でいよ)

モノが豊富な社会にあって容易に起こらない「心の渇き」

そうしたことから想起し、「渇欲・飢え」を巡る思索を私なりに整理したのが下の図です。

人間は貧しい状態から豊かな状態を目指す性質をもっています。つまり、「足りないから満たしたい」という欲求です。もし自分が貧しい社会に生活しているとすれば、2つの欲求が生まれてくるでしょう。1つには、「腹の飢え」からくる“生きたい/生きなければ”という切迫した欲求です。この欲求は、食べ物や衣服、住居などが手に入れば解消されるという意味で物質的な次元のものです。そしてもう1つは、「心の飢え」からくる“人間らしくありたい”という精神的な欲求です。この欲求は個人の尊厳や誇りに属するもので、具体的には、学校教育が受けられる、法律によって人権がきちんと守られることで解消されていきます。

4つの「飢え・乾き」 ~飢餓感が人を動かすが…

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そしてある程度「衣食住」が満たされる社会になってくると、また別の2つの欲求が生まれてきます。「腹の飢え」は「富への憧れ」に変わり、もっと多く食べたい、もっとよいものを食べたい、もっと美しく食べたい、になってきます。この欲求は食べることに限らず、もっとお金を持ちたい、物を持ちたい、名誉を持ちたいなど、所有全般に広がっていきます。一方、精神的な欲求としては、自己の可能性を最大限に開発したい、もっと大きな価値の実現に自分を使いたいという「心の渇き」が出てきます。

さて、現代の日本に生きる私たちにとって、2つの対照的な課題があるように思います。1つは、放っておいても強く湧き起こってくる「富への憧れ」をどう制御していくか。もう1つは、なかなか起きてこない「心の渇き」をどう呼び覚ましていくか。

「富への憧れ」はそれ自体悪いものではありません。個人ががんばって働こうとする意欲の源泉はここに大部分がありますし、資本主義経済を回す基本的な動機もここにあります。ですが、金・物にかかわる“もっともっと”という欲は強力です。1人1人の人間がそれを際限なく追い求めたら、このかけがえのない地球環境が早晩もたなくなるでしょう。

東洋の叡智は、その欲を賢く制御せよということで、「知足」(=足るを知る)の思想を提唱しました。どこまでの欲はよしとし、どこ以上の欲は控えるか、その線引きはあくまで1人1人の人間の自律に任せられるのが「知足」の教え。単に100%欲を禁じ、欲を断ずるよりも難しいことですが、人間や社会がほんとうに成熟化するとは、これができることなのだと思います。

そしてもう一方の「心の渇き」問題。米国の心理学者アブラハム・マズローはこれを「自己実現欲求」と名づけ、「欲求5段階説」の最後5番目にあげています。それだけにここに自分なりの答えを見出していくことは難しい、しかし生涯を懸けて取り組むに値する問題です。

「欠乏を満たす」問題VS「存在意義をつくり出す」問題

「腹の飢え」にせよ「心の飢え」「富への憧れ」にせよ、それは欠乏充足の問題です。つまり、自分に不足しているものが何であるかがわかっていて、それを供給してやれば解決がみえるという問題です。しかし「心の渇き」のみは、いわば存在意義の問題です。自分が腹の底から納得できる“生きる意味・自分の役割・使命観”がじゅうぶんにわかっていない、つかみきれないという渇きです。そしてその答えはどこかにあるのではない。他人から買えるものでもない。自分で創出しないかぎり、永遠に自分を満たすことはない、そういう次元の異なった問題なのです。

こうした自分の存在意義をめぐる渇きは、ただちに生命をおびやかすものではありません。ゆえに「衣食住+職」がとりあえず満たされ、ましてや多量の業務に忙殺される日々を送っていると、ついつい「心の渇き」に意識を向けることがおっくうになるものです。むしろ仕事疲れが増してくるほど、お金で交換できる非日常気分のレジャーや豪華なモノで癒しを得たいと思う。そしてもっとお金が欲しいとなる。で、もっとストレスフルに働いて稼ごうとする……。それは「富への憧れ」がもつ悪い回路に取り込まれた姿です。「富への憧れ」が知らずのうちに「富への執着」や「富を減らすことへの恐怖」に変質し、自分を別の意味で苦しめる。そこからはますます「心の渇き」が遠くなります。

ある人は言うかもしれません───「そんな小難しく人生を考えるな。リゾート地のホテルで、恋人や家族を伴い、美味しい料理を食べながらのんびり過ごすことだって豊かな時間だ。そこで鋭気を養って、休み明けからまた働けばいいのさ」と。私はそうした考えや行動を否定しません。私も実際そうしています(私は山登りに温泉にビールですけど)。しかし、それでは根本的な豊かさを得ることにはつながらないと思うのです。

私が問いたいのは、その豊かさの堅固さです。お金で交換できる癒しや興奮、優越は、消費的であり、もろさを免れません。どんな金持ちであっても、王様であっても、幸せ家族であっても、モノで担保される安心に依っているかぎり、つねに「こんな幸福がいつまで続くんだろう。これを失うときが怖い」という気持ちにさいなまれるでしょう。その点、「心の渇き」に対する答えを見つけ出そうとする作業は、結果的に答えが見つかっても見つからなくても、それ自体、創出的であり、堅固な豊かさです。そうした堅固な豊かさを得ればこそ、ときどきに楽しむリゾート地での非日常イベントが、よりいっそう自分を蘇らせるものになるのだと思います。

「人間とは意味を求める存在である」と言ったのは、ユダヤ人精神科医ビクトール・フランクルです。彼は第二次世界大戦下、独ナチス軍に捕まりアウシュヴィッツ強制収容所に送り込まれました。そのとき書物にして出版するつもりでいた原稿が軍に没収されてしまいます。フランクルは収容所のなかで、ここを何としても生き延びてもう一度原稿を書きなおそうと決意します。それでその生きる意味こそが、自分にあの凄惨極まる収容所で耐え抜く力を与えたのだと語ります。であればこそ、次の彼の言葉は深く重い内容を含んでいます。

───「人間が幸福を追い求めれば追い求めるほど、ますます彼は幸福を追い払ってしまうのです。このことを理解するには、人間は結局のところ幸福を目標にしているのだという先入観を克服しさせすればよいのです。つまり、人間が実際に欲しているのは幸福であることの根拠を持つことなのです。……幸福は追求され得ない。それは結果として生じる」。 (『意味への意志』より)

幸福への根拠を持つために、いろいろと考え、行動し、もがく。そのプロセス自体が、実は後から振り返ってみてわかる幸福なのだ、これがフランクルの叫んだ主張です。私もほんとうにそう思います。だからこそ、「心の渇き」に真正面から向き合うことは生涯を懸けてやるに値する奮闘なのです。

大きな生き方は「大きな生き方をする人」からしか学べない

「心の渇き」が大事なことはわかる。けれども飢餓のない平穏で多忙な生活のなかでそれをどう起こせばよいのか───そんな質問もしばしば受けます。

例えば私自身は、「ロールモデル」(模範的存在)に多く触れるようにしています。強く、大きく、深く、高く生きている人と、自分とのギャップを感じることです。例えば、野口英世は自らの命を犠牲にしながら細菌研究に明け暮れた。マハトマ・ガンジーは強靭な意志の「NO」を貫き民衆を率いていった。岡本太郎は強烈に自己を爆発させ、他に媚びることをいっさいせず、そのエネルギーを作品に変えていった。そうした生きざまに刺激を受けることで、じゃぁ自分は何に生きるんだ、いまの生き方は生ぬるくないか、自分の能力を使って世の中に何の価値をぶつけていくんだ、とそんな心理モードになってきます。それが実に「心の渇き」が起こった状態ではないかと思うのです。

サラリーマンの間では、夢とか志という言葉が死語になりつつあります。仕事量とスピードが増す日々の業務現場。目標数値を達成せねばならないというストレス。不機嫌な職場での人間関係。多くのサラリーマンはともかく疲れていて、「心の渇き」とか「大きな生き方」「夢・志」とか言う前に、日々の自分をどう継続していくかだけで目一杯な状況があります……。「しかし、だからこそ!」と私は声高に主張したいのです。だからこそ、心の渇きを起こし、大きな器で構えなければ、ほんとうに健やかで朗らかな仕事人生は送っていけない、と。

最後に、フランクルの言葉をもうひとつ。

───「人間にとってまず第一に必要なものは平衡あるいは生物学でいう“ホメオスタシス”、つまり緊張のない状態であるという仮定は、精神衛生上の誤った、危険な考え方だと思います。人間が本当に必要としているものは緊張のない状態ではなく、彼にふさわしい目標のために努力し苦闘することなのです。彼が必要としているのは、是が非でも緊張を解除するということではなく、彼によって充足されることを待っている可能的意味の呼びかけなのです」。 (『意味による癒し』より)

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